SPAC「グスコーブドリの伝記」

◎自己犠牲の死は美しいのだろうか?
 今井克佳

「グスコーブドリの伝記」公演チラシ 静岡に向かう間に、念のためどこかで目を通すかもしれないと、バッグにいれた携帯電子書籍端末には無料で「購入」した原作のテキストをダウンロードした。昔何度か読んだはずの作品だ。すでに著作権フリーになっている宮沢賢治のテキストはネットで手軽に手に入れることができる。

 現在、「国民作家」的人物をあえて一人あげるとすればそれは宮沢賢治であり、誰もが各自のイメージを持っている、と演出の宮城總は言う。しかし、演劇でもしばしばとりあげられる「銀河鉄道の夜」に比較して、それに匹敵する長編童話である「グスコーブドリの伝記」はなぜほとんどとりあげられないのか。その疑問が舞台化の発想の一端となっているようである(SPACウェブサイト公開の宮城のインタビュービデオより)。

 確かに、天空=宇宙を走る鉄道で旅をするという「銀河鉄道の夜」のモチーフには夢がありイメージを展開しやすい。星好き、鉄道好き、SF好きといったマニアのツボをついている。主人公の少年ジョバンニは、祭の晩、実は別の友人を助けるために水死していた親友カムパネルラと天の鉄道の旅をし、最後に鉄道に乗っていた死者たちと別れて、地上に戻ってくる(それは眠っていたジョバンニの見た夢にすぎなかったのかもしれないのだが)。こうした「冒険少年物」ともいえる構造は見る側にとってもなじみやすい。また宮沢賢治が生涯追い求めたと考えられる自己犠牲の精神について、その宗教的背景について深く追求している作品でもある。賢治のまさに代表作といわれるゆえんであろう。ただ、80年代小劇場から、近くは「ももクロ」映画の劇中劇に至るまで、演劇の世界では、あまりに手垢がついてしまった素材のようにも思える。

 舞台作品ではないが、ますむらひろしのネコのキャラクターが登場するアニメ映画版「銀河鉄道の夜」(1985年公開)の最終場面には「ここよりはじまる」とのキャプションが現れる。「銀河鉄道の夜」は、カムパネルラやジョバンニという名前の出自から推定される「ある聖人の少年期の物語」である、との解釈から挿入したものだろう。

 「銀河鉄道の夜」で他者のために犠牲の死を遂げるのは主人公の友人であり、主人公自身はふたたび地上に戻り、生き続けていく。それに対して「グスコーブドリの伝記」では主人公自身が、冷害による飢饉から「イーハトーブ」の農民たちを救うために、危険をともなう火山の噴火を起こす仕事を行い、自ら犠牲となるのである。つまり「銀河鉄道の夜」で地上に戻ってきたジョバンニの、その後を暗示するような物語が「グスコーブドリの伝記」だと思われる。また「グスコーブドリ」には「銀河鉄道の夜」に見られるような、「ほんとうのしあわせ」や「ほんとうのかみさま」は何かといった論争は現れない。いや、最終部、死を決意した若いグスコーブドリ(この時点で27歳という設定)をはるかに年長のクーボー博士やペンネン技師が引き止める会話はある。しかし彼らはブドリの決意の言葉になぜかだまりこんでしまい、計画は実行に移される。ブドリの死そのものは描かれず、遠景としてブドリの行為の結果だけがたんたんと描写されるのが原作の結末だ。

 美しく純粋なブドリの運命と生き様は胸を打つ。物語の発端は、飢饉により親と死別し、妹ネリとは生き別れになる幼いブドリのエピソードであるが、最後に火山局技師となったブドリの行為によって気候が変わり、同じような子どもたちを出さずにすむ、といった原作最終部の語り口は、時間の円環を示唆しながら感動的だ。今回、脚本をてがけた山崎ナオコーラがこの部分をペンネン技師とネリの会話として残してくれたことは嬉しかった。この「オチ」を外してしまったら物語の魅力が半減してしまう。

 ただ、この物語には危うい面もある。多くの人々の幸福のために自分が犠牲になることを厭わないことは、執筆当時、すでに病気療養以外の道がなく死を覚悟した賢治の、そうでありたかった生き方、なのであろうが、あまりに純粋に疑念なくたんたんと書かれた童話は美しいと同時に危うい。死んでいくカムパネルラと生き続けるジョバンニの対比や、クリスチャンであるタイタニック号の犠牲者たちとの対峙など、ポリフォニックな価値観を含有する「銀河鉄道の夜」に比べてもモノフォニックにすぎるのだ。そこに昭和七年という発表の時代を加えれば、賢治が私淑した、国柱会の田中智学を通して、同門と言って良いナショナリスト石原莞二との構造的同質性を見られてもしかたがないのである。私自身は、「イーハトーボの劇列車」を書いた井上ひさし同様、賢治が石原らと地続きの全体主義や国家主義の傾向を持っていたとは全く考えないのだが、批判的な見方をすれば「お国のために一命を捧げ…」という心性と紙一重といえないこともない。その紙一重の違いをどう考えるか。

 また、火山の噴火をコントロールし、気候を変えるという科学万能主義的な視点も現代から考えると理想主義に過ぎる面がある。こうした原作の問題を実際の舞台はどのように処理していたのか。そのことを視点としながら劇の全体像を描写してみたい。

 ほとんど裸の舞台に、白い可動式の立体フレームが置かれ、宮城の舞台に欠かせない楽器ブースは舞台奥に設置されており目立たない。フレームが水平方向に拡げられたり、折り畳まれることによって各場面が作られていく。ブドリ役の美加里以外の登場人物は、人形だ。それぞれの人形は等身大に近く、背後で声と操作を担当する俳優の顔写真が貼り付けられている。ブドリもやや人形振りに近い動作が主流となる。セリフのタイミングと動作が微妙にずれることもあり、生身の俳優である美加里も含めて、全体が人形劇のようなテイストを醸し出している。それでもブドリだけが生身であり、人形の登場人物たちは動作もぎこちなく、現実味にかけ、劇が開始されてしばらくは、書き割りのような気がしていた。

【写真は「グスコーブドリの伝記」公演から。撮影=日置真光 提供=SPAC-静岡県舞台芸術センター 禁無断転載】
【写真は「グスコーブドリの伝記」公演から。撮影=日置真光 提供=SPAC-静岡県舞台芸術センター 禁無断転載】

 

 劇が始まったばかりの時点では、これは大人になったブドリの回想であり、そのために周りの人物は全て現実感がない夢の世界のようになっているのか、と解釈の可能性を考えていたのだが、ブドリ以外が人形であるのは劇の最後まで一貫していたため、それはない、ということがわかった。ブドリが成人した後に登場する、クーボー博士、ペンネン技師、成人して再会したネリもまた人形で表現されるのだった。宮城自身の言葉で言えば、絵本を見ているような舞台を目指していたようだ(前掲のインタビュービデオによる)。これは、人形は使わないものの、同じ宮城が演出した「グリム童話 〜少女と悪魔と風車小屋〜」(2012年、オリビエ・ピィ作)の雰囲気と似ており、宮城が童話的世界を演出する場合の手法として確立されつつあるということだろう。

 山崎ナオコーラの脚本は、原作のプロットをほぼ忠実に追っており、大きな設定の変更はない。しかし原作の地の文の語りを新たに会話場面として書き直し膨らませている部分や原作と矛盾しない新たな加筆は多い。冒頭の幼少のブドリの森の暮らしの場面は、語りで一気に済ませてしまう原作に比べて、かなり丁寧に作られていた。「蘭の花」を煮るという場面から始まるが、これなどは原作の、見逃してしまうような、ほんの小さい表現を拡大し、食物とはならない蘭をなぜ煮るのか、それは遊びなのか、という読み込みと解釈がなされた場面展開となっている(そしてちょっとした伏線でもある)。また「てぐす工場」や「沼ばたけ」で働く場面で、ブドリが読み書きをするための手帳を欲しがることや、本当の農民になりたい、という希望を強く持つあたりは原作のブドリよりも宮沢賢治その人にひきつけた加筆のように思われる。

 山崎の脚本化には他にも特徴がある。一つは「オノマトペ」の多用である。宮沢賢治といえばオノマトペを詩や童話作品で自在に使いこなした名手と言えるが、「グスコーブドリの伝記」のような後期の長編童話ではむしろオノマトペの使用は控えられている。これは「グスコーブドリの伝記」の初期形とされる「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」などと比較しても同様である。

 賢治の童話世界の「感じ」を出すためには有効な手段とも思われたが、実際の舞台では、これはあまり効果的だとは感じられなかった。「人形劇」風の、生身の身体表現が希薄な演出のなかで、また独特の平板なアクセントで語られる不自然とも言えるセリフまわしのなかで、各所に山崎がちりばめたはずのオノマトペは客席までそれほど響いてこなかったように思える。

 唯一、両親の失踪後に妹のネリが人さらいに連れて行かれる場面での「おおほいほい、おおほいほい」という人さらいの叫び(これをオノマトペというかは微妙だが)は有効だった。これは原作でもぎょっとするような奇矯な表現なのだが、原作から想像されるようなアクセントとは全く違った発声となっており、印象深く際立っていた。

 さらにもう一つの特徴は、物語を外部の視点から見ようとするセリフの挿入である。なんどか、「ここはSFの世界だから」というエクスキューズが登場人物によって語られる。火山噴火の予想ができるのか、というブドリの問いに対して、火山局の老技師ペンネンナームは「ここはSFの世界ですからね、できたらいいなと思うことで、できてしまうことがあります」と返す。これは賢治童話に親しんだものには少しうるさい。賢治の世界がSFと分類されることからして違うのではないかと思うし、その上にいちいち物語世界での不文律であるはずのことを言い立てて、物語への没入を阻害されてしまう。中高生向けの鑑賞公演も平日に行われているという、この公演の性格上の配慮なのか(それも私は不要と思うが)これは興ざめであった。ただ、わざと物語に距離を取らせるためのブレヒト的手法としてやっているのかもしれないという可能性も考えられる。前述した原作の科学万能主義に対するある種の皮肉ともとれる。

「グスコーブドリの伝記」公演から
【写真は「グスコーブドリの伝記」公演から。撮影=日置真光 提供=SPAC-静岡県舞台芸術センター 禁無断転載】

 

 孤児となったブドリは、養蚕業を思わせる「てぐす飼い」の男や、稲と思われる「オリザ」を育てる「沼ばたけ」の山師「赤ヒゲ」のもとで働き自学する。やがて都会に出たブドリは、火山局に務める火山技師となっていく。宮城は白いフレームを動かして場面を変えながら、シーンを作っていく。印象的なシーンがいくつも現れた。ブドリが飛行船に乗って雲の上から肥料の雨を降らせるシーンもその一つだ。ビーズのような光る紐が舞台の端から端までいっぱいに垂らされ、それが、雲海に張り巡らされた網のようにも、降っている雨のようにも見える。それをブドリが歩きながら揺らしていく。この見立ては美しかった。

 しかしなんといっても感心したのは、最終部、ブドリが決死の火山噴火に向かう場面である。美加里演じるブドリは、人形振りもやめ、大道具の一人になったように、たんたんと無言で、大きなフレームを自力で畳んでいく。見ていた私は様々な思いで舞台への集中がとぎれ、ぼんやりとしてしまった。気がつくとブドリの姿は消えて、音もなく背景の火山から赤いテープや紙吹雪のようなものが散った。火山の噴火だった。原作同様、ブドリの死の場面は現れない。この抑制は宮城ならではの印象に残る表現だった。

 さらに続くブドリの死後のシーン。ここは原作の最後の数行を展開させ、会話シーンとして成立させている。ペンネン技師を訪ねたネリが、近くで遊んでいる子どもたちの中に、昔のブドリに似た子どもを見つける。ペンネン技師はブドリの犠牲行為をどう捉えていいか迷い、わからない、という。ネリは悲しそうではない。子どもたちを見ながら、「ああ、あそこにはグスコーブドリが、その隣にはネリがいるんだ。人間をひとりひとりわけて考えるなんて、ばかばかしいことだったな。みんな地続きの大きなかたまりだったんだ」と言う。

 すべての生命は繋がっており、ブドリの生命もそこに引き継がれているのだから悲しくない、とするネリと、ブドリの死は残念であるとするペンネン技師を対置することにより、ブドリの犠牲の死の評価を定めずに劇は終わっていく。考えてみれば、人形劇風にしたことも、外部からの視点をセリフに埋め込んだことも、この自己犠牲の物語の危うさ、単一の価値観を相対化するための仕込みだったのではないか、とも思われる。
 しかし、それでも、全てを見終えた後に残った、この舞台の圧巻は、クーボー博士とペンネン技師の前で、自分が火山を噴かせる任務につくと語るブドリの声だった。「ぼくにやらせてください」と畳み掛けるように美加里が発する言葉は、まっすぐに客席まで届き、胸を打った。美しかった。
 宮城は、絵本世界としての美しい舞台を創り出した。それと同時に、物語の危うさをも指摘し、価値観を固定化しないために心を砕いている。

 舞台世界の美しさと価値の相対化と。観客は、どちらに身を寄せてもよいし、迷い続けてもよい、としているのだろうか。いまだに私はこの作品の評価についての岐路に立ち尽くしたままである。こうして立ち止まらせることが、結局宮城の意図したことだったのかもしれないと思いながら。

 本当に一つの生命が消えてしまう時、その生命は生きている別の生命に引き継がれるのであろうか。多くの人の幸福のために一人の生命が捧げられることを、美しいことと肯定して良いのだろうか。私も劇中の老技師ペンネンナームのように、この先も立ち止まって、考え続けざるをえない。

【筆者略歴】
今井克佳(いまい・かつよし)
 1961年生まれ、埼玉県出身。東洋学園大学教授。専攻は日本近代文学。ブログ「ロンドン演劇日和&帰国後の日々」。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/imai-katsuyoshi/

【上演記録】
SPAC「グスコーブドリの伝記
静岡芸術劇場(2015年1月17-21日)

演出:宮城聰
作:宮沢賢治
脚本:山崎ナオコーラ
ドラマトゥルク:西川泰功
音楽:棚川寛子

出演:美加理、阿部一徳、池田真紀子、大内米治、木内琴子、大道無門優也、本多麻紀、森山冬子、山本実幸、吉植荘一郎、渡辺敬彦

演出補:中野真希
舞台監督:内野彰子
舞台:林哲也、神谷俊貴
舞台美術デザイン:深沢襟
舞台美術助手:佐藤洋輔、三輪香織、徳舛浩美
照明デザイン:小早川洋也
照明協力:大迫浩二
照明操作:中野真希
音響デザイン:加藤久直
音響操作:大塚翔太
衣裳デザイン:堂本教子
衣裳:大岡舞
衣裳製作:畑ジェニファー友紀、清千草、梅原正子、杉山浩子、諏訪部翔子、駒井友美子
ヘアメイク:梶田キョウコ
英語字幕翻訳:スティーブ・コルベイユ
英語字幕操作:鈴木麻里
制作:丹治陽、中澤翠
宣伝美術:
 絵・清川あさみ(絵本「グスコーブドリの伝記」リトルモア刊より)
 デザイン・榊原幸弘
プロモーションビデオ:フリーライディング

主催:SPAC-静岡県舞台芸術センター
後援:静岡県教育委員会、静岡市、静岡市教育委員会
支援:平成26年度文化庁劇場・音楽堂等活性化事業

 

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です