龍昇企画「モグラ町」

◎ダメな男たちが奏でる、ユルい漱石的シェイクスピア的日常
高木 登(脚本家)

「モグラ町」公演チラシ男がダメだと思う。統計を取ったわけでもなんでもないが、それはもうけっこう以前からの実感で、自分自身が相当ダメだと思っているのに、そんな自分から見ても相当ダメな男が多いのだ。妬む、やっかむ、ひがむ、拗ねる。それが露骨に透けて見えるから、こちらも疲れる。そうした連中への憎しみをもって何本か芝居を書いたこともあるが、そうそう現実が変わるわけもなく、ダメな男は依然ダメなままだ。

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龍昇企画「モグラ町」

◎待ったなしで台詞が飛んでくる 「間」は徹底して削がれて
小畑明日香(慶応大生)

あーおもしろかった。圧倒されるんじゃなく、笑いたいとこで笑えて、終始伸び伸びとした気分で見られた。こういう演目があるから芝居はやめられない。

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拠点活動カンパニーと来年度の演出家決まる キラリ☆ふじみ

 埼玉県富士見市の公共劇場キラリ☆ふじみの拠点活動カンパニー(キラリンク☆カンパニー)と来年度の《キラリ☆ふじみで創る芝居》の演出家が発表されました。

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チェルフィッチュ「フリータイム」(クロスレビュー)

<クロスレビュー 第4回> チェルフィッチュ「フリータイム」

「フリータイム」公演チラシチェルフィッチュの2年ぶりの新作「フリータイム」が東京・六本木のライブハウスSuper Deluxeで開かれました(3月5日-18日)。昨年参加したブリュッセルの芸術祭「クンステンフェスティバルデザール」で注目され、ブリュッセルをはじめウイーン、パリの芸術祭との共同制作で新作が実現。今年は20都市での海外公演も決まるなど、チェルフィッチュの活動は演劇の先端を切り開くパフォーマンスとして高く評価されています。
そこで3月のワンダーランド・クロスレビューはこの「フリータイム」公演を取り上げました。ファミレスに毎朝立ち寄る派遣OLの30分とは-。(★印の5段階評価と300字コメント。掲載は到着順)

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チェルフィッチュ「フリータイム」

◎「希望の根拠」に連帯の契機はあるか?
松澤裕作(東京大学助教)

「フリータイム」公演チラシ岡田利規は政治的な劇作家である。彼は、前作「エンジョイ」を「プロレタリアート演劇」と称して憚らなかったし(注1)、「三月の五日間」が岸田賞を受賞した際も、「世界が平和なら、この作品はアクチュアリティを持ちません。」(注2)と述べていた。そのことと、チェルフィッチュに特有の方法とを、切り離して考えるべきではない。

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「春琴」(サイモン・マクバーニー/演出・構成)

◎最後に付け加わった衝撃シーン 「陰翳礼讃」の世界はどこにもない
今井克佳(東洋学園大学准教授)

「春琴」公演チラシ「春琴」には二度、足を運んだ。一度目はプレビュー2日目。初日は開演時間が一時間遅れたと後に聞いたが、この日は10分程度の遅れで始まった。

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「春琴」(サイモン・マクバーニー/演出・構成)

◎身体と言葉‐陰翳のポリフォニー
芦沢みどり(戯曲翻訳家)

「春琴」公演チラシ谷崎潤一郎は『春琴抄』の冒頭を、<私>が大阪市下寺町にある春琴の墓を訪ねて行く場面で始めている。『鵙屋春琴伝』という架空の原テクストを設定した谷崎は、たまたま入手した小冊子の内容を紹介するという形でこのあと春琴と佐助の物語を展開させて行く。したがって冒頭部分は、墓参りをしている<私>(たぶん谷崎)が物語の作者ではなく解説者であることを読者に印象づけるためのプロローグなのである。さらにこの小冊子は春琴の弟子であり事実上の夫であった佐助が晩年に、そばに仕えた鴫沢てるに話して書き取らせたものであることまでほのめかしている。なぜ谷崎は物語を語るのにこのような複雑な構造にしたのか? それについて岩波文庫版『春琴抄』の解説者である佐伯彰一は、「谷崎流の語りの戦略」だと言っている。一人語りでは当然、語られる知識の内容が限定せざるを得ない。これはその視野の狭さを解消して語りにさまざまな声を取り込むための仕掛けなのだという。つまり作者、解説者、物語の語り手という複数の声を投入して一人語りを多彩なものにする装置というわけだ。

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「春琴」(サイモン・マクバーニー/演出・構成)

◎観る前には戻れない 上質なドキュメンタリー映像の感覚
清末浩平(劇作家、劇団サーカス劇場主宰)

「春琴」公演チラシ先日、私の先輩で休業中(?)の演出家である西悟志氏と会ったとき、彼が「戯曲でなくても、どんなテキストであっても舞台作品として上演することは可能だ」と言ったのを聞いて驚いた。
西氏は実際、プーシキンの小説など非戯曲作品の演出をこれまで行っており、特に阿部和重の小説『ニッポニアニッポン』の舞台化作品は大傑作の名に値する舞台として私の記憶にも刻みつけられているのだが、しかし、喫茶店で私と話しているときに「舞台作品として上演」できるテキストの例として彼が挙げたのは、東浩紀の『動物化するポストモダン』だったのである。言うまでもなくこの高名なテキストは評論文であり、ストーリーを備え会話もある程度書かれている小説ならともかく、そんなテキストが演劇として上演されるような事態など、そのときの私には想像もできなかった。

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「春琴」(サイモン・マクバーニー/演出・構成)

◎近代が生み出す光と闇の構図
水牛健太郎(評論家)

「春琴」公演チラシ近代とは光であり、近代化とは明るくなることだ。近代へと人々を導く「啓蒙」を意味する英語(enlightenment)は直訳すると「明るくすること」という意味だが、それは単に比喩ではない。地球を人工衛星から撮影すると、北米、欧州、日本は、夜でも人工の照明でまぶしいほどに輝く一方、サハラ砂漠やアマゾン川流域は、深い闇の中に沈んでいる。韓国は明るいが、38度線の北は暗い。経済発展が続く中国の沿岸部やインドにはうっすらと光の網が広がり、徐々に輝きを増している。

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