KJプランニングス「ザ・モニュメント 記念碑」

◎直接的であることと代行すること
 清末浩平

「ザ・モニュメント 記念碑」公演チラシ1.「ザ・モニュメント 記念碑」

 前置きをしている場合ではない。ただちに私が観たものについて述べよう。
 小さな劇場は壁も床も剥き出しになっている。舞台側の壁際には、廃物めいたさまざまな道具が無造作に置かれており、その内側に、細いひもでアクティングエリアが仕切られている。「私はハッピーだ」と歌う能天気なダンス曲が流れている。舞台奥には配線を露出したモニターがあり、その画面に、世界の各国で踊る人たちの姿が次々に映される。やがて音楽が消え、モニターも真黒になる。男女1人ずつの俳優が舞台に入って来る。「THE MONUMENT/記念碑」という字幕がモニターに映されて劇が始まる。
 

 (シーン1)

 男性の俳優(神保良介)が舞台の中央にパイプ椅子を置き、そこに座る。その手足を、女性の俳優(西田夏奈子)が赤いひもで椅子にくくりつける。モニターに「電気椅子に拘束されているひとりの男。」という字幕が出る。女性の俳優が壁際まで退がり、男性の俳優がしゃべり始める。
 舞台の背景となっているのは民族紛争のある地域のようだ。ステッコという名の男が、戦争中に女性捕虜を23人も強姦して殺し、森の中に埋めた罪によって、戦争犯罪人として処刑されようとしている。電気椅子に縛りつけられたステッコ自身の、不気味なまでにリラックスしている様子の語りから、私たち観客は次第に状況を把握してゆくのだが、その過程は非常にスリリングだ。
 ステッコは様々なことを語る。強姦し殺した女性の中で「一番気に入った」少女のこと、強姦も殺人も軍隊の中で強制されたものであったこと、戦争のこと。ひとつひとつの話題が実感をともなって語られ、現代的でリアルないくつもの難問にふれる。
 作者(コリーン・ワグナーというカナダの現代作家である)はこのステッコの長台詞に、いくつもの重要な主題を盛り込んでいるのだが、このひとり語りの場面はいわゆる「問題意識」ばかりが鼻につく陳腐なものではない。ひとつひとつの台詞が肉感的であると同時に即物的であり、無駄なものが削ぎ落とされているし、ステッコは多くの内容をごく一般的な論理的順序によってではなく、ステッコ自身に固有の内的必然性に沿った順序で語るからである。そして、その内的必然性を十全に身につけて演じているであろう神保良介の姿に、私たち観客は、実際に戦争の中で生きてきたひとりの男を確かに見る。
 むろんステッコは、戦争のことばかりを考えて生きてきたわけではない。たとえば彼は、自分の恋人のことを語る。自分を分析しようとする医者のことを語る。そして「世界」のことを語る。

俺はこの世界のことなんか別にどうでもいい。/(笑う)世界だって俺のことなんかどうでもいいんだから、問題ねえだろ? あっちがおれに興味ないならこっちだって興味はない。どうだっていいや。
俺の彼女は看護婦になる勉強をしてるんだ。この世界に対して少しでも恩返しがしたいって。/俺だってそうしたい。やり方さえ知ってれば。そうしないやつなんかいないよな? やり方さえ知ってればさ。

 こうした無力感とあきらめは、私たちをもしばしば襲うものではないだろうか。極端にいうと、ここまでで劇は十分にアクチュアルである。罪を犯した代償として死に直面させられている男がいる。彼は正しくないことをした。とはいえ、現代の社会あるいは世界が彼にそうするように強いたのであり、彼の身に起こったことは他人事ではない。私たち観客は、その男を自分たちひとりひとりの内に発見しなければならない、というわけだ。そして実際、ここまでで終わる劇は多い。ほとんどの劇が、2時間ばかりかけて、いろいろと複雑に意匠を凝らし、ここまでのことを展開して終わる。もちろん、ここまでのことを展開できない劇も残念ながら多すぎるので、私たちは、ここまでで劇が終わったとしてもそれにとりあえず満足することに慣れさせられすぎている。
 しかし、この劇はまだ始まったばかりだ。
 女性の俳優がアクティングエリアに入って来る。メイラという名の女性の役だ。メイラは「お前の救世主」と名のり、「私はお前を釈放することができる」と言う。

ステッコ「自由にしてくれるのか?!」
メイラ「条件がある。」
ステッコ「どんな条件?」
メイラ「この先死ぬまで私の言うことに従わなければならない。」

 メフィストフェレスの誘惑を思わせるこのやりとりから、劇は動き始める。メイラを演じる西田夏奈子は、力強いがきわめて簡潔な演技をしており、まだまったく手の内を明かさない。私たち観客はこの場面を観ながら、ある種の抽象性をもった寓意劇が始まるのだろうと予想する。ステッコはメイラの提案を受け入れる。

 (シーン2)

 その夜。場所はメイラの家の前(屋外)であることが、モニターの字幕で示される。メイラはステッコに食事を与え、ステッコが獣のようにそれを貪る、その非常に肉感的な演技から場面が始まる。
 鎖につながれたステッコはメイラと会話するが、メイラの簡潔な言葉は、ステッコが自分の文脈を作ることを許さない。メイラがステッコを釈放させ引き取った目的も分からない。2人の会話は不条理劇めいたものになる。
 メイラは「本当のことを話せ」と言う。ステッコが半ばおどけてはぐらかそうとすると、メイラは突然、鎌(舞台上ではハサミがそれに見立てられている)でステッコの耳を切り落とす。メイラは「口答えをしないこと」と命令し、「お前が倒れるか、私の腕が動かなくなるまで殴り続ける」と言って、淡々と暴力を振るい続ける。ひとつ殴るごとにメイラも痛みを感じ、疲弊してゆくが、それでもまるで義務であるかのようにメイラは殴り続ける。
 この長い暴力の場面を観ながら、私たち観客は、おそらくメイラが何かの(それがステッコの強姦と殺人であることは間違いないのだが)復讐を行っているのだろうと推量することができる。私が連想したのは、ホメロスの『イリアス』の中で、親友を殺したヘクトルの遺体を傷つけ続けたアキレウスだった。
 やがてメイラは疲労しきって殴ることができなくなり、ステッコは膝をつく。

ステッコ「なんでこんなことするんだ?」
メイラ「お前が嘘と本当の区別もつかないから。」

 そしてメイラは、ステッコの恋人が撃たれて殺されたとステッコに告げる。ステッコは突然告げられたことに動転し、「嘘だって言え!」と叫ぶ。メイラはすぐに「嘘だ」と言う。ステッコには、メイラの発言の真偽が判断できない。混乱したステッコを屋外に残し、メイラは寝るために家の中に入る。

 (シーン3)

 メイラがステッコに牛鋤を曳かせ、戦争によって荒廃した土地を耕させている。メイラは「この土がなんとかならなきゃ二人とも飢え死ぬよ」と言う。メイラもステッコと同じく、極限的な状況の中で生きているのだということが、私たち観客に伝わる。
 過酷な労働をしながら、ステッコとメイラは会話する。ここでも話題は多岐にわたる。メイラの台詞はそれぞれ短く、また、彼女を演じる西田の演技は謎めいた厳格さを見せ、ステッコを翻弄してゆく。ステッコは、強姦し殺した女性たちについて「覚えてない」と言い、名前も知らないと言う。また彼が、戦争の責任を自分の責任だと感じていないことも、この会話から(あらためて)分かる。
 このシーンにはもうひとつ注目しておくべき点がある。メイラはステッコに命令を下し、「これは独裁制なんだから」と言うのだが、西田の厳格な演技はここにきて、まるでスターリンのような絶対者の人物像を浮かびあがらせるのだ。実際、「独裁者」に関するステッコの台詞(「嘘だとわかってても、信じるしかないんだ」)には、スターリニズムを思わせるものがある。もうひとつ例を挙げよう。メイラは、ステッコが持ち上げた岩をステッコ自身の足に落とすように命令し、「でなきゃ生き埋めにする」と言う。ステッコは「これのどこに意味がある?」と訴える。それに対してメイラは、「お前が選べるところに」と言うのである。(結局このシーンの終わった後に、ステッコは岩を自分の足に落とし、ひどい怪我をすることになる)
 メイラがスターリンになぞらえられているのだとしたら、このシーンはじつに奇妙な光景を描いているといわねばなるまい。荒廃した土地で強制労働させられている者がいる。そしてそのすぐそばに、彼と生死の運命をともにせねばならないスターリンがいて、スターリンもまた厳しい労働を行っているのである。
 このスターリンの主題については、後に述べることになるのでいまは考察しない。ただ、私たち観客はこのあたりで、提示された多くの主題が、何らかの寓意や象徴に回収されるであろうという期待を、もはやもつことができなくなる。そして、この劇は寓意劇などではなく、とても具体的で、現実的で、直接的な演劇なのではなかろうかと思うようになるのである。

 (シーン4)

 状況は悪化している。ステッコは足に怪我をしており、あたりに食べ物はない。そんな中、メイラは罠にかかったウサギを持って来る。前足のないウサギに感情移入したステッコは、そのウサギを飼うことにし、残りわずかな食べ物を分けあう。

 (シーン5)

 苦心して耕した地面に、植物が生えているのをステッコが見つけ、それをウサギに食べさせる。ところが、それはメイラが植えた豆の種だった。もう他に食べる物はない。メイラは、ステッコがウサギに愛着を抱いているのを知り、ウサギを取りあげようとする。またメイラは、ステッコの恋人は殺された後にレイプされたのだと話し、ステッコの心を打ちのめす。

 (シーン6)

 夜明け前、ビールを飲みながら、ステッコとメイラは会話する。話題はステッコの犯した罪である。ひとしきり話をした後、メイラは「夜が明けたら、森に行く」と言う。ステッコが強姦して殺した女性たちを埋めた森である。その女性たちは、いまも「行方不明」ということになっている。

 (シーン7)

 ステッコとメイラは森の中にいる。メイラはステッコに、女性たちを埋めた場所へ案内するよう命令する。ステッコは最初のひとりを埋めた場所に行くが、遺体はもうそこにはなく、証拠は残っていない。さらに、二人目以降については「同じことの繰り返し」になってしまっていたため、埋めた場所をおぼえていないとステッコは言う。
 しかしメイラは、「覚えてない」と言うステッコを絶対に許さない。

メイラ「それはどこ?」
ステッコ「覚えてないんだよ!」
メイラ「連れていけ。」
ステッコ「どこかわからないのにか?」
メイラ「どうすれば思い出す?」

 この場面のメイラの執拗さは、たいへん感動的なものであった。作者の頭の中にはもちろん、歴史修正主義者たちのことがあったに違いない。歴史修正主義者たちは言う、証拠はもうない、記憶も風化するものだと。だから、アウシュヴィッツのガス室はあったとはいえない、南京の虐殺はあったとはいえないと。しかし、証拠は見つけられねばならないのだ。忘れたという言い訳は、断じて通用しないのだ。メイラは言う、「探せ」と。「その子はどこにいる?」と。
 そして、奇跡的にとしかいいようがないのだが、ステッコは「一番気に入ってた子」を埋めた場所を見つける。
 ステッコはその場所に立ち、娘を収容所から連れ出して殺すまでの経緯を語る。彼はどうしようもなく愚かで、絶対に有責なのだが、それでも銃をかまえたとき、目をつむって「これをもし外したら、何があっても、この子を逃がすんだ」と思ったのだという。この場面を演じる神保の演技は素晴らしかった。(断っておくが、そのことから「ステッコの良心も認めねばならない」などと私が思っているわけではまったくない)
 メイラはステッコに命じ、何人もの犠牲者がまとめて埋められたその地面を掘り起こさせる。メイラは掘り出された遺体を抱き、「もう絶対に忘れられることはないからね」と語りかける。そして、ステッコが「一番気に入ってた子」の遺体を掘り出すと、メイラはその遺体に向かって「お前なの?」と言う。ここで私たち観客は、予想していたとおり、メイラがステッコの「一番気に入ってた子」の母親であることを知る。

メイラ「この子の名前はアナ。十九歳だった。その歳にしては幼く見える子だった。教師になりたがってた。哲学の。この子はあらゆる宗教を重んじた。度胸と優しさの両方を持っていた。/〔……〕/人には、民族の違いに関わらず誰にでも、尊厳があることを知っていた。

 この場面の西田の演技が私たち観客にもたらした感動については、十分に述べることはできないと思うのでふれまい。メイラはステッコに言う。

ほかの子たちもみんな掘り起こすんだ。それから、もうひとつ仕事がある。/お前は行方不明だった子たちの物語を語るんだ。お前が殺した女たち子どもたちのことを。一人一人の名前を語るんだ。そうして、戦争のほんとうの姿を伝える記念碑を私たちが建てるんだ。奪われ汚された娘たちを母親たちの元に返すんだ。

 (シーン8)

 モニターの画面に字幕が映される。「次々に死体が掘り出される。/その死体で記念碑が建てられている。/集められた遺体は/円形を組んで腰を下ろし、/外側を向いている。/死体のモニュメント。/記念碑。」この字幕によって、メイラの言う「記念碑」のなまなましいありようが、私たち観客に衝撃的に伝わる。
 この「記念碑」の前に、ステッコは遺体を抱えて立つ。メイラに命じられ、それぞれの犠牲者について、名前、見た目、おぼえていることをすべて、ステッコは語ってゆく。ひとりひとりについては断片的なことしか分からないが、ひとりのことが語られるたびに、メイラは1本ずつロウソクに火をつけていった。(これは演出の川口典成のアイディアである)
 この場面を観ていて、私はジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』を想起した。アウシュヴィッツのガス室とその証言をめぐる一書は、証言不可能な者の証言を証人の名前とともに引用した後、「(以下を欠く)」という文言とともに終わる。そのこととまるで呼応するように、やがてステッコは自分が強姦して殺した女性たちについて語ることができなくなり、ただ「アナ。アナ」と「一番気に入ってた子」の名を口にするだけになる。
 ステッコの口から出たアナの名を聞いて、メイラは逆上してしまい、シャベルでステッコを打つ。ステッコは倒れる。メイラはステッコを殺してしまったと思い、震撼する。しかししばらくするとステッコは起き上がる。そうしてメイラに「あんた俺と全く同じだよ」と言う。
 最終的に、2人は別れることになる。別れ際、ステッコはメイラに「許してくれ」と言う。メイラは「どうやったら許せる? 見せて。見せて、どうやったら許せるのか。私にはわからない」と言う。ステッコはメイラにふれて、また「許してくれ」と言う。
 ステッコとメイラの心を宙吊りにしたまま、劇は終わる。カーテンコールの後、開演前と同じ能天気な音楽が流れる。

2.演劇の直接的な力

 私たち観客が観たことを述べるだけで、こんなにも長くなってしまった(観たことをできるだけ正しく伝えることが最も重要だと認識しているので、仕方がないのだが)。

 カナダの劇作家コリーン・ワグナーによって1995年に書かれた戯曲 THE MONUMENT を、神保良介が翻訳し、川口典成の演出を受けて神保と西田夏奈子が演じた『ザ・モニュメント 記念碑』。この上演への私の評価を述べる前に、ことわっておかねばならないのだが、私は数年前まで川口とともに劇団活動を行っていた。また、神保と一緒に仕事をしたことも何度もある。したがって、本稿における私の評価が本当に客観的なものになるのかは、私自身には判断ができない。私としては、個人的な人間関係に左右されずに論じようと思っている(実際私はこれまで、川口の演出作品に関しても神保の出演作品に関しても、作品ごとに良し悪しを評価してきたつもりである)。述べるべきことを述べ、その後は読者の判断にゆだねたい。

 さて、言葉を弄んでいる場合ではないので、率直にいおう。『ザ・モニュメント 記念碑』は、演劇の可能性を改めて感じさせ、認識を更新してくれる力強い上演だったと私は思っている。なぜなら、この劇は直接的かつ激越な効果を発揮するものであり、しかもその効果は、演劇の本質によって支えられたものだからだ。

 この劇には、いくつかの直接的なメッセージがある。「絶対に強姦してはならない」、「絶対に殺してはならない」、「絶対に犠牲者を行方不明にしてはならない」、「絶対に忘れてはならない」、つまり言い換えると、「絶対に許されない悪がある」。
 これらのメッセージは絶対に正しいものである。が、たとえば私がこれらのことを叫んだとしても、何の説得力も発揮しないだろう。「それを言うお前は何者か」、「お前は何の資格があってそんなことが言えるのか」……そういう問いは二次的な(メッセージ自体ではなく発話者である私に関する)ものにすぎないのだが、それでも、メッセージ自体のまぎれもない正しさをも穢してしまうように思われる。
 しかし、メッセージは『ザ・モニュメント 記念碑』という舞台を通して私たち観客に叩きつけられたとき、まったく穢されることなく伝わってきたのである。なぜか。そのことには2つの力が関与している。ひとつは虚構の力であり、ひとつは演劇の力である。
 すぐれた虚構はメッセージをストーリーという形に変換することで、直接的な主張よりも鮮明に受け手に渡すことができる。『ザ・モニュメント 記念碑』は、そのような虚構の力を持っており、これはまずは戯曲の功績である。さらに『ザ・モニュメント 記念碑』の俳優たちは、メッセージの重さに見合う責任を、舞台上で演技するにあたって取り続けていて、何よりもそれが演劇としての力となった。神保良介と西田夏奈子の演技を間近で見つめた私たち観客は、メッセージに同意するかはさておくとしても、そのメッセージを茶化したり無視したりすることはけっしてできなかったのだ。

 一般的に演劇において、俳優がある登場人物を演じるためには、登場人物をある程度理解し、その人物の行動を模倣しなければならない(俳優が登場人物を演じない演劇などというものも存在することは承知しているが、ここでの関心外なので放っておこう)。俳優が登場人物を理解し模倣するにあたって、役との間の距離の設定の仕方はいくらでもあり、スタニスラフスキーからブレヒトまで(あるいはもっと極端なものまで)いちいちの演技理論にもなっている。
 では『ザ・モニュメント 記念碑』において、2人の俳優はそれぞれの役との間にどのような距離を設定していたのか。登場人物の中のあれこれの側面を解剖的に取り出し、ことさらに批評してみせるような手つきは見られなかった。それぞれの役の全人格に関して、すべての瞬間の演技において持続的に責任を取るような演技であった。
 むろん、たとえば神保良介という俳優が、ステッコの犯した罪の責任を取らされる必要はないし、ステッコという登場人物を理解する段階では、十分に批評的に役作りをしただろう。しかし、劇中のすべての時間を通して、自分の身体によってステッコという人物の全人格を生きさせる責任、そのような責任を神保は引き受けていたに違いない。
 神保と西田は、それぞれの役に対してそのような責任を果たすと同時に、それぞれの登場人物の全人格を舞台の上に生きさせて見せるという責任を、観客に対しても果たした。これは演劇にとってごく当たり前のことだと私は考える(私はここで「役への同化」や「感情移入」のことをいっているわけではない)。ごく当たり前のことをどこまでも追求したからこそ、神保と西田には、ステッコとメイラを演じる資格が確かにあったのだ。そして、ステッコとメイラを通して、神保と西田を通して伝わったメッセージには、強烈な説得力があったのだ。
 私が演劇の本質によって支えられた激越な効果といったのは、こういうことである。だがこれだけで話は終わらない。私は『ザ・モニュメント 記念碑』という劇の効果が直接的なものだったともいった。その直接性についても述べておかねばならない。

 演劇とはそもそも間接的なものである。劇作家は、フィクションを書かねばならない。俳優は、自分自身ではない登場人物を理解し、その行為を代行せねばならない。演出家は、自分自身ではないあらゆる要素を駆使して上演を実現させねばならない。そうでない演劇もあると言う人がいるかも知れないが、そういったものは単に演劇ではないだけだ。
 そういった間接性の機構は当然『ザ・モニュメント 記念碑』をも支配している。しかし、『ザ・モニュメント 記念碑』は、演劇であるという事実以外のあらゆる点において直接的な演劇だった。

 第一に戯曲について。作者のワグナーは、現代の戦争を描くにあたって、媒介項を設定することなく、とにかくその戦争の起こった場所を舞台に設定している。
 第二に俳優について。2人の俳優は、少なくとも演技をしている時間の持続の中では、非常にリアルにそれぞれの役の人格を体現し、行動していた。
 第三に演出について。演出の川口は、戯曲に書かれていることを可能な限りすべて表現した。劇場の制約から実現できないことも多々あり、道具に関しては見立てに頼った部分もあるが、そういうところも他愛のない記号や象徴の戯れに堕すことなく、ステッコとメイラの生きる荒涼とした世界の現実として、直接的に受け入れられるものになっていた。さらにいえば、とにかく使えるものを最大限に使って戯曲に書かれていることを実現させようとする川口の演出の切迫感は、とにかく手元にあるものを利用して生きようとしているメイラとステッコの姿につきづきしいものだったのだ。

 この劇の題名は『ザ・モニュメント 記念碑』というものである。「記念碑」とはふつう、象徴のカテゴリーに属するものだと考えられている。しかしこの作品の中に現れる「記念碑」は、死体によって作られた記念碑であり、その素材のなまなましさは、純粋な象徴となるためには不純なものだ。
 この点からも分かるように、作者のワグナーは象徴性などかなぐり捨てて、とにかく直接的に描くべきことを描いている。演劇はそもそも間接的なものなのだから、演劇であること以外の間接性は不要だといわんばかりである。

 ワグナーはまぎれもない現在の世界の現実を直接的に描き、「絶対に許されない悪がある」というメッセージを発する。
 彼女は愚かなのかも知れない。演劇にメッセージなど必要ないと教えてくれる洗練された人間はまわりにおらず、もしメッセージを伝えたいならば記号や象徴を用いた複雑な手続きが不可欠なのだと助言してくれる賢い人間に出会ったこともないのかも知れない。
 しかし、そうした洗練や賢明さが、実際のところこれまで何の役に立っただろうか? そうした洗練や賢明さは、ただ演劇から現実的な、さらにいえば政治的な力を奪い、無償の戯れへと貶めてきただけではないのか?

3.正義について

 私たちが『ザ・モニュメント 記念碑』をもとにさっそく考え始めねばならないことは少なくとも2つある。ひとつは正義であり、ひとつは悪である。
 これらについてとにかく考え始めるために、唐突だと思われるだろうが、1961年にイスラエルのイェルサレムで行われたアイヒマン裁判についての、カール・ヤスパースとハンナ・アーレントの見解を参照しよう(アーレント『イェルサレムのアイヒマン』より)。

 ドイツのナチス政権下でユダヤ人の大量虐殺を推進していたアドルフ・アイヒマンは、ナチスの敗戦後に捕虜収容所から脱走したが、潜伏先のアルゼンチンで1960年に拉致され、イスラエルに移送された。そして翌年からイェルサレムで裁判にかけられたのだが、この裁判に関してはイスラエルへの批判も多かった。
 中でもヤスパースは、アイヒマンの罪は「人類に対する罪」であり、だからこそ「全人類を代表する法廷」すなわち国際刑事法廷が判決を下すべきであると述べ、イェルサレムの法廷に判決を下す権利を放棄するよう提案した。
 アーレントはこのヤスパースの意見を検討して次のように述べる。まず、その時点までに国連総会は、常設国際刑事法廷の設置の提案を2度しりぞけているという事実がある。さらにアイヒマン裁判は、ユダヤ人が自分の民族に対して行われた罪を初めて自分たちで裁く裁判だった。イスラエルのユダヤ人たちは、実現するかどうかも分からない国際法廷に期待することなく、他の民族に認められているのと同じ権利を行使しただけなのだ。これらの点を考えあわせると、イェルサレムの法廷がアイヒマンを裁くことには、ある一定の正当性があるとみなされるべきである。
 アーレントはそのうえで、実際の裁判の中でイェルサレムの法廷がどの程度まで正義の要求を満たしたか検証する。アーレントによれば、イェルサレムの法廷が次のような論点を十分に把握していなかったため、裁判の内容は失敗だった(成功した場合と同じ死刑という判決が出ているにしても)。
 まずは、勝利者の法廷では公正さが欠けるのではないかという問題。
 それから、「人道(人類)に対する罪」という概念の有効な定義と、そのような罪を犯す新しいタイプの犯罪者についての認識。

 以上のことを確認したうえで、『ザ・モニュメント 記念碑』における正義ついて考え始めよう。
 この作品の中で正義を要求しているのは、強姦されて殺され、埋められて「行方不明」とされた女性たちである。そして彼女たちの要求を代行する形で、メイラが正義を要求する。

 次のような疑義を呈する人たちがいるだろう。なぜメイラが死者たちの要求を代行できるのか? メイラにその資格はあるのか?
 確かにそれは難しい問題だ。だからメイラは後でゆっくり反省する必要があるだろう。しかし、資格云々の悠長な議論を跳び越えて、犠牲者たちが「行方不明」のまま放置されることに、とにかくメイラは抗わねばならなかったのだ。それがメイラにとっての責任であった。

 次のような意見もあるだろう。メイラの求める正義は、メイラ自身の私情に汚染されている。自分の娘を殺された当事者としての怒りが、正義の公正さを損なっている。
 そのような意見は、さきほど確認したヤスパースの提案に代表されるような、直接的な当事者だけで行う裁判への批判と、ある程度類比的である(ヤスパースの考え自体はもっと複雑なのだが)。そして内容としてはまったく正しい。しかし、では実際、メイラでなくて誰がやるというのだろうか。
 戦争犯罪人で死刑囚であるステッコをメイラが引き取ることができたという事実から、舞台となっている国が十分な司法能力を持っていないことが分かる。おそらく政府の行政能力も粗末なものだろう。個人に代わって正義を行うべき国家に、「行方不明」の女性たちを捜し出し「記念碑」を建てるという計画を、実行する能力がないのである。そもそも、国家の司法機関が自らの決定のとおりにステッコを処刑してしまっては、犠牲者たちはそのまま闇に葬られることになってしまうではないか。だからこそメイラは、公正な中立者に正義の代行を期待することをあきらめ、自分自身が計画を実行することを決意したのに違いない。

 アイヒマン裁判に関してアーレントが表明していた立場に注目しよう。アーレントはまずは、直接的な当事者であるイスラエルのユダヤ人たちにアイヒマンを裁く資格を認める。そのうえで、裁判が正義の要求にかなうものになるためには、十分な公正さを確保せねばならなかったと述べているのだ。
 このことを踏まえて『ザ・モニュメント 記念碑』に話を戻すと、問題になるのは、メイラの取った行動が、ステッコに対して十分に公正であったかどうかということだろう。メイラは、犠牲者の肉親であることからくる感情と、相手の生殺与奪の権利を握っているという強みを抑えて、ステッコに対して公正な態度を取ることができていただろうか?

 私たちはいま、シーン3でメイラがまるでスターリンのように見えた、あの不思議な光景を思い出さねばならない(第1節)。メイラは自分の怒りのためにステッコを殺したりはしない。メイラは鋼鉄のような厳格さで、ステッコに自分の罪について考えさせようとしているのだが、と同時に鋼鉄のような厳格さで、怒りのままにステッコを殺したいという自分の衝動を押しとどめているのではないか。
 メイラは食べ物がなければステッコとともに死ぬだろう、弱いひとりの人間でしかない。それでも彼女は無私の絶対者を演じ、計画を推し進めねばならない。彼女はステッコに言う、「すべての女を自分の娘のように見られる目を持つべきだった」。この言葉は当然、メイラ自身にもはね返ってくるものであるはずだ。彼女は、自分の娘の復讐のためにステッコを殺したかっただろう。それでも、殺してしまっては、すべての犠牲者が「行方不明」のままだ。彼女は、ひとりの娘を殺された母親としての感情を不断に押し殺し、すべての犠牲者たちとステッコのための、鋼鉄のような法そのものであろうとしていたのである。そのほとんど不可能な努力を続けることこそが、メイラにとっての、絶対的な公正さだった。メイラは正義のために悪魔(メフィストフェレス)になり、公正さのために鋼鉄(スターリン)になったのである。
 以上のようなことを踏まえたうえで、初めて私たちは、メイラの行動が本当に正義の要求にかなうものだったといえるのか、議論することができるだろう。
 また、劇の中には、メイラが厳格な公正さを保てなくなり、ステッコを殺しそうになってしまう場面がある(シーン8の後半)。その点に関しては、第5節で論ずる。

4.悪について

 私たちは正義については前節でとりあえず考え始めた。次に考え始めねばならないのは、悪についてである。
 よく知られているとおり、アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』には、「悪の陳腐さ〔凡庸さ〕についての報告」という副題がある。「悪の陳腐さ」とは、前節で確認したイェルサレム法廷の盲点のひとつ、「人道(人類)に対する罪」を犯す新しいタイプの犯罪者の性格である。
 ユダヤ人を絶滅させるために働いたアイヒマン本人は、けっして異常な性格の持ち主ではなかった。ユダヤ人を絶滅させようとしたのはナチス国家であり、自分は上からの命令に従っただけだとアイヒマンは主張した。アイヒマンに見られる「悪の陳腐さ」は、おおむねステッコにも当てはまるものだし、ステッコ自身が劇中でアイヒマンと同じような自己弁護を行っている。

 今日では「悪の陳腐さ」という言葉はしばしば誤用されているように思われる。悪とは陳腐で凡庸なものであり、ごく普通の人間が罪の意識もなく恐ろしい悪事を犯していることがあり、だからこそアイヒマンやステッコだけを断罪しても何の解決にもならず、私たちひとりひとりの内に彼らを発見しなければならない、というふうに。
 そのような言説はそれ自体が悪を隠蔽し、責任を曖昧にするだけのものであり、断じて間違っている。『イェルサレムのアイヒマン』は、「陳腐な悪」を正義によって断罪する可能性のための書物なのだ。そのエピローグには、アーレント自身が書いたアイヒマンへの厳格きわまる死刑宣告が載っている。

法の前での有罪と無罪は客観的なものであって、たとい八千人のドイツ人が君〔アイヒマン〕と同じことをしたとしても、そのことは君にとって言訳とはならなかったろう。/〔……〕議論を進めるために、君が大量虐殺組織の従順な道具となったのはひとえに君の逆境のためだったと仮定してみよう。その場合にもなお、君が大量虐殺の政策を実行し、それ故積極的に支持したという事実は変らない。というのは、政治とは子供の遊び場ではないからだ。政治においては服従と支持は同じものなのだ。

 そして、『ザ・モニュメント 記念碑』という劇がシーン1の前半で終わらなかったのも、「陳腐な悪」を本来の意味でとらえ、それが絶対に許されないということを示すためだったといってよい。ステッコもアイヒマンも、自分は国家行為を代行しただけだと言う。この代行は、メイラが犠牲者たちの正義の要求を代行したことと、まったく違っている。ステッコもアイヒマンも、判断を放棄している。つまり主体性を放棄している。彼らの代行は責任を放棄した代行なのである。いかに困難な状況にあろうとも、それは許されないといわねばならない。「戦争はなんでも変えるんだ。だれだってそこにいたら――選択肢はないんだ」と言い訳をするステッコに対し、メイラは断固として「いいや、ある」と言う。アーレントも、「恐怖の条件下では大抵の人間は服従するだろうが、或る人々は服従しないだろう」と述べており、原文では強調されているこの文の後半こそが、「悪の陳腐さ」に対抗するための厳しい倫理を示している。

5.結末部の解釈について

 絶対にかなえねばならない正義の要求があり、そのためには、「悪の陳腐さ」はどんなことがあっても許されてはならない。この主張を実現することは、現実にはほとんど不可能なことのようにも思えるのだが、その不可能なことをあくまで直接的に描いているところに、この劇の感動的な尖鋭さがある。『ザ・モニュメント 記念碑』の上演を観ながら、私はそのように感じていた。
 ところが、劇の終わり近くになって、大きな転換が起こる。シーン8の後半である。これまで鋼鉄のような厳格さで自分の感情を抑えてきたメイラが、ステッコの口にする娘の名を聞いて逆上してしまい、ステッコを殴って殺しかける。かろうじて一命を取りとめたステッコは、結局メイラも何らかの状況下では他人を殺す人間であり、「悪の陳腐さ」に汚染されているではないかと言う。どっちもどっち、正義など綺麗事にすぎない、というわけだ。

 この場面を観ているとき、私は、いかにも賢明なこの場面があることによって、劇全体の尖鋭さが損なわれているのではないかと感じていた。
 告発する者は告発される者になる。……いかにも賢そうなテーゼだが、そんな優等生じみたことを言っている場合ではないというのが、『ザ・モニュメント 記念碑』という劇の主題だったのではないのか。「この世に正しいことなんてない」とうそぶくことは、シーン8前半までの『ザ・モニュメント 記念碑』の素晴らしい達成を否定し、「悪の陳腐さ」を拡散することにしかならないのではないか。

 率直にいって、私たち観客が劇場で観たシーン8の後半は、まったく駄目な場面だった。戯曲が駄目だったのかも知れないし、上演にたずさわった俳優および演出家の解釈が間違っていたのかも知れない。
 前者であれば、議論によって戯曲を批判する必要がある。だがここでは、後者の可能性について考えてみたい。というのも、上演にあたって俳優および演出家は、戯曲のカットや変更を行う権利を持っておらず、意訳すら最低限に抑えたのだというのだから、上演がもっと素晴らしいものになりえた可能性は、戯曲の解釈の変更にしかありえなかったのだ。以下、私なりに望ましいと思う解釈の素描を試みる。

 メイラはシーン8の前半まで、人間としての感情を押し殺し、「行方不明」の犠牲者たちの「記念碑」を作るという計画を推進していた。そしてその計画は、シーン8の半ばに達成された。
 このとき、メイラは計画から解放され、これまでのように感情を押し殺し続ける必要がなくなる。そしてふとしたきっかけで、感情が爆発してしまい、衝動的にステッコを殺しかける。
 意識を取り戻したステッコは、メイラをなじる。メイラはもちろんそれを聞いているのだが、メイラを襲った虚無感は、ステッコの論理に反駁することができないがためのものではない。メイラは別のことを考えている、もしくは感じている。
 犠牲者たちの正義の要求に応える計画を、いちおうのところなし遂げてしまったとき、犠牲者の肉親(生き残った者)の感情は浄化されるのか? そんなことはなかった。むしろ、計画が成就したせいで感情を抑え続ける必要(口実)すらなくなってしまい、メイラの内面には、やり場のない感情だけが残っている。この残りのものは、どうしたら解決されるのか?
 メイラが感じていたのは以上のような難題である。けっしてステッコの論理(論理以前のものでしかないが)に言い負かされたわけではない。

 このように解釈を変更することで、『ザ・モニュメント 記念碑』はどのような可能性を持ちうるのか? 正義の要求を、個人以外の審級にまで届かせることができるようになるのである。
 私はシーン2を紹介した箇所(第1節)で、ステッコに対するメイラの暴力がヘクトルの遺体に対するアキレウスの暴力を連想させたと述べた。遺された者の感情は復讐によってしか解決されないのかも知れないが、復讐の連鎖はどうあっても止めねばならないというのが、古代ギリシア人の遺した最大の教訓のひとつである。むろん、個人どうしの間では復讐の連鎖は止められず、ステッコの言うような「どっちもどっち」の理屈が循環するだけだろう。そこで古代ギリシア人は、上位審級である神をもちだすことで、解決できない感情を解決できないままに止める、という方法を示した。ホメロスの登場人物たちは叙事詩の終わりで、神々になだめられて報復を続けることを断念する。
 現代の私たちは、復讐の連鎖の停止を、なにものに要求するべきなのか? 国家にこそ要求すべきである、というのが私の仮説だ。個人の間で解決できない感情を、解決できないままに回収し保存することこそが、国家の役目なのではないだろうか。国家がそのような正義の要求に応えるものになったとき、それは感情のナショナリズムとはまったく違うものであるはずだ。
 そもそも『ザ・モニュメント 記念碑』においてメイラが推進した計画自体が、国家によってなされるべきものであった。国家がそれをしなかったからこそ、やむなくメイラは自分を生身のまま鋼鉄に変えたのだ。メイラはまさに、アンティゴネーの末裔である。結末部の解釈が変更されたとき、『ザ・モニュメント 記念碑』という劇は、黙って国家を指さすだろう。そうして私たちは、そのことについて議論することができるようになるのだ。

6.総括と要求

 もうあまりに長くなりすぎてしまった。ただちに総括し、要求すべきことを要求して終わりたい。

 『ザ・モニュメント 記念碑』は、演劇にまだこのような可能性があったということを、私たち観客に気づかせてくれる劇だった。美的な力のみならず、政治的な力を持った劇だった。ここで私の使う「政治的」という言葉は、すでにお分かりだろうが、正義の要求に応えるものという意味である。『ザ・モニュメント 記念碑』は、私たち観客に劇的な感銘を与えてくれただけではなく、正義にかなう人間であれという戒律を示してくれた。私たちはもはや、いかなる場合にも、言い訳をしながら人を殺すことはないだろう。強姦をしないだろう。人を「行方不明」にしないだろう。戦争を阻止するために行動するだろう。これが『ザ・モニュメント 記念碑』の、政治的効果である。
 いわゆる「政治と文学」(「文学」とは芸術の代表である)の問題は、日本の現代演劇において、まったく解決されていない。棚上げにされたまま忘れられてきただけである。芸術の自立性、おおいにけっこう。しかし、そんなことを言っている場合ではないのだ。そんなことを言っている場合ではないと、私たちは確かに、4年近く前に分かったはずだったではないか。芸術は現実に対して、力を持たねばならぬときがある。力とは何か。社会を望ましい方向へ動かす実効的な力、つまり、政治的効果である。もちろんこのように述べる私の頭の中には、ベンヤミンの言葉があるのだ。
 現代の日本の演劇に、『ザ・モニュメント 記念碑』に匹敵するほど効果を持った作品があるだろうか。私たちは反省しなければならない。そして、コリーン・ワグナーのこの戯曲が、発表されてから20年近く、1度も日本で上演されなかったことを、私たちは恥じなければならない。
 『ザ・モニュメント 記念碑』に描かれている世界が、現代日本のリアリティーからは遠い、などという言い逃れはまったく無効である。カナダの劇作家が、現に世界のリアリティーを描いてみせたではないか。演劇とは、自分ではない何者かの行動を代行することだ。ルプレザンタシオンの概念がいかに批判されようと、他者を代行するという点にこそ演劇の尊さがある。そして、他者を代行するための資格とは、何らかの手続きを経ることによってあらかじめ得られるものではなく、とにかく責任を引き受けながら代行してみた後で、事後的に判断されるものなのかも知れないということを、私たちはメイラの行動から学んでいる。実際、西田夏奈子は見事にメイラを代行した。神保良介は見事にステッコを代行した。できる者がいるのなら、とにかくしてみなければならない。

 そして私は要求する。俳優の神保良介と西田夏奈子、演出家の川口典成(今回の上演においては、この3人以外のスタッフが一切いなかった)には、すぐにでも『ザ・モニュメント 記念碑』を再演してもらわなければならない。この劇が200人ほどの観客にしか観られなかったというのは良くないことだ。絶対に再演が行われるべきである。そして、それを観に行くことは、私たちにとってほとんど義務である。

(12月6日観劇。本稿を書くにあたって、神保良介が翻訳し俳優と演出家で手直しをしたという上演台本を参照させていただきました。)

【筆者略歴】
清末 浩平(きよすえ・こうへい)
1980年生まれ。東京大学文学部(日本語日本文学)卒。同大学院修士課程(日本文化研究)修了。専門は日本近代文学、研究対象は安部公房。在学中より演劇活動を行い、2010年より2011年まで劇団ピーチャム・カンパニーにて脚本を担当。
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【上演記録】
KJプランニングス『ザ・モニュメント 記念碑
プロト・シアター(2014年12月4日―7日)
作: コリーン・ワグナー
翻訳: 神保良介
演出: 川口典成(ピーチャム・カンパニー)
出演: 西田夏奈子 神保良介
協力: 阿部ますみ 浅羽麗 マサ子の間男 ピーチャム・カンパニー Playwrights Guild of Canada
企画・製作: KJプランニングス
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