shelf「deprived(仮)」

◎私/たちのありかを問う
 中村みなみ

shelf_vol17_omote 「deprived(仮)」という一風変わったタイトルは、当初「private」とされていたらしい。privateとdeprived(奪われた)とは同語源の言葉である。privateには、人間がみな属しているpublicから分離した/所属関係を奪われた状態の意が含まれているそうだ。

 2014年4月に上演された「deprived(仮)」は、時代・国・形式の異なるさまざまなテキストがコラージュされた演劇である。
 shelfはこれまでも「untitled」(2011)、「edit」(2013)等でテキストコラージュに取り組んできたが、今作品は『日本国憲法前文』に始まり、太宰治による小説『おさん』『人間失格』、ベルトルト・ブレヒトの戯曲『セツアンの善人』、武者小路実篤のエッセイ『ますます賢く』、武田泰淳の短編小説『ひかりごけ』、日本国歌『君が代』、童謡『手のひらを太陽に』、賛美歌『アメイジング・グレイス』、英詩人ウィルフレッド・オーエンの『不思議な出会い』と、特に幅広い種類の言葉が引用されている。

 6名の俳優たちはそれぞれが各パートを負う形となっており、川渕優子による『日本国憲法前文』朗誦に続いて三橋麻子が『おさん』の終局部分を語ると、その次には別の俳優が別のテキストを…といった具合に展開していく。
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ナショナル・シアター・ライヴ「コリオレイナス」

◎トム・ヒドルストンと悲劇の向かう先
 藤原麻優子

 辻佐保子氏が『ワンダーランド』390号に寄稿した通り、2014年に入って英国のナショナル・シアターによる舞台作品の上映「ナショナル・シアター・ライヴ」がTOHOシネマズで開催されている。第一作が辻氏の扱った『フランケンシュタイン』、そして第二作が本稿にて取り上げる『コリオレイナス』である(註1)。同作はシェイクスピアの『コリオレイナス』に基づき(註2)、300席に満たないドンマー・ウェアハウスの小劇場空間での新演出による上演であった(註3)。ドンマーの芸術監督ジョシー・ルークによる演出、『アヴェンジャーズ』『マイティ・ソー』への出演で世界的なスターとなったトム・ヒドルストンのコリオレイナス、人気ドラマ『シャーロック』のマーク・ゲイティスらも出演する話題の舞台であり、劇場には連日早朝から券を求める列ができたという。
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趣向「男子校にはいじめが少ない?」short version

◎永遠の夏を生きる男子たち
 水牛健太郎

ちらし 評を書こうという今になって思ったが、不思議なタイトルである。男子校にはいじめが少ない、という説なり調査があるのかどうか知らない。ともかくもタイトルどおり、男子校、の話であり、それもいじめとは無縁の、のほほんとした場面が展開されていく。
 といっても、男子高校生5人を演じるのは、全員女性である。おまけに歌あり、踊りありで、つまりはミュージカル。簡素な裸舞台ながら、いっそ、宝塚みたい、と言ってしまってもよい。
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ぬいぐるみハンター「トムソンガゼル」

◎多層化された可能性
 中村直樹

 新中野に古びた一件の建物がある。「風みどり」。知らなければ見過ごしてしまうような小さな小さな建物だ。だがしかし、その中で展開されたものは大きな大きな世界を物語っていた。

 ぬいぐるみハンターのオルカアタックvol.1「トムソンガゼル」は2014年1月28日から3月2日まで上演された作品である。

 会場となった風みどりは、元々はヨーロッパで仕入れてきた雑貨を売る店だったようだ。なので、作りは洒落た感じである。そして20人も入ればいっぱいになってしまうような狭い空間。そこにパイプ椅子が並べられている。板の間なのでとても寒い。電気ストーブが入り口そばに置いてあるが、それだけでは会場は到底暖まりきらない。目の前にはアコーディオンカーテンが掛かっており、奥の部屋を隠している。

 時間となり、アコーディオンカーテンが開いた。電子レンジに流し台に炊飯器。そこは台所だった。その台所には1人用のテーブルが置いてあり、プレートとカップが置かれている。その席にガゼル役の役者が優雅に座っている。しかし、その優雅な時間はあっという間に崩れ去った。奥の勝手口が開きトムを演じる役者とソンを演じる役者が駆け込んできたからだ。
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エレベーター・リペア・サーヴィス「アーギュエンド」、ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマ「ライフ・アンド・タイムス」ほか

◎「世界演劇」の終わり
 高橋宏幸

 「日本」的な場所に生息する演劇を批判するために、「世界」という言葉を対置することは、はたして批判として有効なのだろうか。確かに、2000年代あたりに美術批評から生まれた日本の「悪い場所」という言葉と、それを批判する言説は、わかりやすさもあいまって、演劇へも転用された。

 演劇の「悪い場所」とは、概して若いある一世代の共通的な感覚のもとで作られた、日本の中でしか流通しないとされた演劇作品を指していたのだろう。実際、共感を求める情緒共同体としての若者の演劇の形成は、日本の演劇、とくに「小劇場」という本来の理念が過ぎ去った後の「小劇場演劇」の特徴とされた。常に上書き的に更新される、狭い範囲の一世代の演じ手と観客のみで成り立つ演劇。それを批判する手段として、より大きな枠組みとして「世界」という言葉を使うことは、ある時点までは、批判のための有効なツールだっただろう。「世界」で、この作品は受け入れられるのか、と。
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春秋座サバイバーズ「レジェンド・オブ・LIVE」

◎演出家杉原邦生、市民参加型公演作品の深化、進展
 カトリヒデトシ

legend_of_liveチラシ 杉原邦生とのつきあいもそこそこ長くなってきた。
 最初は2009年4月にこまばアゴラ劇場で行われた1982年生まれの演出家5人と1984年生まれ1人が、それぞれの新作を発表した企画「キレなかった14才 りたーんず」だった。宮沢章夫『14歳の国』を演出した。それ以来折りにつけみている。自分の企画「カトリ企画UR4『文科系体育会』」の演出も12年にお願いした。そんな近しい関係であることを始めに明記してこのレビューを記す。

 今回は3月22日〜23日に京都芸術劇場春秋座で上演された「演じるシニア企画2013」の作品制作である『レジェンド・オブ・LIVE』を見た。
 杉原はここ4年ほど、一般に募集した人を集め、ワークショップを重ね、最後に作品を発表するという企画を続けている。その取り組みに以前から注目してきた。
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マームとジプシー「塩ふる世界。」「モモノパノラマ」ほか

◎ロングスカートの少女たち—マームとジプシーにおける身体性
 藤倉秀彦

 マームとジプシーの身体性について書く。

 身体のリアルの低下—つまり、自分にはカラダがある、という実感の希薄化というのが、80年代くらいから進行していたのではないか、というふうに個人的には感じている。こうした身体の希薄化は、90年代以降の所謂「静かな劇」においては、平田オリザ的な「動かない身体」というかたちで表現されてきたのではないか。つまり、90年代から00年代は、80年代的な「躍動する身体」みたいなものを提示するのは、古い、ダサい、恥ずかしい、という感覚が作り手の側にも、受け手の側にもある程度共有されていたのではないか、と。これは自己が身体から疎外されている—あるいは逆に、身体が自己から疎外されている—という感覚の反映なのかもしれない。
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連載「もう一度見たい舞台」第4回

◎新宿梁山泊「東京アパッチ族」
 水牛健太郎

 調べてみたら、この作品は一九九九年五月から六月にかけて神田花岡町の特設テントで上演されていた。私は一九九九年八月に、結果的に四年間に及んだアメリカ留学に出発したので、その直前に見たことになる。

 その頃の私は、演劇は見なかった。それまでの人生で確かに見たと言えるのは、小学生の時に市の文化会館で見せられた劇(確か、メキシコを舞台にした革命劇だった)と、高校の文化祭の演劇部の公演(作・演出の三年生が白塗りでオカマを演じた)ぐらいである。

 「東京アパッチ族」は、友人に勧められて見た。これがとても面白かったので、留学までの三か月足らずに、あと二、三本演劇を見た記憶がある。もっとも、留学中はブロードウェイで何回かミュージカルを見た程度。アメリカから帰って何か月も経ってから、「そういえば『東京アパッチ族』ってすっごく面白かった」と思いだし、これが演劇を見始める一つのきっかけになった。
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