toi presents 「あゆみ」

◎演劇の「交換可能性」と「単独性」
松井周(サンプル主宰、劇作家・演出家・俳優)

「あゆみ」公演チラシ「私はどこにでもいる他の誰かと変わらないありふれた存在だ」という感覚は、誰でも感じられることのように思える。これを仮に「交換可能性」と呼ぶ。また、「私はただ一人であり、他人もそれぞれ唯一の存在だ」という感覚も誰でも感じるであろう。これを「単独性」と呼ぶ。この二つは相反する概念のようでありながら、演劇においては実はあまり矛盾しないかもしれない。

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三条会「ひかりごけ」

◎歴史と作品の「分からなさ」を引き受ける 7年間の進化から浮かぶ表現
 志賀亮史(「百景社」主宰)

 5月3、4日栃木県那須町で行われた「なぱふぇす2008」で三条会「ひかりごけ」を観た。三条会が「ひかりごけ」を上演するのは、この「なぱふぇす2008」で10回目である。そして私が「ひかりごけ」を観るのも10回目。実を言うと、私は運のよいことに10回すべてのバージョンを観ているのである。ただまあ、正確に言うと海外公演(中国、韓国、台湾)はさすがに現地では観ていない。稽古場で観させてもらったのではあるが。

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Monochrome Circus「The Passing01-03 WASH」

◎内と外が激しく渦巻くイメージ 全体を貫くのは意味世界かダンスか
 藤原央登 (劇評ブログ「現在形の批評 」主宰)

 己が身体を拠り所に世界のある断面を切り取り、そこに全てを凝集し且つ抽象化を施して、舞台上に書き付ける。パフォーマンスやコンテンポラリーダンスの担い手とはいわば身体を一つの焦点に、世界全体のバイアスを進んでまるごと引き受ける者のことを差す。時として文字(台詞)の意味内容から構成されるテクストが紡ぎ出す文脈以上の直截性を持ち得るのは、身一つで茫漠とした荒野にそれでも立ちつくそうとする意志を滲みだす身体の純化された姿があるからだ。その身体が書き記す様々な手つきが批評となるからこそ、「同時代」と冠されたことの価値へと接続されるのだろう。京都を拠点に海外でも活動するモノクロームサーカスの公演を、この点から即してみると、いまひとつ納得し難いように思われた。

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