shelf 「Little Eyolf-ちいさなエイヨルフ-」

◎その囁きは水底から響いてきたようにも思えた
大泉尚子

「Little Eyolf-ちいさなエイヨルフ-」公演チラシJR埼京線・板橋の駅を降り、歩くこと10分。まさかここじゃあないよなあ…というくらいの細っこい路地を折れた、行き止まりのどん詰まり。東武東上線の線路の柵が立ち塞がり、目の前を轟音を立てて電車が走り過ぎていく、その脇。劇場というよりは、駆け落ち(って死語かもしれないけれど…)した二人がひっそりと隠れ棲むのにふさわしいような、そんな場所にこのatelier SENTIOはある。どうか見つけないでくださいと言わんばかりに。そこで行われているSENTIBAL!2009の参加作品として、shelfの「Little Eyolf―ちいさなエイヨルフ―」(イプセン作、矢野靖人演出)が上演されていたのだった。

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ピエール・リガル「プ・レ・ス」第3回

◎閉塞空間をリアルな身体で生きる ユーモアを意識的に導入して
堤広志

Shizuoka春の芸術祭2009プログラム表紙●異色の振付家ピエール・リガル

ビエール・リガル(Pierre Rigal)は、ここ数年で一躍世界的に注目されるようになったアーティストである。1973年南フランス・トゥールーズ近郊に生まれ、陸上競技の400m走ならびに400mハードルのアスリートとして活躍した後、バルセロナ大学で数理経済学を、トゥールーズのオーディオ・ビジュアル・スクールで映画製作を学んだという異色の経歴を持つ。

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TAGTAS「百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-」(前・後篇二部作)

◎置いてきぼりにされたメロドラマ・ジャンキー 観客の場所はどこ?
都留由子

TAGTASプロジェクト公演チラシTAGTASプロジェクトの「百年の<大逆>」前編と後編を観た。TAGTASとはトランス・アヴァンギャルド・シアター・アソシエーションの略で、今回筆者が観た「百年の<大逆>」は、円卓会議、リーディング、映画の上映などとともに、その設立公演のひとつ。一週間の間隔を置いて前編と後編が上演された。

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TAGTAS「百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-」(前・後篇二部作)

◎それが露わにされるとき
大泉尚子

TAGTASプロジェクト公演チラシ前衛=アバンギャルドという言葉をとんと聞かなくなって久しい。こないだ若い人に暗黒舞踏の説明をしようとして、「前衛的な踊り…」と言いかけて思わず赤面してしまい、あわてて「当時は前衛的と言われた踊り…」と言い直した。何か、口にするだけでもちょっと気恥ずかしい感じがするんだけど、それって私だけでしょうか?

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TAGTAS「百年の<大逆>-TAGTAS第一宣言より-」(前・後篇二部作)

◎「観る」とはどういう行為なのか
金塚さくら

TAGTASプロジェクト公演チラシ舞台は薄暗く、奥までほとんど剥き出しだ。装置と呼べるものは上手に立てられたパネルと、下手に据えられたダンスレッスン用のバーしかない。もうひとつ、簡素な演台が奥に置かれている。
演台の向こうに男が立つ。ヘッドホンを着けカセットテープらしきものをセットし、手元のノートに目を落として論説文のようなものをゆっくりと朗読し始める。「本当のことを話す者にとっては-」

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ピエール・リガル「プ・レ・ス」(第2回)

「ダンス」や「アート」の概念を揺さぶる
堤広志

●「演劇」か「ダンス」か、それが問題か!?

「今どきのコンテンポラリー・ダンスはどうなっているの!?」という問いかけの裏には、「なぜ、これがダンスなの?」「どこがダンスとして評価できるの?」という疑問があるように思う。それだけ現在のコンテンポラリー・ダンスと呼ばれている表現は多種多様であり、一般的なダンスの概念からは乖離してみえるようなものが数多くあるということなのだろう。

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ヤン・ファーブル「寛容のオルギア」

◎「人間的な、あまりにも人間的な」ヤン・ファーブル
 竹重伸一

 観劇後というか観劇中から当惑した苛々とした気分が湧いてくるのを抑えることができなかった。8年のインターバルがあるとはいえこれがあの刺激的な「わたしは血」と同じヤン・ファーブルの作品なのだろうかという思いである。

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東京デスロック「演劇LOVE2009~愛のハネムーン~」

◎コミュニティの誕生、成熟、崩壊、再生へ 編み直す演出で成長する作品
 カトリヒデトシ

 現在、演出に専念している多田淳之介の最後のオリジナル作である「LOVE」の再演を見た。
 今作は「演劇LOVE2009~愛のハネムーン~」というツアー。1月の韓国公演を皮切りに、6月に埼玉県富士見市のキラリ☆ふじみでプレビューの後、桜美林大学(神奈川)、青森、7月に神戸、そして来年2月に鳥取と各地で公演していく。再演に全く関心のなかった多田が初めて取り組む再演ものにして、初の国内巡業作品である。

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東京デスロック「演劇LOVE 2009~愛のハネムーン~」(LOVE 2009 Kobe ver.)

◎自足的世界から現在に投企する 前後半を結ぶ「LOVE」
 藤原央登

 舞台作品を創るために、その担い手達の関係性がいかに濃密で、意思疎通の取れたものであるかどうかは非常に重要である。その成果は、制作面での効率の良さや、舞台での均整のとれたアンサンブルとして表れる。だが濃密な関係は、外部性が欠如し自足した小宇宙を形成する悪しき方向へ進むことがままある。そして、それを優しく承認する受け手が馴れ合いという意味での他者不在の単一自己を完成させてしまう。プロかアマか。演劇に限らず芸術に胎胚し、分かちがたく関連するこの背反要素からは逃れることができない。だからこそ創り手には、自己満足的に完結しがちな劇集団という制作工房を常に今現在と切り結ばんと進んで投企する意思が必要となる。加えて受け手側、少なくとも劇評をものする者は創り手の意思を丹念に掬い上げ、時に方向を修正し自覚させるくらいの気概がなければならない。

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