地点『光のない。』

◎直示の倫理について
 よこたたかお

 本論考では、三浦基演出のイェリネク『光のない。』を扱う。本作品で用いられた演技術に焦点を当て、劇場倫理・表現の倫理について考察していく。分析の細かいところは、上演の回ごと・観客の視点ごとに違っていても不思議ではない。ご理解いただければ幸いである。

 2014年10月10日から13日、KAAT神奈川芸術劇場にて地点によるエルフリーデ・イェリネク『光のない。』が上演された。同作品は2012年の再演で、京都でも10月18日から19日に上演された(フェスティバル「KYOTO EXPERIMENT 2014」、京都芸術劇場 春秋座にて)。演出は三浦基。

 イェリネクの作品は『光のない。』の他に、日本では既に2012年にフェスティバル/トーキョーにて『レヒニッツ(皆殺しの天使)』(演出:ヨッシ・ヴィーラー)、『雲。家』(演出:鹿島将介)、『エピローグ?(光のないII)』(演出:高山明)が上演されている。2013年、これもまたフェスティバル・トーキョーだが、小沢剛と宮沢章夫も『光のない。』を演出している。

 劇は徐(おもむろ)に始まる。客席は明るいままだ。前舞台に出てきた俳優は「わたしたち」「あなたたち」という二語を使った遊びを始める。指で何か(対象はあってもなくてもいい)を指して「わたしたち」「あなたたち」と発語する。
 一体何をしているのか分からない観客もいただろう。芝居の一部なのか、余興のようなものなのか、どちらとも判断がつかない。追うべき物語もなければ、熱心に見るべきメッセージもない。スポーツのトレーニング風景を見せられているようだ。ともすれば、公開リハーサルのようでもある。
 この軽妙な印象は、雰囲気にもよるだろう。前舞台は歪んだ台形になっており、上手側が少し客席側に張り出している。エリザベス朝の舞台、オープンエアー風のダイナミックな舞台を想起させる。
 芝居を見るために身構える必要はなかった。例えば、音楽が盛り上がりながらゆっくりと客席が暗くなっていったり、緞帳が開くといったような。これから芝居が始まるのだという気持ちを準備する必要はない。会場に入り、座席に座っていたら、勝手に俳優が入ってきてゲームを始める。特に舞台に集中する必要もなさそうだという心持で、私は座席に座っていた。

 ホールの天井は高い。普段、暗い観客席に座っていると舞台上に集中して、あまりそのようなことを考えないのだが、客席が明るい分、劇場の天井が高く感じられた。私が後方の座席で見ていたせいもあるかもしれない。だとすれば、前方、もしくは最前列で見ていた観客はこのような「広さ」を感じなかったかもしれない。
 俳優は舞台上をある程度自由に動き回っており、観客は視点を固定させる必要がなく、客席後方からは劇場全体を見渡すような散漫な視点を持てたからだ。俳優が指を上手に指せば、私は上手を見ただろう。俳優が前方中空に指を向ければ、神奈川劇場大ホールの広い中空を見ただろう。声は中空を満たし、天井に跳ね返って、客席後方まで響いてきた。
 五人の俳優のうち、二人がダイビングスーツを着て、足ひれを付けているのを不思議に思った。六人目の俳優は途中から出てくるが、半透明の白の合羽を着ていて、これもまた不思議だと思った。なぜ、彼は雨も降っていないのに合羽を着ているのだろう、と。大の大人がどこか指を指しながら「あなたたち」「わたしたち」と呼び合うゲームを見ながら、「これは演劇なのか」と(月並みな)疑問も浮かんできた。「私は不思議なエンゲキを見ている」、そう心の中でつぶやいた。私たちが見せられているものが演劇なのかどうか、はたまた芸術と呼ばれる類の何かなのか。素直に疑問を抱きながら、俳優たちの所作を見ているのは心地よかった。

 客席が暗くなる。<劇>が始まる。この戯曲『光のない。』は第一バイオリンと第二バイオリンの対話から成っている。それぞれの台詞は非常に長く、ほとんど独白のようになっている。三浦基はこのテクストを六人の俳優に振り分け、構成をしている。冒頭の「わたしたち」「あなたたち」ゲームは、戯曲にはない。
 上演を時間軸に沿って書くのは少し難しい。出版されているテクストとも大幅に変わっているので、上演に関する記述は私のメモによる印象で代替したい。「あなたたち」や「わたしたち」など多用される単語は一定の音程、リズムで発語される。例えば「わたしにはあなたの声がほとんど聞こえない、どうにかしてほしい。あなたの声を響かせてほしい。わたしはわたしを聞きたくない。」(白水社版、九頁)の場合「わたし」が文全体を区切り、抑揚を作ることになる。同じことは音にも言える。「佐藤」の「さ」や「わたしが」の「が」など。そこにどのような厳密なルールがあるのかは筆者には推測つきかねたが、台詞は多くの場合、一定の拍で読まれる。だから繰り返される音、単語の抑揚が台詞回しの音楽性を決定している。
 「あなたたち」「わたしたち」ゲームから、定期的に拍を取る台詞へ。「あなた」と「わたし」以外にほとんど意味らしい意味が出てこないので、「あなた」と「わたし」の意味は崩壊している。ゲシュタルト崩壊した「a-na-ta」と「wa-ta-shi」の刻むビートに、私は静かに酔っていた。
 姓が列挙される(これも戯曲にはない)。「佐藤、伊藤、横田、ウィリアム……。」そこに「横田」の名前があったので、私ははっとしてしまった。まるで自分の名前を呼ばれたかのように。ゲシュタルト崩壊した「あなた」は「横田」によって再び意味を取り戻した。「あなた」とは「わたし」のことである、と。
 「わたしは何も聞こえない」「わたしは第一バイオリン、だが何の役にも立たない」……第一バイオリンは何も聞こえないし、役には立たないらしい。バイオリンなのに、音を奏でることも聞くこともできない。音が存在しない世界とはどのような世界だろうか。俳優が読み上げる台詞によって、その聾唖の<主体>が目に浮かぶ。だがこうも言う「わたしたちはなにも聞こえない、叫ぶ者も、救いを求める者も聞こえない」。「わたしたち」とは誰のことだろうか。第一バイオリンがつばを吐きかけるところの人物か、それとも観客席に座っている私たち自身のことか。さらにこうも言う。「彼らはまだ始めていないのかもしれない、半減期に向かってないのかもしれない。」時折出現する「ガイガーカウンター」「光」「反応炉」「工場」などの単語は、福島第一原発事故を想起させた。原発事故について言っているのかもしれないし、そうではないのかもしれない。浮かぶイメージを何と結びつけるかは、観客に委ねられている。
 光‐視覚と、音‐聴覚にまつわるイメージが想起される。「聞こえる」「聞こえない」「見える」「見えない」。そう、登場人物は二つのバイオリンなのだ。俳優六人によって上演されるバイオリンの対話。「あなたは何も分からない。私は何も分からない。」途中でそうも言っていた。視聴覚だけではなく、知性すらも存在しない世界。そんな世界があるのだろうかと私は考えた。……もしかしたら、バイオリンはそうやって世界を知覚しているのかもしれないし、イェリネクの他の戯曲を読んだことがある観客は、動物よりも低級な人間に対する、この劇作家風の当てこすりに感じられたかもしれないし、繊細でニヒルな観客は現代人の振る舞いを想起したかもしれない。理解不可能性。理解することの難しさを伝えたい芝居なのかもしれない。そして、「わたしがいいたいのは……ギャー。」安部聡子は叫ぶ。
 幕が上がってからの構成は単純(単線的)で、洗練されていた。「現代オペラ」とチラシに形容されているが、その正当性も分からないではない。特に意味を追わずとも時間に身を任せていれば良いようなものでもあった。台詞が一定のリズムで発語されていることと関係があるのかもしれないし、音楽監督の三輪がそのように音楽的な要素を整理したからかもしれない。ましてや、第一バイオリンと第二バイオリンのお話である。対話は限りなく俳優から乖離しており、もし登場人物について想いを馳せるならば、台詞は(登場人物の)行為ではなく、言葉を媒介にして没入しなくてはならない。発語の音楽的な美しさは、劇場空間との調和を生み出し、登場人物の抽象性を正当化する。それは、仮に俳優の扮する人物でなかったとしても、観客が想起する登場人物である。しかも、美しく神秘的な。「オペラ」と先に言ったが、音楽的な空間の調和、単線的な構成といった観点からすれば、「悲劇」ないし「古典悲劇」と言った方が適切かもしれない。また、モダニズムのオペラを想起した。幾何学的な抽象性の美しい作品である。

【地点『光のない。』2014年10月 KAAT神奈川芸術劇場 撮影:新良太】

 舞台装置は、舞台中央に向かってすぼまっている白い壁と床で、八百屋舞台になっている。モダニズム風の巨大な四方の壁は圧巻である。俳優が奥に入れば、当然声は小さくなる。また、後ろを向けば声はくぐもって、よく聞こえなくなる。前舞台に立っている時と、舞台奥に立っている場合とでは大きく声の響き方が異なっている。
 照明は、アドルフ・アッピアの照明案を想起させるような、これもまたモダンな照明になっていた。色をつけたりせず、ラインだけで空間を区切る。抽象的な装置に合う、抽象的な、直線を多用した照明であった。
 意味らしい意味としては、合羽姿の男、拾っては落とすバイオリンなどが挙げられる。
 コロスは足だけを出して前舞台と舞台の間にいる。オーケストラの位置として正しい位置である。けれど、穴は舞台に向かって開かれている。コロスの合唱は低く、声明のようなものである。恐ろしく威厳があり、不安な気持ちにさせる。音響的に素晴らしい効果を発揮していた。
 断続的に現れるヘリコプターの音。音響的であり、指示的である。
 「PiriPiri」と言われる電気ショックによる音響システム。鈴を持った人体に装着し、電気ショックを与えることで一斉に鈴が鳴るシステムである。装置を開発した三輪に倣って言えば、恐ろしく合理的な音響であり、非‐人道的な楽器である。「たとえ彼が今、死んでいても同じように鈴は鳴るだろうという妄想」(当日パンフレットより、三輪眞弘)は観客席から見ても十分に魅力的だった。
 <主体>の不明瞭なバイオリンについて考えさせられながら、つまり「聞こえない」し「見えない」し「分からない」ような<主体>は、どのような世界に生きているのだろうかと考える。もしそれが私たちのことを指しているのだとしたら一体どの程度私たちは動物化され、情報に対して盲目にさせられているのだろうかと。福島原発事故を想起させられる。PiriPiriというファンタスティックな装置にワクワクさせられる。安部聡子がこう言って、舞台は締めくくられる。

 「判決が欲しい。あなたたちの判決が欲しい。」

 カタルシスがあるにはあった。けれども同時に、この台詞の意味を真面目に考えなければならないと私は思った。拍手があり、俳優とスタッフが頭を下げ、幕が下りる。客席が明るくなると、不意に石田大が舞台上に現れて、戯曲の一編を朗読する(どの台詞かは忘れてしまった)。公演終了後、劇場の外でポストトークを行うとの呼びかけである。私たちは待ち望まれている「判決」について話をするべきなのだ、と私は思った。ポストトークには私は行かなかったのだが、名残惜しさに後ろ髪引かれながら劇場をあとにした。

舞台における直示deixisの機能

 議論に移ろう。
 三浦は『光のない。』を演出する際に、イェリネクのテクストに「わたしたち」と「あなたたち」が頻出することにヒントを得たようである。地点の俳優たちは一ヶ月の間、「あなたたち」「わたしたち」を使った練習をしている(「CHITEN×KAAT | 特集09 | 対談」より、以下「対談」)。

この練習が恐らくは幕開きの場面になっているのであろう。「わたしたち」「あなたたち」の二語は終幕まで特異な語として扱われていた。

 「わたし」や「あなた」「これ」「いま」「ここ」など、対象を直接的に示す言葉を「直示deixis」と言う(用語法が定着していないので、「指呼表現」「指標語」や「前方照応表現anaphore(前ana+保つphore)」と言ったりする)。
 「あなたたち」「わたしたち」ゲームは直示の言語ゲームである。「あなたたち」「わたしたち」は舞台上の身振りによって意味内容が変化する(観客、俳優、架空の人物など)が、言葉の形それ自体は意味を持たない。言葉は単に音素的に分解・還元され、意味は身振り(発語を含む)によって取り囲まれることになる。
 だからといって意味が消滅するわけではない。委ねられる意味の伝達が非言語的になるというだけで、指示されている対象それ自体への指向性はまだ残ったままだ。その意味で、身振りによる指示は言語以上に、指示対象を抽象的・数理的にする。身振りが意味内容を失う時もあるだろう(例えば、「あなたたち」の中の「あ―」は、「―なたたち」と切り離されて発語された時、意味を一時的に見失う)。指示対象は固定されて舞台上に与えられず、身振りや音素などの言語の表面=発語によって操作される。そのルールを基に(「あなたたち」「わたしたち」の)直示は遊びになる。
 冒頭の場面で私の感じた気楽さを言い換えれば、(社会的に)流通している記号の意味内容が剥奪・分解・入れ替えられることの遊戯性特有の軽さ・抽象性にあるということになる。「果たしてこれは演劇なのか」「一体私は何を見ているのか」「ここは本当に劇場なのか」と、一旦芝居を見る態度の変更を余儀なくされる。と同時に、瞬間的に平易なルールを理解する。要するに、そこは劇場でなくても良いというフラットさと、ここが劇場であり、これが演劇であるという確固たる事実に対する疑いが、私に気楽さを与えたのである。だからこそ、俳優の着ている衣装、会場の天井の高さ、客席のすわり心地の良さ、周りの観客の反応などが目に付いた。一度、目の前にある素材を分解してしまう。これが遊びの喜びではないだろうか。

 三浦は自身の著書で、直示表現を演技論として解釈している。

「(デヴィット・ハロワー『雌鳥の中のナイフ』の戯曲に出てくる「わたし、<畑>じゃない」について)観客は、一方的に<わたし>の否定を聞くのではなく、<畑>という情報を受けながら、<わたし>についての監査を始めるのである。このとき、俳優は自らの体を担保とすることで、観客の視線にさらされながら発語することが可能になる。
 「言えない」台詞とは、つまり俳優が見られることを前提としないものであり、言葉が俳優の姿を必要とすることなしに単なる手続きとして音声化されるとき、その台詞は「聞こえない」のである。「言えない」と思っているのは、俳優ではなく、見る者なのだ。」(『おもしろければOKか?』一六から一七頁)

 俳優は観客に懐疑を生み出す限りにおいて「見える」。つまり、舞台が成立すると三浦は考えている。もちろん、二〇一〇年の時点で三浦が考えていたことと、現時点で演出として課題にしていることに違いはあるだろう。懐疑による観客‐俳優の成立は、『光のない。』でも同様の手続きが取られていたように思う。
 この点を、簡潔に三浦はこのようにも言う。

「言葉自体のもっている質が(…)俳優の主体性を疑いつつその存在を担保にする。」(前掲書、二六頁)

 「俳優の主体性」は、言葉を契機に否定され、観客に懐疑を生み出し、「存在を担保に」することで観客―俳優の関係として再構成・再定位される。これがスキーム(図式)だ。細かいことをいうようだが、この「担保に」という俳優の舞台上でのあり方が直示的なあり方である。それはただ、言葉として発せられていないだけである。俳優の身体が舞台上で「担保に」されている限り、俳優の存在は自らの軽さを失わずに済む。逆に言えば、言葉を「担保に」してしまえば、言葉のあまりの軽さから俳優は舞台上から「見えなく」なってしまうということになる。社会的に流通する記号を基に演劇作品は作れない。それは「演劇」作品ではないと三浦は考えていることになる。「私は、物語を嫌っているのではない。しかし、それは「制度」であることを素直に認めなければならない。そして、演劇はそうした「制度」を疑うことから始まるはずなのである(前掲書、一二四頁)。」
 フィクションの契機は疑いである。もっと言えば、それは言語である。俳優の身振りは「これは俳優か?」という疑問を観客に与える。台詞としては「わたし、畑じゃない」であるが、身振りが示すのは「私は俳優である」だ。否定の表現が、存在論的な肯定の表現となっている。だからこそ、もし観客が目の前にいる<何者か>がロミオやジュリエットであることを望むなら、「あなたはなぜロミオなの?」という疑問への答えが「私はロミオである」という存在の肯定となっていても良いのである。
 存在への懐疑的アプローチは、撞着語法(トートロジー)によって行われる。俳優とは何か、俳優という存在はありえるか。そんなことは恐らく誰にも分からない。「俳優とは○○である」とか「○○は俳優である」とか、実在的に存在しない主体を、舞台上の実在で代用する。俳優は<何者か>を到来させるための行為者であり、俳優の技術はここでは社会的な虚構性を論理的な虚構性へと変換することにほかならない。「目の前にいる者は何者なのか」という懐疑を生みだすことで、俳優という存在を定位する。これは「俳優とは何か」という疑問形が生み出すフィクションである。言い方を変えれば、疑問形それ自体が形作るということなのだ(ラテン語の「虚構fictio」は「形作るfingere」から来ていることを思い出されたい)。

 俳優がいかに舞台上で成立するかという点に関しては反論がありえるだろう。例えば、言語や記号に還元できない身体を目の前にしたとき、観客は本当に疑問形で問いを立てるのか。もっと純粋に、観客は理性的に還元できない水準で俳優の演技を知覚しているのではないかという反論。確かに、こうした反論は上演を記号論的に読解することへの限界を示してきた。私はそれに賛成である。だが一方で、還元できない記号(意味作用)などというものがあるとして、もしそれが言語的・記号的ではないだけで分析可能だとすれば、やはり分析は進めていくべきだろう。クリステヴァがいみじくも身振りの動作学(キネティック)的モデルを提示したにも関わらず(半世紀も前に!)、上演分析においてこの分野はほとんど発達してこなかった。身体が言語学的に機能していなくても、社会学的、生態学的、身体感覚的に機能しているならば、分析は可能である(参照: « Le geste, pratique ou communiation? », 1968, Langages, vol 10. )。

 問題は複雑だ。技術的な側面から説明しよう。

「(チェーホフ『三人姉妹』において)演技の実質的な中身とは、ソーニャがワーニャを蹴飛ばすように、俳優が「批評性」を持つということだと私は思っている。(…)俳優の突出した「批評性」が現れるとき、俳優の「役」との距離が初めて見えることになる。」(前掲書、四二頁。)

 「俳優の突出した批評性」が肝である。三浦の考えに従えば、俳優は身振りとして何か抽象的・論理的な対象を意味(指示)しつつも、言葉としては否定形を取るような技術が必要となるということになる。意味それ自体を否定するような身振り、意味に対抗するような身振りによって肯定的表現をするような技術と言えばいいだろうか。回りくどいようだが記号論の用語を使えば、シニフィアン(意味作用)の剰余(意味にまで還元されていない、到達していない音素や身振り、舞台空間)をシニフィエ(意味内容)と切り分け、剰余によって時間と空間を構成し、物語=戯曲を再構築するということだ。俳優に求められているのは、(記号の)剰余を知覚することであり、剰余の還元されない理解不可能性によって、自己の存在や役柄、物語といったものを宙吊りにし、引き裂かれた状態でい続けることである。
 引き裂かれた状態でい続けるといっても、全的に引き裂かれるということは不可能である(全的に引き裂かれるというのは語義矛盾である)。そこで技術が必要となる。選択と集中を行う技術である。どの剰余に目を向けるか。そこからどんな価値を引き出してくるか。それは稽古場でしか分からないだろう。社会が価値を与えないその剰余から意味を取り出してくること(反論もあろうが、やはりそれは「意味」である)、それは創造的な活動と呼ばれる。だから、地点は「あなたたち」「わたしたち」ゲームのような専門性の高度に発達した技術の習得に時間と労力を掛ける。

 「あなたたち」「わたしたち」は、以上の過程を経て一度解体された。ここにいる観客が何者なのか、舞台上にいる俳優が何者なのかという疑問を十分に呈した上で、『光のない。』は始まる。本編は「あなたたち」「わたしたち」の主語・述語に何が当てはまるのか、それを検証する作業である。
 「あなたたち」「わたしたち」は、幕開きから閉幕まで、ずっと同じ言い方で保たれている。「あなたたち」「わたしたち」は懐疑したまま固定せよ、という指示・命令である。舞台上の俳優に語り掛けるように「わたしたち」と言うわけでもなければ、観客に語り掛けるように「あなた」と言うわけでもない(その場合は差異化されて発語された)。「あなたたち」「わたしたち」のゲシュタルト(形)は、同じ調子で連発されるために、ずっと崩壊したままであり、その崩壊した場所(客体・述語)に意味を埋めていくということが観客の役割であったように思う。「わたしたち」「あなたたち」とは何なのか、と。
 第一バイオリンと第二バイオリンの形象は、「見えない」「聞こえない」という動詞によって作り上げられていた。イェリネクの戯曲がそもそもそのようなものだからかもしれない。耳の聞こえないバイオリンという登場人物は時に安部聡子となった。そして、私(=観客)の中で、聴覚を持たない楽器の人生というものがどのようなものなのかを想像した。それはもしかしたら、感覚を持たない人間ということなのかもしれないなと思い、感覚することができない被害を受けている人たちの苦しみなのかもしれないなとも思った。苦しみを感じることができれば声を上げることもできるし、理解もされようが、感覚できない苦しみというものがあるとすれば、それは誰にも理解できないし、声すらも上げることができないかもしれない。そうだとすれば、それは大変な苦しみだと想像した。
 俳優が指示する「あなたたち」も、観客席に座っている観客のことを意味しているような気がすることもあれば、日本人一般、原発事故をなかったことにしようとする政治家たち、事故を忘れようとする哀れな個人など、様々な意味が与えられ、変化していった。「あなたたち」の意味内容を同定しないようにするために、俳優は発語に距離を取らなければならない。厳密な定義などは存在しない。観客が思い思いに言葉から自身の経験を引き出してくることが必要だ。このために必要となるのは、俳優が非言語的な要素によって意味を限定しないことである。この点、三浦は明確な指針を持っている。「言葉とはそれ自体イメージの広がりを持っているのであり、単純に言えば、誤解の連続だということだ(前掲書、四九から五十頁)。」『光のない。』においても、この点は成功していたように思う。「あなたたち」一つとっても、文脈や語の組み合わせによって様々な意味を受け取ることができるようになっている。単に語の破壊を目指しているというよりも、イメージの広がりを丹念に拾っていく(厳密に言えば、意味を限定することになる)ような印象を持った。それはイェリネクのテクストが元々持っていた資質かもしれない。谷川は言う、「(『汝、気にすることなかれ』について)イェリネクの作品が、自己言及性、女性性、オーストリア性などを綯い交ぜながら、しかしパーソナルなディテールを視野から離すことなく織り込んで、諸々のことを想起・思考喚起させる間テクスト性の引用の網の目になっているのは、まさに現実がそうなっているからではないだろうか。」(谷川道子、「それでも気になる「死の三部作」より」、二〇〇六年、一四九頁。)余談だが、谷川のこうした図式に従えば、三浦が二〇一四年九月一四日版のビート・チラシで「酔え! 私たちのリアリズムを獲得するために。」と書いているのも、的外れなことではあるまい。もし仮に、林立騎が『光のない。』の「あとがき」で書いているように、イェリネクの戯曲が「どのような『声Stimme』を聞いているのが『わたしたち』か」「どのような『声』が『わたしたち』に含まれるか」(林立騎、『光のない。』、「あとがき」、二五二頁)を問い正しているのだとすれば、「わたしたち」「あなたたち」の語に含まれるイメージの広がりを拾い上げる形で演出しなおした三浦のやり方は、ある意味では「正当な」「全うな」もしくはイェリネクのテクストに「ピッタリ合う」ものだったと言えるだろう。

 ここから私は分析を始めたい。なぜなら、三浦版『光のない。』において身振りを取り囲もうとする手つきは社会学的でもなければ、生態学的でも、動作学的でもなかったからだ。それはどのようなものだったか。それは倫理的な枠組みだと私は仮説を立ててみたい。

劇場の倫理

 『おもしろければOKか?』からはじめよう。

「結局は、演劇が作者の「言いたいこと」を代弁しているという構造を持っていることを否定できない。俳優が演説をするということは、演劇そのものであると言えるのではないか。そういう力を演劇は潜在的に持ち合わせているのであり、非常に政治的な行為だといえる。ここでいう政治とはいわゆる政治ではない。私が政治的とここで呼んでいるのは、言葉そのものが「取り引き」の対象として扱われているということである。言葉のやり取りということがよくいわれるが、まさに政治的言語は、言葉を取り引きしているのである。その言葉によって言論を生み出し、社会が制度化されてゆく。あえて言うが、演劇ができる役割がもしあるのならば、その制度化される様子を徹底的に直視することではないだろうか。演劇は政治的であるが、いわゆる政治とは相容れない場所に孤立しているというのが現時点の私の見解だ。」(前掲載書、五八頁。)

 これはよく考えると、社会に対して受動的な演劇観である。「あえて言うが」と断りをつけてはいるものの、結局のところ「見る」ことしか劇場には役割がないと割り切っているとも言える。実際のところそうかもしれない。劇場は語源からして「見る」場所という程度の意味だ。「徹底的に直視する」場所としての劇場。社会に対して運動性を持とうとすることや、観客に訴えかけるようなことは想定されていない。「政治的」と言っても、アジテーションをする演劇ではなく、政治的な態度を審級する場として劇場が構想されている。

 『光のない。』の上演にあたって、二つの倫理が問われている。一つ目は言葉の節度である。
 初演時、フェスティバルと震災を扱うにあたって、三浦は「福島」という単語が出てくるような戯曲かどうかを問題にしている(「対談」より)。これはテーマの問題というよりも、表現の問題である。なぜ原発をテーマにしておきながら、「福島」という単語を出してはならないのか。もしくは、出したくなかったのか。三浦が詳細に語っているわけではないので、これ以上は推測するほかないが、私見を交えて言えば、震災および福島第一原発事故について、まだ語るべき時期ではないということだろう。とすれば、一体いつが事故を語るべき時期なのか。百年すれば明示的に「福島」と名指すことは、節度を保っていられるのだろうか。例えば、千年以上の前の源氏と平氏の争いについてはどうだろうか。もっと前のポンペイの滅亡について語る場合はどうだろうか。
 先に引用した三浦の見解に立脚すれば、「福島」という単語を使わない/使ってはならないという倫理が発動したのは、この単語を取り扱うことが社会の制度化を含んでいるからだということになる。そして、この語を使用しないことによって、社会が制度化される様子を批判的に眺めることが出来るということになる。具体的に言えば、原発事故に付随するあらゆる政治性――もっと言えば個々人の感情・共感の度合い――が強すぎるために、イエスかノーかという判断をすることはまだ早い、判断は留保しなければならなのである。
 少しテクストの解釈に寄りたい。発話の主体が人間ではない(バイオリン)こと、演出的操作によって主体が特定されず分散されていること、話題にしている対象が不確定であること(「福島」という単語は出てこない)、ただ手段と結果だけが明瞭であること(ガイガーカウンターを使用している、音が聞こえないなど)。事態だけが明白に分かっているが、主体と客体が曖昧で、誰が何について語っているか分からない文体。存在が誰であるかが分からず、ただ存在の置かれている状況だけが分かりやすいという設定。これは上演の倫理という観点から言えば、明言的な政治性を避けていると解釈することが出来る。これについて二つの解釈が可能だろう。①明確な政治性は演劇の目的ではないという解釈。そして、②明確な政治性は劇場では検閲される恐れがあるという解釈。
 確かに、演劇は政治的言説を披露するメディアではないという美的な立場に地点もいるということはできるだろう。三浦の言う「政治性」は、観照的な態度であるからだ。これは同時に観客が政治的な解釈を好まないことの反映でもあるのではないかと思う。もしかしたら『光のない。』を見て、現代の政治的な問題について反省することのない観客もいたかもしれない。三浦はそうした観客を含むことを許容しているはずだ。

 だがもう一方の極、検閲・政府の介入を恐れていると取ることもできるだろう。むしろ私はこちらの側面を強調しておきたい。公立劇場や助成金を受けている上演に政府の介入が入らないという想定はそもそも不可能だ。必ずしも否定的な意味ではなく、政治的な介入を上演はプロダクションの時点から受けている。それは認めざるを得ない。政治的なスローガンを共有していた時代とは異なって、観客と制作側が「共犯関係」を結んで上演が成立するという状況もいまやほとんどなくなってしまった。内野儀が指摘するように、日本の(東京の?)演劇が政治について語らなくなったというのは、積極的にも消極的にも「公的な演劇」を目指してのことだと考え直してみる。
 この場合、政治的な態度を要求するような言説を公立劇場から避けるのは、一つの美的・倫理的な判断である。イエスかノーかの判断を取らせてしまうような言説は、「言葉のやり取り」を発生させることになるからだ。観照的な客席を成立させるためには、判断を留保させる必要がある。何について語っているのかは明白でも、誰について、誰に向かって語っているのかは、曖昧なままにしておかなければならないのである。もし、イエスかノーかに傾いてしまえば、芸術が国家のイデオロギーに加担するか、芸術が反政府的なイデオロギーを助長することになる。公的補助はいずれの場合も中立ではなくなる。だが、かといって中立であることを装って、観客の(統計項目的な)「満足度」の高い演目を上演することは、生政治を助長させるだけである(ざっくばらんに言えば、そんなものはうわべだけの「満足」で、そんなものに観客は満足なんてしないというだけのことだが)。
 このことは、当日パンフレットの三浦の言葉の中でこのように意識されている。

「演劇は声を獲得しなければならない。」(『光のない。』当日パンフレット、三浦)

 「声にならない声」(死者の声と観客の声)が顕現する場所としての劇場。これが観照的な客席を実現するための劇場である。三浦がすぐに前段で、民主主義とは何かと論じて、「民意は嘘をつく」と続けているのは、戦後民主主義体制が実際的な生活感覚からズレてきているということを想定してのことだろう。もっと言えば、過半数の民意を受けて成立するはずの政党が、いまや国民の過半数どころか、四分の一の数もあれば与党に上ることができるという現状のことである。アンケート調査の言う過半数は、実態的な過半数(そんなものは統計を取りようもないが)とはズレている。ただ、それだけのことである。
 けれど、芸術振興の実情に照らし合わせれば、統計と実態の差は重要な問題である。政府も資金を援助したり、施設を運営する上で統計を必要とする。市民のための施設なので、市民が必要とし、利用して満足するものでなければならない。公立劇場を建設する時に市民向けの意見交流の場がもたれる。けれど、一体どこの市民がそこに顔を出し、意見を提出するだろうか。果たして――例えば神奈川芸術劇場が建設されるとき――観客の多くは建設のための意見交換会に「声」を挙げただろうか。
 これを「検閲」というにはいささか的外れであることは承知している。が、上演は既に政府の介入を受けているというのはそういうことだ。劇場は市民の声を反映する場所として名目上設立されているが、実際的な声は建設後、上演が行われてからしか反映することができない。だから、芸術家が政府の介入を恐れるというのは、必ずしも後退戦を行っているというわけではなく、判断を遅らせるという、まさにそのことによって生政治的な介入を防ごうとしているのである。「演劇をわかるには少し時間がかかりますよ。覚悟しよう。」(『光のない。』当日パンフレット)と三浦が命令口調で言うのはそのためだ。何も「ポストドラマ演劇」が演劇後進国である日本に浸透していないということではない。民意の形成に時間と複雑な手続きが必要だというだけだ。

 このように考えると、二つ目の倫理。公立劇場の倫理という側面が見えてくる。
 三浦の理想とする「本当の劇場」を想定すると、日本の公立劇場は“広すぎる”ということになる。キャパ千人、二千人の劇場ではなく、せいぜい六百人程度が良いと考えられている。当日パンフレットには少し誇張して書かれているが、本多劇場やシアターコクーンは三浦の考える大きさと一致しているはずだ。ただ、これらの劇場が公立ではなく、行政が劇場建設に介入すると規模が大きくなり過ぎるのだと三浦は述べているわけだ。
 ではなぜ、行政が介入すると劇場が大きくなりすぎるのか。これが問題である。三浦はここで西洋およびアメリカの模倣をしてきた日本の文化芸術を批判している。確かにそういう一面はあるだろう。けれども、なぜいまだに大規模のホールが建ち続けているのか。まだ日本は西洋中心主義的な考え方に支配されているのだろうか。もっと現実的に考えるべきである。求められている劇場像が、大規模のサイズのものだからではないだろうか。
 問題は劇場の美的な側面ではなく、採算性である。実際的に採算が取れるかどうかは関係なく、建設にあたっては採算が取れる見込みがあるかが判断基準である。六百人では採算に合わない、だから千人規模にする。それが合理的な判断だ。六百人にしてしまうと、赤字を前提とすることになる。果たして、そんな劇場を政府が積極的に作ろうとするだろうか。ましてや劇場に行かない「市民」たちはそんなものを望むだろうか。千人規模を想定されている「劇場」は、「求められている」劇場であり、それが資本主義・民主主義的な意味での「芸術」であるとして、誰が反論できようか。

 この大規模型のホールは必ずしも「ヨーロッパ的な」劇場のモデルではない。歴史的に言えば、劇場(オペラホール)が大きくなったのは十九世紀初頭からである。最初の運動はむしろ逆だった。これまでの、採算に合わず、貴族の援助を不可避とする劇場の運営に芸術家・俳優たちが声を挙げて、劇場をこれまでの二倍の大きさにすることで黒字にし、俳優を雇用する劇場を続けていこうというのが当初の目的だった(リッコボーニ「劇場の構想とその他の規則」参照)。資本主義化することはイデオロギーから手を切るための積極的な手段だった。だから問題は、「プロセニアム劇場」であるかどうか、という形態的な問題ではない。むしろ、規模が問題である。
 三浦はここで少し誇張をしている。「(我々は)歌でもなく踊りでもなく演劇をまともに見たことがあるのか?」と問いかけているが、ここでいう「演劇」とは「ピンマイクを使わずにその体と声だけで、堂々と(あらわになっている)存在」を想定している。そして、具体例として、肉声が後ろの席まで届くグローブ座やモスクワ芸術座、パリ市立劇場(注:演劇“専用”の劇場ではない)を挙げている。つまり、視覚的・聴覚的な拡張をしないで俳優が観客に情報を伝達できる規模を「演劇」もしくは「本当の演劇」と言っているわけだ。けれども、ギリシア古典演劇、バレエやオペラ、歌舞伎を見れば分かる通り、演技する身体を拡張する舞台表現がなぜ「演劇」ではないのだろうか。歌と踊りがなければ、舞台表現は「演劇」になるのだろうか。
 三浦の批判は、西洋中心主義に由来する(日本の)劇場の近代化ではなく、資本主義・民主主義体制に由来する劇場の近代化ではないだろうか。七十年代に批判された「ハコモノ」「無目的ホール」も、現在まで建設が続いているのは、資本主義的な体制が再び盛り返し(高度経済成長期)、(アメリカからの圧力もそうだが)資本主義的な近代化がより一層加速したからなのではないだろうか。それは、西洋中心主義とは無関係である。アングラ演劇の批判性は、劇場設備としての「プロセニアム」を批判しているのではなくて、規模として資本主義や民主主義の要請に合った(つまり統計的な想定を経た)劇場を批判しているのであって、小劇場にこそ「声にならない声」が顕現したのではないだろうか。それは日本が資本主義体制と国家の目的が世界的に見ても類を見ないほどに一致した、稀有な場所だからこそ生まれた批判なのではないか。
 だから、三浦の主張を改めてパラフレーズすると、採算を見込んで建設されるような規模(千人規模)の劇場では、「声にならない声」は現れて来ないので、質的な満足度を重視した(六百人規模の)劇場が「本当の演劇(=劇場)」であり、この大きさであれば上演の倫理もある程度保つことが出来、公的な時空間つまり観照的な客席が実現可能なのだ、と言うことではないだろうか。

直示の倫理

 もしそうだとすれば、ここに俳優の存在に関する美的・倫理的な問題が浮上する。俳優はいかにして劇場で成立するか。
 先に述べたように、(言語の)否定的な契機によって役柄と俳優の距離を生み出すことで存在を成立させるというのが三浦の取っている立場である。言葉は対象を失って、直示的な身振りは<何者か>を指示する。もちろん、<何者か>は到来しない。観客の思惟に俳優の身体が掛けられることで、<何者か>は予感される。これが三浦の考える俳優の存在論だ。
 この<俳優>は視聴覚的に拡張されてはいない。帰結として、それは統計的な「市民の声」を反映したものではない、つまり「声にならない声」を代理することになる。ここで劇場の倫理は保たれる。裏を返せば、マイクによる声の増幅を「自然らしい」声だと考えるような制度を作り出す劇場は、三浦の倫理に反することになる。政治的な読み替えをすれば、採算が取れる規模の劇場で政治的テーマを扱うことは、道徳的に悪だということである。ここに、「福島」という単語を使わない/使ってはならないという道徳基準が生まれることになる。原発事故に付随する言葉を制度化する(貨幣のように流通する言語として扱うこと)のは「演劇」の役割ではない。少なくとも、「演劇」はそれを斡旋するものであってはならない。援護するものでもなく、糾弾するものでもなく、ましてや中立化を推し進めるものでもない。判断を宙吊りにしておくこと。三浦の価値基準に沿えばそういうことになる。
 地点版『光のない。』で執拗に言語の交換がなされていたのは、直示表現(「わたしたち」「あなたたち」)である。直示の指示対象は時に物語上のバイオリンであり、時に想像上の被害者であり、舞台上にいる俳優であり、さらに客席にいる観客でもあった。「わたしたちとは○○である」という述語に当てはまる部分は多義的であって、時間の経過と共に様々な想定を行う余白が残されている。一方で、主語に当たる部分(「わたし」「わたしたち」「あなた」「あなたたち」)は固定されて発語されていた。頻繁な反覆によってゲシュタルト崩壊させられ、単なる音素でしかないような印象すら覚える。こうなると直示表現は指示対象を失うので正確な意味で直示表現とは言えない。指示対象としての主語(俳優、観客など)は宙吊りにされて、論理的な内容物として観客の頭の中に残る。発語された音素は意味内容にとっては否定的な表現へと変わる。「わたし」と言っている当の俳優の主体性が否定され、曖昧になり、何者か分からなくなる。
 多義的な客体と、客体の意味内容の容れ物としての主体。この距離が俳優存在の成立要件である。この容れ物としての俳優は、いくつかの倫理的な制約の中にいる。言葉を制度上(物語、約束事)で表現しないこと、テーマを悲劇的・喜劇的にしないこと、表現をメディアによって拡張しないこと、衣装(特にスポーツウェア)によって身振りを制限されていること、八百屋舞台と広い劇場によって肉声の届く距離と範囲が限定されていること、一定のリズムに従うこと、電気ショックに従うことがそれである。自己同一性は悉く制限されており、彼らの主体性(「わたし」であること、また役柄としての「わたし」であること)は、多義的な客体の内容物であれるように無意味(空‐意味)になっていた。
 もちろん、俳優が完全に無意味になっていたわけではない。そこには「叫び」もあったし、ある程度の即興も許されていた。制約と個の間で揺れていたところは間々あった。だがそれは、意味を同定するまで振れるわけではなく、身体は様々な意味の間でほとんど宙吊りにされていた。
 判断を留保せよ、そう言っているようにさえ思える。まだ肯定か否定かの判断を下す時ではない。事故の経過を見つめ、「あなたたち」と「わたしたち」にどうやって虚構の客体が代入されるのかを注意深く見つめていなさい。この作品は大震災についての芝居でもなければ、福島第一原発事故についての芝居でもありませんよ、というように。判断はしてはならない、なぜなら事態は目に見えないからであり、言葉によって自分たちの置かれている状況を判断する/させる、自分以外の他人の言葉で判断を下すようなことはしてはなりませんよ、というように、あるいは。

 様々な意味を受け入れる準備段階で立ち止まった状態でいることが俳優の技術であり、演出から要請されている俳優の倫理である。「わたし」(「あなた」においても同様だ)と言っておきながら、否定形として発話すること、「わたし」と身体の間に距離を保つこと。いくら「わたしたち」「あなたたち」と言っても、それはバイオリンでもなければ、震災被害者でも加害者でもない、それは時にバイオリンのように見え、震災被害者・加害者のように見え、また時に観客それ自身のように感じられるだけなのだ。
 俳優は一つの役柄、一つの意味、一つのコードの表象を行ってはならない。それは行き過ぎた表現であり、表現の倫理・俳優の倫理基準を超えてしまう。……伝統的な問題だ。

 どこが行き過ぎた表現で、どこが抑えすぎた表現で、どこが的確な表現であったか。冒頭でも言ったが、それを一々書くことはできないし、個々の判断が可能だろう。
 この判断基準はテーマの選択よりも、(歴史的な)時間の経過に寄っている。「福島」という語を発語すべきかどうかという基準は個々の芸術家の判断というよりも、歴史が近すぎるのか距離があるのかという時間的な距離で決まってくるだろう。だから、林立騎のいう二つの問い(「どのような『声』を聞いているのが『わたしたち』か」、「どのような『声』が『わたしたち』に含まれるか」)は、イェリネクのテクストや三浦の演出に掛けられた問いではなく、歴史的な時間に掛けられた問い――つまり、3.11について語ることが出来るのはいつなのか――であるだろう。時間と共に「わたしたち」は変化する。変化を受け入れ、未来に希望を持ち続けるために、述語部分の答えには余白を残しておこう。私たちはいつまでも被害者ではないかもしれないし、違う国籍の民族に変わってしまうかもしれない。
 統計調査にまだ入ってこないけれど、生活の中で感じる違和感。世相との距離。「声にならない声」はいつか「わたしたち」を変えるかもしれない。もちろん、違和感はずっと続くだろう。それが解消されることはないだろう。けれど、その「声」は待ち望まれている。量が質へと変化して「わたしたち」の内容を変える時が来るかもしれない。――神奈川芸術劇場・大ホールの舞台上で、安部聡子演じるバイオリンは幕切れに叫ぶ。

 「判決が欲しい。あなたたちの判決が欲しい。」

【筆者略歴】
よこたたかお
「演じることの楽しさ、美しさ、喜びを伝える」をモットーに演劇活動を展開。2005年に劇団NUDOを立ち上げ、現在に至る。劇場での作品上演だけでなく、路上などでのパフォーマンス活動も活発。日本劇作家協会会員。
ウェブサイト:yokotatakao.blogspot.com/
* youtube映像>> http://www.youtube.com/user/yokotatakao

【上演記録】

地点「光のない。」
KAAT神奈川芸術劇場(2014年10月11日‐13日)

作:エルフリーデ・イェリネク
翻訳:林立騎
演出:三浦基
音楽監督:三輪眞弘
出演:安部聡子、石田大、小河原康二、窪田史恵、河野早紀、小林洋平
合唱隊:朝日山裕子、石田遼祐、金巻動、黒田早彩、田嶋奈々子、野口亜依子、林美希、圜羽山圜、藤崎優二、幣真千子、村田結、米津知実

美術:木津潤平
衣裳:堂本教子
照明オペレーション:岩田麻里(KAAT神奈川芸術劇場)
音響デザイン:徳久礼子(KAAT神奈川芸術劇場)
音響オペレーション:稲住祐平(KAAT神奈川芸術劇場)
舞台監督:山口英峰(KAAT神奈川芸術劇場)
舞台監督助手:足立充章
PiriPiri隊:大久保雅基、佐藤大海
技術監督:堀内真人(KAAT神奈川芸術劇場)
宣伝美術:松本久木(MATSUMOTOKOBO Ltd.)
制作:小森あや、田嶋結菜

主催:合同会社地点
提携:KAAT 神奈川芸術劇場
製作:フェスティバル/トーキョー、地点
2014年版共同製作:KYOTO EXPERIMENT
助成:芸術文化振興基金
フェスティバル/トーキョー14連携プログラム
平成26年度文化庁芸術祭参加公演

【参考】
『光のない。』について
・『光のない。』、林立騎訳、白水社、2012年
・「CHITEN×KAAT | 特集09 | 対談

ワンダーランド内『光のない。』について触れた記事
・柴田隆子、「観劇体験「KYOTO EXPERIMENT 2014」
・――、「「ことば」の彼方には何があったのか F/Tイェリネクのテクストによる4作品

三浦基の演出について
・三浦基、『おもしろければOKか?』、五柳書院、2010年
・得能想平、「< 小特集> 現代演劇における発語と嘘-三浦基論」、2011年、『京都大学文学部哲学研究室紀要 : PROSPECTUS』所収、1-11頁。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です