大橋可也&ダンサーズ「CLOSURES」

◎コントロールを遊ぶむき出しの時間  木村覚(ダンス批評)  大橋可也の作品が見る者を唖然とさせるとき、そこには独自の「時間」が出現している。だからぼくにとって、大橋は時間の作家である。観客をもてなす何らの物語も、舞台上 … “大橋可也&ダンサーズ「CLOSURES」” の続きを読む

◎コントロールを遊ぶむき出しの時間
 木村覚(ダンス批評)

 大橋可也の作品が見る者を唖然とさせるとき、そこには独自の「時間」が出現している。だからぼくにとって、大橋は時間の作家である。観客をもてなす何らの物語も、舞台上の人物による自己告白もなく、経過する時間。受け身の観客に満足を与えるイリュージョンのヴェールはあっさりはぎ取られ、むき出しでからっぽな、裸の時間が、劇場の閉じた空間に放り出される。

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吾妻橋ダンスクロッシング

◎規範をすり抜ける遊戯の内にダンス的な何か(「面白い」瞬間)がある
木村覚

吾妻橋ダンスクロッシング一時の暗転の後、どこの誰か分からない十人弱の一団(買い物かごを持った主婦?)が瞬時に舞台に上がると、一斉に白い棒をひたすら振りまわし互いの体をぶっ叩きはじめた。「白い棒」はよく見れば長ネギだった。三十秒ほどで一団が消え去った後に取り残され呆然とする満場の観客のなかでぼくは、裂けて飛び散り揮発して空気に入り交じったネギの汁のせいで涙が止まらず、まさにイチモクサンといった勢いで出口となるエレベーターに飛び乗ったのだった。

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庭劇団ペニノ「アンダーグラウンド」

◎「庭」が可能にするリアルな妄想の感触
木村覚

庭というのは自然そのものではない。むしろ妄想そのものだ。自然の内に押し込め入念にしつらえた妄想。庭とはまたひとを招く場所、庭が体現する妄想に客人が巻き込まれ吸い込まれる場所。時折迷いネコが通り過ぎたりする。庭劇団ペニノ(以下、ペニノ)の庭ではそんなネコのように役者は観客の存在を無視したまま、現れて消えていく。普通のセリフ劇がセリフとそれを口にする役者へ観客の注意を一元化するのに、ここでは庭とそこにいるすべてのものどもが等しく興味深い。

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