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	<title>ワンダーランド wonderland</title>
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	<description>小劇場レビューマガジン</description>
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		<title>地点×KAAT「トカトントンと」</title>
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		<pubDate>Wed, 22 Feb 2012 05:55:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>編集部</dc:creator>
				<category><![CDATA[岡野宏文]]></category>

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		<description><![CDATA[◎トカトントンとドカドカドン 　岡野宏文 　虎は死んで皮を残す、人は死んで名を残す、などということを世間では太平楽な顔をして嘯いたりするわけだが、これは嘘だ。 　といったって、せいぜい犬ばかりを飼ったことがあるくらいで内 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p>◎トカトントンとドカドカドン<br />
　岡野宏文</p>
<div id="attachment_20181" class="wp-caption alignright" style="width: 151px"><a href="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/chiten-kaat_ttt0a.jpg"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/chiten-kaat_ttt0a-141x200.jpg" alt="「トカトントンと」公演チラシ"  width="141" height="200" class="size-thumbnail wp-image-20181" /></a><p class="wp-caption-text">「トカトントンと」公演チラシ</p></div>
<p>　虎は死んで皮を残す、人は死んで名を残す、などということを世間では太平楽な顔をして嘯いたりするわけだが、これは嘘だ。<br />
　といったって、せいぜい犬ばかりを飼ったことがあるくらいで内澤旬子女史のごとくかわいがって育てた豚の子をみずからの手でつぶして食するなんて芸当のできる動物好きでなし、虎のことは分からぬのだ。人である。人が死んで残すのは言葉である。もっといえば人は死して言葉だけしか残さぬ動物なのである。<br />
<span id="more-20180"></span><br />
　たとえば日記がある。</p>
<p>　没後十年、二十年たとうと遺族はこれを繰り返し読むことができる。だが文字として紙という物質の上にとどまるから言葉が残されたというのではない。ここ間違えたくない。書き言葉はしょせん言葉の仮寝の宿である。読まれた言葉が読んだ子孫の身体の中で何らかの情緒となって現象する、違ういい方をすれば他者の体にゆるやかになじんだ時、言葉は本来の言葉に蘇生すると私は考えている。言葉はそうやってもう一つの命の中へ、もう一つの命の中へと指切りげんまんしていく風変わりな約束なのだ。</p>
<p>　子孫というのは大げさだろうか。しかしげんに千数百年前の日記というやつを私たちは学校の授業で読んだためしがあるじゃない。なんだか言葉って、もう一つの人の身体にだんだん思えてきた。50億年後に太陽が膨張して地球を呑み込んでしまったあとも、どこかの虚空に言葉だけがサリサリと漂っていそうな気さえするけど私はアセンションの人じゃないぜ。</p>
<p>　さて、その言葉と身体の問題だ。地点公演「トカトントンと」である。太宰治の短編小説「トカトントン」と名作「斜陽」のフレーズを自在に構成した90分の遊戯空間だ。いや、遊びとはホモルーデンスの真剣な営みですっつう意味でね。</p>
<p>　この舞台で最も印象的だったのは、その台詞の喋らせ方だといえよう。三浦は「発語」と必ず表現するのだが、たとえばこれは私の勝手なシミュレーションなので不細工を許されよ、原典「トカトントン」の冒頭の一節「一つだけ教えて下さい。困っているのです」がここにあるとすれば、それを三浦は「ひと　つだ　けおしえてく　ださい　こま　っているのです」みたいな感じに俳優たちに発語させるのだ。</p>
<p>　あるいは、「じゅじゅじゅじゅ、ああああ」といった具合にフレーズの中の一音を取り出して繰り返させたり、もうちょっと受け取りやすく「平和」「英国」「文体」などといった単語を台詞と台詞の間にせわしげに挟み込んでいったりもする。</p>
<p>　何が試みられているのかというと、言葉を人の体から取り出そうとしている。そのように私には見えた。</p>
<p>　私たちは言葉を使って考える。もし言葉がなかったら私たちは何も考えられない。書き言葉も話し言葉も、そういう意味で人という構造物と癒着しているといってよい。その言葉というやっかいな生き物を、音としてでもなく、意味としてでもなく、いわば風のように人体の外に立たせてしまおう、三浦の企んだのはそのことではないか、と私は勘ぐった。</p>
<p>　そのことのよすがは、舞台後方にほんとうに風が吹き荒れていたからでもあった。強烈な送風機から、金属片で編まれた後方幕に風が当たると、そこだけたわみ、反射が乱れ、キリキリと輝いたステージは、実は全体が非常にけったいなしつらえになっていて、これも面白かった。</p>
<p><!-- 「トカトントンと」公演  --></p>
<div style="font-size:10px; text-align:center; line-height:140%; "><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/chiten-kaat_ttt01.jpg" alt="「トカトントンと」公演の舞台写真1"    style="margin-bottom: 1px;"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/chiten-kaat_ttt03.jpg" alt="「トカトントンと」公演の舞台写真2"   style="margin-left: 1px;"><br />
【写真は、「トカトントンと」公演から。撮影=青木司　提供=KAAT神奈川芸術劇場　禁無断転載】</div>
<p>　どういう作りであったかといいますれば、演劇用語で「八百屋」と呼ぶ舞台の作り方があるでしょ。町の八百屋さんの店先で見かける、品物の並べられた台。店の外へ向かって斜めに下がっているじゃないですか。あれと同じに客席にむかって斜面となった舞台を「八百屋」というのだ。ところが「トカトントンと」のステージは、いわば「逆八百屋」だった。向こうへ向かって坂になっているのだ。客席のまえにひどく丈の高い壁があり、そこから奥へと舞台は下がり、一番奥が最も低い。だから俳優が登場し、客席の方へ歩いてくると、最初はなんにも見えないのに、進んでくるにつれ頭から胸、腹、足とだんだん見えてくるという寸法。なんだこれは！　と私も思った。</p>
<p>　思いながら見ているとしかし、妄想は勝手に走り始めるから便利である。</p>
<p>　原典「トカトントン」は終戦に天皇の声を聞いて悲愴になり、死なねばならぬと思った語り手の「私」に、どこからともなく「トカトントン」というかすかな音が聞こえ、そのとたん憑き物が落ちたように虚脱し、以来何かに打ち込もうとするたび同じ音が聞こえて、なんにもできなくなるというのがあらましであるけれど、三浦は明らかに終戦によって何が変わったか、政治は、支配は、民衆は、別のいい方なら天皇の戦争責任は、といったあたりにグウッと焦点を当てての演出であって、冒頭に詔勅の録音が流れる中、俳優たちがふらりふらりと浮き上がってきた風景は、この人たちは戦争で死んだ人たちなんだそれも兵隊さんではない、というふうに熟成されてしまった。そうなれば事態はこっち（妄想）のものだ。向こうっかわへ沈んだ舞台は皇居のお堀でしょう。そっから死者があがってきて、70年になろうとする戦後のかげろうを語るわけよ。語れ、語れ。</p>
<p>　いや、「語らない」のか、三浦演劇は。「発語」だったね。発れ、発れ。</p>
<p>　しかしね、発ったこの「トカトントン」て小説に私は一言いちゃもんがある。</p>
<p>　さっきもいったように、語り手の私は「トカトントン」という音を聞いてあらゆる物事から「脱膠着」してゆかざるをえない身の上となる。書いてみよう。出来事＝起きた事柄の書式である。</p>
<p>　天皇の詔勅＝「厳粛なるもの」に失意する。<br />
　小説が書けなくなる。＝文化に失意する。<br />
　郵便局で円切り替えの突貫労働＝労働に失意する。<br />
　恋をする＝恋愛に失意する。<br />
　労働者のデモを見る＝革命に失意する。<br />
　マラソンする人たちを見る＝肉体に失意する。<br />
　一万円儲けた時のことを考える＝経済に失意する。</p>
<p>　誰が見ても一目瞭然である。太宰は、ただ単にエピソードを並列に並べて、人間にとっての「大文字」の幻想を一つずつつぶしていっているだけにすぎない。あの太宰にして、なんという手抜きの構成であろうか。この小説は、演劇用語でいうところの「段取り」でしかない。大いなる「段取り小説」であると私は言うしかないのだ。凡作である。</p>
<p>　なにゆえにしてかかるがごとき作品を演劇化したか。そういぶかるはしから、凄い場面が飛び出したのであった。</p>
<p>　そのあらゆるものを台無しにしてしまう空恐ろしい音の最初に聞こえる場面で、太宰はこう書いている。</p>
<p>　「誰やら金槌で釘を打つ音が、幽かに、トカトントンと聞えました」</p>
<p>　この「幽かに」を三浦は盛大にひっくり返してみせたのだ。なにしろ登場したのは、巨大な鉄ハンマーだ。手に手にハンマー引っ掴んだ俳優たちは、力任せに舞台をぶったたく。それはなにか、重火器をぶっ放すような、地球の底を抉り返すような、図太い轟音となって劇場を満たしたから驚いた。発語しようとする俳優は、この莫大なノイズによって中断させられ、戸惑いながらハンマーの騒音に参加し、発語しようとすればまた邪魔される。このシーンは楽しかった。</p>
<p>　壮大なハンマーの爆音は、おそらく戦後の復興期にからっぽの空に高らかに響いたであろう再建の槌音のメタファーと読めるのだけれど、私にはどうも破壊の槌音と聞こえてしまったのですね。</p>
<p>　昭和28年の東宝映画「ゴジラ」の中で、海から上陸してきたゴジラがようやく復興の兆しが見えてきた東京全土を、あたかも大空襲の再来のごとくに無残に蹂躙するあの紅蓮の炎を見て以来、私たちの繁栄は嘘だと告発する裏返った希望と理想を、戦後史の中につい探してしまういけない癖が私にはついている。その意味では、ゴジラもまた水からあがってきた死者の霊であるのだが。</p>
<p>　「トカトントンと」とは、物語も、演劇も、戦後史も破壊してしまおうとする野蛮な祈りの産物ではなかったのか。</p>
<div style="float:right; padding: 0 0 5px 12px;">
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<p>【筆者略歴】<br />
　岡野宏文（おかの・ひろふみ）<br />
　1955年、横浜市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。白水社の演劇雑誌「新劇」編集長を経てフリーのライター＆エディター。「ダ・ヴィンチ」「サファリ」「ｅ２スカパーガイド」などの雑誌に書評・劇評を連載中。主な著書に『百年の誤読』『百年の誤読 海外文学編』（ともに豊崎由美と共著）『ストレッチ・発声・劇評篇 (高校生のための実践演劇講座)』（扇田昭彦らと共著）『高校生のための上演作品ガイド』など。<br />
・寄稿一覧：<a href="http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/okano-hirofumi/">http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/okano-hirofumi/</a></p>
<p>【上演記録】<br />
KAAT神奈川芸術劇場×地点「<a href="http://chiten-kaat.net/">トカトントンと</a>」<br />
KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオ（2012年2月9日-14日）</p>
<p>原作／太宰 治<br />
演出・構成／三浦 基<br />
出演／安部聡子、石田大、窪田史恵、河野早紀、小林洋平、庸雅</p>
<p>美術／山本理顕（山本理顕設計工場）<br />
照明／大石真一郎（KAAT神奈川芸術劇場）<br />
音響／徳久礼子（KAAT神奈川芸術劇場）<br />
衣裳／堂本教子（atelier88%）<br />
舞台監督／山口英峰（KAAT神奈川芸術劇場）<br />
プロダクション・マネージャー／山本園子（KAAT神奈川芸術劇場）<br />
宣伝美術・WEB／松本久木（MATSUMOTOKOBO Ltd.）<br />
制作／伊藤文一（KAAT神奈川芸術劇場）、田嶋結菜（地点）<br />
広報／熊井一記（KAAT神奈川芸術劇場）<br />
営業／中里也寸志（KAAT神奈川芸術劇場）</p>
<p>主催／KAAT神奈川芸術劇場(指定管理者:公益財団法人神奈川芸術文化財団) </p>
<p>平成23年度文化庁優れた劇場・音楽堂からの創造発信事業<br />
EU・ジャパンフェスト日本委員会<br />
京都芸術センター制作支援事業</p>
<p>TPAM in Yokohama 2012（国際舞台芸術ミーティング in 横浜）<br />
TPAMディレクションPlus参加作品（2/13、2/14の公演）</p>

]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>ルーマニアの演劇祭Temps d&#8217;Image Festival</title>
		<link>http://www.wonderlands.jp/archives/20160/</link>
		<comments>http://www.wonderlands.jp/archives/20160/#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 22 Feb 2012 05:54:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>編集部</dc:creator>
				<category><![CDATA[岩城京子]]></category>

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		<description><![CDATA[◎表現の自由を獲得したルーマニア演劇 　岩城京子 　「ルーマニアでは若手演劇作家が突然 “出世” することはない」と、現地劇評家ユリア・ポポヴィチは語る。なぜならこの旧共産主義国では、新たな才能を育成するためのエリート・ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p>◎表現の自由を獲得したルーマニア演劇<br />
　岩城京子</p>
<p>　「ルーマニアでは若手演劇作家が突然 “出世” することはない」と、現地劇評家ユリア・ポポヴィチは語る。なぜならこの旧共産主義国では、新たな才能を育成するためのエリート・ルートが良きにつけ悪しきにつけ国家により定められているからだ。「ルート」－すなわちこの国では1977年から現在に至るまで「一流の」演劇人を志すものはみな、22年前まで国内唯一の高等演劇教育機関であった国立ブカレスト映画演劇大学への「入学許可証」を得る必要があるのだ。<br />
<span id="more-20160"></span><br />
　入学許可証……、なんだ簡単じゃないかと侮ることなかれ。合格証といっても日本のようにペーパーテストのみで入手できる代物ではない。若者たちはまず「Chant de la Romanie (ルーマニアの歌)フェスティバル」という国家的アマチュア芸術祭でその才能が厳しくふるいにかけられ、そこで認められた精鋭だけが、演出家、戯曲家、舞台美術家、舞台俳優の卵として大学進学を許されるのだ。要はキャリアのスタート時点から彼らは、王朝時代に科挙を突破した中国の官僚のごとく、すでに「出世」しているわけだ。</p>
<p>　そしてこの厳格なエリート教育制度の賜物として、今までアンドレイ・セルバンをはじめとする数多くのルーマニア人演出家たちが、鍛えられ、育まれ、認められてきた。ただし問題となるのは彼らが、文字通り、世界へと飛び立ってしまった事実。</p>
<p>　1989年まで続いたチャウシェスク共産主義政権下では自由な芸術表現（特に政治体制の言説に抗うポリティカルシアター）など許されるわけもなく、多くの才能が国外へと流出してしまったのだ。そのため近年までルーマニアでは、国立劇場での古典作品（シェイクスピア、モリエール、チェーホフ）は政治状況に関わらず上演されてきたものの、現代作家による現代の観客のためのコンテンポラリー・シアターというものは逆に皆無に等しかったのだ。</p>
<p>　前出のポポヴィチによると、2002年に国立ブカレスト映画演劇大学の学生たち数人がその卒業制作舞台で「国立劇作家脚本家協会の代表者であるアイスランドの社会派作家ハヴァー・シグールヨンソンやオフオフ・ブロードウェイでの最長ロングラン作品『Line』の劇作家である米国人イスラエル・ホロヴィッツによる舞台を上演し、一世を風靡したこと」が革命後のコンテンポラリー・シアターのはじまりだという。要するにこの国では、現存作家による現代演劇を上演する歴史がまだ、ほんの10年しか存在しないわけだ。しかし逆に現代演劇が未だ揺籃期にあるからこそ、この国のコンテンポラリー・シアターにはなんとも言い表しようのない勢いがある。</p>
<p>　もちろん経済的には日本同様、インディペンデントな演劇人の懐具合は逼迫している。国からの定期助成もなく、常設小屋もなく、売上収入もあまりなく……、彼らは別口の収入源を持ちながら創作活動に携わっている。ただそれでも彼らからは「自分たちは国の芸術形態を変革しているのだ」という矜持が感じられる。昨年11月16日から19日まで、そうしたルーマニアのコンテンポラリー・シアター・シーンを形作る若手作家たちの作品群を、ルーマニア北西部トランシルヴァニア地方の都市クルージュ・ナポカで開催された「Temps d&#8217;Image Festival」にて観劇してきた。本フェスティバルは、2002年にフランスの仏独共同出資テレビ局ARTEとパリ郊外の国立文化施設フェルメ・デュ・ビュイッソンという二つの組織によって創設された国際的プラットフォームを基盤に持つコンテンポラリー・シアターの祭典。パリ、モントリオール、デュッセルドルフ、リスボンなど毎年異なる主催都市（多くは複数都市）で行われ、クルージュ・ナポカでの開催は2008年、2010年につづき、３度目となる。</p>
<div id="attachment_20161" class="wp-caption aligncenter" style="width: 460px"><a href="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/iwaki_fabrica-by-brice-guillaume.jpg"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/iwaki_fabrica-by-brice-guillaume.jpg" alt="会場La Fabrica de Pensule"  width="450" height="300" class="size-full wp-image-20161" /></a><p class="wp-caption-text">【写真は、フェスティバルの本会場La Fabrica de Pensule。<br />「Romanian Dance History 3」はここで上演された。photo=Brice Guillaume 　禁無断提供】  </p></div>
<p>　大胆にも、32歳の芸術監督ミキ・ブラニシュテはフェスティバル期間10日中５日間を「ルーマニア限定週間」と定め、現代ルーマニア演劇にまつわるレクチャー５本、ダンス作品５本、そして演劇作品６本を世界中から訪れた舞台関係者にむけて披露した。目的は言うまでもなく、ようやく軌道に乗り始めたルーマニア・コンテンポラリー・シアターをより多くの人々に認知してもらうこと。筆者が参加したのは、レクチャー２つ、ダンス作品全５本、そして演劇作品４作。このなかから特に注目すべき作品２作を紹介したい。</p>
<p>　まず１作目は、マヌエル・ペルムスとファリド・ファイルーズが振付を担う『Romanian Dance History 3』。末尾の数字が表すように、本作はいま欧州中のダンス界を「ステージ・ジャック」していると話題のシリーズ第３作目。</p>
<p>　ちなみに前作では世界屈指のダンスフェスである＜Tanzquartier Wien＞で、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルによる新作『En Attendant』の初日カーテンコールが終わったのち、ペルムス他もうひとりの男性が予告なしに舞台に登場して出口へと向かう観客を呼び止め、そこから作品をゲリラ的に上演しはじめ論議の的となった。ペルムスとファイルーズのこうした大胆不敵な行動の目的は「パフォーミング・アートの権力構造に一矢報いる」ことにある。舞台上には名のある振付家のダンス作品があり、客席には高等教育を受けたブルジョワ客がおとなしく座り、最後にはしたり顔で「お芸術」に拍手を送る。彼らは、そんなもん糞喰らえ、とまるで60年代米国の「パフォーマンス」アートの異才たちよろしく、お芸術の枠組を威勢良く破壊する。</p>
<p>　もちろん筆者が観劇した最新作でも、彼らはこの「舞台－観客」の関係性の転覆構図を採用。上演時間45分中、観客は当惑しつづける……というより、完全に演者に「シカト」されつづけることになった。</p>
<p>　上演開始とともに、こまばアゴラ劇場ほどの小さな舞台上に、ファイルーズが普段着で現れマイクを持って一言：「ルーマニアの社交ダンスについてもっとよく知ろうぜ」。そしていきなり大爆音で数年前からルーマニアのポップスシーンを席巻している「ジプシー・ポップス」という軟派なクラブミュージックが流れはじめる。舞台上の10人ほどのダンサーたちは、まるでクラブにいるかのように音楽に乗って体をゆったり揺らしはじめる。１曲目が終わると客席からはまばらな拍手、だが彼らは気にもせず、２曲、３曲、４曲と踊りつづけていく。次第に拍手という「儀式」が会場から消滅し舞台上は完全にクラブ化、男性ダンサーが女性ダンサーを口説き始める。背後に流れる歌詞は「俺はビッグになるぜ、金持ちになるぜ」というラップによくみられる俗な内容。「教育された観客たち」はこれにどう反応していいものやら、とそわそわし始める。だがあるとき、数人の勇敢な観客が「クラブ」に参加して踊りはじめると、そこはもはや演者と観客のいる「劇場」ではなく、ひとつの社交目的のダンスを楽しむための「クラブ」となる。まさに、ルーマニアの「ソーシャル」ダンスが披露されるというわけだ。</p>
<p><!-- Temps d'Image Festival  --></p>
<div style="font-size:10px; text-align:center; line-height:140%; "><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/rumanian_dance01.jpg" alt="「Romanian Dance History 3」公演の舞台写真1"    style="margin-bottom: 1px;"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/rumanian_dance02.jpg" alt="「Romanian Dance History 3」公演の舞台写真2"   style="margin-left: 1px;"><br />
【写真は、「Romanian Dance History 3」公演から。photo=Sanziana Craciun　禁無断提供】</div>
<p>　「果たしてこれはダンス作品なのか？」。上演終了後、観客からは疑問と不満の声があがる。だが40年以上前、グロトフスキーが劇場文化の中心にはつねに「演者－観客の関係性が存在する」と語った有名なマニフェストを参照するなら、彼らの作品は完全に「シアター」の枠組みに包括される芸術だと言えるだろう。</p>
<p>　紹介したいもう一つの作品『Heated Minds』は、打って変わって非常に硬派かつ直球勝負のキュメンタリー演劇だ。本作の演出家であるデヴィッド・シュワルツ（脚本はエイドリアン・クリステア）は、85年生まれの国立ブカレスト映画演劇大学の卒業生。ここではシュワルツの選んだたった一人の役者が30人のキャラクターを見事に演じわけ、上演時間100分の「ひとり政治芝居」を展開する。内容は、ルーマニア史にある程度の予備知識がないと字幕があれどもやや難しい。</p>
<p>　簡単に説明するなら、ここで主題となるのはチャウシェスク独裁政権崩壊直後に勃発した「ミネリアード」と呼ばれる炭鉱夫たちの暴動。ルーマニア国民のあいだではいまだに、チャウシェスク失墜後に大統領の座に就いたイオン・イエリスクはじつは前任者以上の「不可視な独裁者」であったのではないかとの憶測がまことしやかに囁かれているのだが、その最大の根拠となるのがこの暴動にまつわる「自作自演疑惑」。あまり日本では知られていないが、この国では革命後も政治中枢機関に旧共産党政権の幹部たちがそのまま居座り（どこの国の政治家も権力にしがみつくのは同じ）、それに腹を立てた大学教授や作家などの知識層が抗議運動をはじめたのだ。それを目撃したイエリスク大統領は革命後の政治展開に協力しない「反抗分子たち」として彼らを弾劾するため、政府を盲目的に支持する田舎の炭鉱夫たちをけしかけ、炭鉱夫と知識層の激しい衝突を「演出」したと言われているのだ。</p>
<p>　もちろん、当時の炭鉱夫たちにインタビューをすれば彼らは自分たちは間違いなく「正義」の行動を取ったと語り、知識層に取材をすれば彼らは自分たちこそが「正義」だと論駁する。果たして「真実」はどこにあるのか？　舞台上では、詩人、ロックミュージシャン、炭鉱夫、大学教授、ジプシー、イエリスク大統領、など30人の「真実」を１人の役者が語りつづける。それらの言葉はどれも等価に貴重であり、同時に誰の言葉も等価に不毛に聞こえる。まさに10年前のルーマニアではあり得なかった、直裁的なコンテンポラリー・ポリティカル・シアターだといえる。</p>
<p><!-- Temps d'Image Festival  --></p>
<div style="font-size:10px; text-align:center; line-height:140%; "><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/Heated-Minds01.jpg" alt="「Heated Minds」公演の舞台写真1"    style="margin-bottom: 1px;"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/Heated-Minds02.jpg" alt="「Heated Minds」公演の舞台写真2"   style="margin-left: 1px;"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/Heated-Minds03.jpg" alt="「Heated Minds」公演の舞台写真3"    style="margin-bottom: 1px;"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/Heated-Minds04.jpg" alt="「Heated Minds」公演の舞台写真4"   style="margin-left: 1px;"><br />
【写真はいずれも「 Heated Minds」公演から。photo=Diana Dulgheru　禁無断転載】
</div>
<p>　00年代以後に登場したこれら「ニュー・ルーマニアン・ドラマ」と呼ばれる若手世代の演劇は、近年映画界でも話題の「ルーマニアン・ニュー・ウェーブ」との共通点も見受けられる。カンヌ映画祭でパルムドールを受賞したクリスティアン・ムンジウ監督の『４ヶ月、３週間と２日』に示されるように、若きアーティストたちは革命から20年が経過し、ようやくアクセスが自由となった「真実」を素材にとり、ドキュメンタリー演劇・映画を創作することに喜びを感じているのだ。五月革命後のフランスしかり、ベルリンの壁崩壊後のドイツしかり、いつの時代どの場所でも、抑圧や、軋轢や、圧政が蔓延した場所からは必ずその反作用として力のある芸術が生まれる。ルーマニア演劇界はまさにいま、その反作用の大波が押し寄せる怒濤の勢いの時代にある。</p>
<div style="float: right; padding: 0 0 5px 12px;">
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=wonderland05-22&#038;o=9&#038;p=8&#038;l=as1&#038;asins=4990471741&#038;ref=tf_til&#038;fc1=000000&#038;IS2=1&#038;lt1=_blank&#038;m=amazon&#038;lc1=0000FF&#038;bc1=000000&#038;bg1=FFFFFF&#038;f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
</div>
<p>【筆者略歴】<br />
　岩城京子（いわき・きょうこ）<br />
　アートジャーナリスト。77年、東京都生まれ。86年から91年までニューヨーク在住。99年慶応義塾大学環境情報学部(SFC)卒業。在学中より舞台コラムを書きはじめ、現在はパフォーミング・アーツを専門にしたジャーナリストとして活動。世界14カ国で取材を行う。2010年、神奈川芸術劇場クリエイティブ・パートナー就任。2011年9月よりロンドン大学ゴールドスミスカレッジ修士課程演劇学科在籍。現在、東京とロンドンを拠点に和英両文で執筆活動を行う。2011年11月、和英バイリンガル書籍『東京演劇現在形 — 八人の新進作家たちとの対話』出版。2012年５月開催予定のベルリン、テアター・トレッフェン演劇際に英文ゲストジャーナリストとして招聘される。</p>
<p>【参考情報】<br />
▽<a href="http://www.tempsdimages.eu/#/romania/show/detail/913">Romanian Dance History 3</a> (Social Dance)<br />
17.11.2011　19:00<br />
Locatie: Sala Mica, Fabrica de Pensule<br />
Running Time：45&#8242;<br />
Artisti:Manuel Pelmu, Farid Fairuz &#038; Guests</p>
<p>▽<a href="http://www.tempsdimages.eu/#/romania/show/detail/933">Heated Minds</a><br />
19.11.2011　18:00-<br />
Location : Radu Stanca Studio, Faculty of Theatre and Television<br />
Running time：100&#8242;<br />
Director: David Schwartz<br />
Interpretation: Alexandru Potocean<br />
Scenography: Adrian Cristea<br />
Sound/Music: Ctlin Rulea<br />
Video: Cinty Ionescu<br />
Playwright: Mihaela Michailov<br />
Production: Centre for Visual Introspection and tangaProject and TangaProject<br />
 international festival &#8220;Temps d&#8217;Images&#8221; in Cluj</p>

]]></content:encoded>
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		</item>
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		<title>クロスレビュー挑戦編3月公演</title>
		<link>http://www.wonderlands.jp/archives/20195/</link>
		<comments>http://www.wonderlands.jp/archives/20195/#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 22 Feb 2012 03:44:30 +0000</pubDate>
		<dc:creator>編集部</dc:creator>
				<category><![CDATA[クロスレビュー]]></category>
		<category><![CDATA[ニュース＆報告]]></category>

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		<description><![CDATA[◎京都ロマンポップなど3公演 　クロスレビュー挑戦編3月公演は大小6団体から応募があり、公演資料、日程や再応募などの条件を考慮して次の3公演に決まりました。レビューは★印による5段階評価と400字コメントです。公演最終日 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p>◎京都ロマンポップなど3公演</p>
<p>　クロスレビュー挑戦編3月公演は大小6団体から応募があり、公演資料、日程や再応募などの条件を考慮して次の3公演に決まりました。レビューは★印による5段階評価と400字コメントです。公演最終日の翌日が締め切り。みなさんの応募を歓迎します。<br />
・<a href="http://romanpop.com/">京都ロマンポップ</a>「ミミズ50匹」（3月1日－3日　ART COMPLEX 1928）<br />
・<a href="http://c-psy.main.jp/">サイバー∴サイコロジック</a>「掏摸 －スリ－」（3月14－18日　下北沢ＯＦＦ・ＯＦＦシアター）<br />
・<a href="http://paseris.com/">パセリス</a>第九回公演「あたりまえのできごと」（3月15日－20日　王子小劇場）<br />
<span id="more-20195"></span></p>
<p>　4月公演団体の応募受付中です。締切は3月15日（木）。旗揚げ間もない劇団、これまでの活動が評価されていないと感じているグループ、短期間の公演で周知/宣伝が広がりにくいカンパニーなどの積極的な応募を歓迎します。<br />
詳細は次のページをご覧ください。<br />
<a href="http://www.wonderlands.jp/crossreview_challenge/">&gt;&gt; </a>http://www.wonderlands.jp/crossreview_challenge/</p>
<p>　2月の「クロスレビュー・挑戦編」後半は、十七戦地第2回公演『百年の雪』（2月23日-27日、王子小劇場）。締め切りは2月28日(火)になります。公演をご覧になった方の投稿を歓迎します。</p>

]]></content:encoded>
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		</item>
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		<title>劇団うりんこ「お伽草紙／戯曲」</title>
		<link>http://www.wonderlands.jp/archives/20135/</link>
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		<pubDate>Wed, 15 Feb 2012 05:15:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>編集部</dc:creator>
				<category><![CDATA[山崎健太]]></category>

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		<description><![CDATA[◎虚実は糾える縄の如し 　山崎健太 　「嘘から出た真」という言葉があるが、嘘（＝虚構）は真（＝現実）の中で作られるものでもあり、嘘と真の関係は卵と鶏の関係に似ている。卵が先か鶏が先かという議論は措いておくにせよ、卵が鶏か [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p>◎虚実は糾える縄の如し<br />
　山崎健太</p>
<div id="attachment_20136" class="wp-caption alignright" style="width: 151px"><a href="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/urinko_otogizoshi0a.jpg"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/urinko_otogizoshi0a-141x200.jpg" alt="「お伽草子／戯曲」公演チラシ"  width="141" height="200" class="size-thumbnail wp-image-20136" /></a><p class="wp-caption-text">デザイン＝京(kyo.designworks) </p></div>
<p>　「嘘から出た真」という言葉があるが、嘘（＝虚構）は真（＝現実）の中で作られるものでもあり、嘘と真の関係は卵と鶏の関係に似ている。卵が先か鶏が先かという議論は措いておくにせよ、卵が鶏から生まれる以上、卵が鶏よりも小さいことは自明である。では、現実の中に孕まれる虚構もまた、現実より小さなもの、現実を縮小再生産したものでしかないのだろうか。答えは否である。産み落とされた卵がやがて親鳥へと成長するように、虚構もまた、新たな現実を生み出す可能性をその裡に秘めているのだ。<br />
<span id="more-20135"></span><br />
　劇団うりんこ『お伽草紙／戯曲』は、太宰治『お伽草紙』を元にこふく劇場の永山智行が脚本を書き、地点の三浦基が演出を担当した舞台作品である。そもそも太宰の『お伽草紙』自体が、「舌切り雀」や「カチカチ山」などの広く知られた民話を題材とした作品であり、民話を中心として小説／戯曲／舞台が同心円を描いて並ぶことになる。水面に広がる波紋のように広がるこの同心円は、内向きに転じる形で舞台の構造として反復される。現実の中の虚構、そしてさらにその中の虚構。舞台の上の虚実はくるくると変転していく。</p>
<p>　劇場に入ると舞台上には既に人がいる。舞台左手前の椅子に腰掛ける老人。手には紐が握られていて、その先は舞台中央後方に立つ巨大な笠（昔話に登場するようなそれを思い浮かべていただきたい）を支える棒に繋がっている。巨大な笠とつっかえ棒の組み合わせは、鳥を捕えるために子どもが仕掛ける罠を模しているようにも見える。その手前には、岩でできた小島のような盛り上がり。竹が何本か生えている。老人は開演までの間、休むことなくしゃべり続ける。キツイ方言、おそらくは名古屋弁だろうか、のために言っていることの全てが理解できるわけではないが、入ってくる客に声をかけたり、中日ドラゴンズの歌を歌ったりと楽しげな様子だ。老人が開演前のアナウンスを読み上げ、しばしの間の後やがて開演。</p>
<p>　この老人、私たち観客には、芝居の登場人物としてではなく、私たちと同じ劇場空間を共有する人間として認識される。観客への声掛けや開演前のアナウンスは、老人が舞台上の虚構の存在ではなく、劇場空間という現実のレベルにいることを印象づける。この印象は芝居が始まってからも続く。一言二言発する場面こそあるものの、老人は舞台の進行にはほとんど関与しないからだ。そもそも、実はこの老人、戯曲には登場しない。つまり、三浦基が戯曲『お伽草紙／戯曲』を舞台化するにあたって、演出の一環として配した人物なのである。この老人は舞台『お伽草紙／戯曲』においてどのような役割を果たしているのだろうか。</p>
<p><!-- 「お伽草紙／戯曲」公演 --></p>
<div style="font-size:10px; text-align:center; line-height:140%; "><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/urinko_otogizoshi01.jpg" alt="「お伽草紙／戯曲」公演の舞台写真1"    style="margin-bottom: 1px;"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/urinko_otogizoshi02.jpg" alt="「お伽草紙／戯曲」公演の舞台写真2"   style="margin-left: 1px;"><br />
【写真は、「お伽草紙／戯曲」公演から　撮影=清水ジロー&copy; 　提供=劇団うりんこ　禁無断転載】</div>
<p>　照明の落とされた舞台、右奥方向に細長い長方形の照明が伸び、そこを通路として役者たちが登場する。舞台奥の茫とした薄暗がりから白々と伸びる長方形は妙に非現実的で、スクリーンの向こうの非現実からこちら側、つまりは現実へと役者が渡ってくるための通路のような趣である。役者たちはぐるりと舞台を回り、やがて笠の裏へと消えていく。その間、全員が一斉に台詞を発し続けるため、その内容を完全に捉えることは難しいが、先回りして言うならば、そのけたたましさはたくさんの雀が一斉に鳴き散らす様に似ている。発せられているのは「舌切り雀」の雀たちの台詞である。印象的な照明も手伝って、私たち観客は劇場という現実空間から「舌切り雀」の物語世界へと一気に引きずり込まれる。ところが、この「舌切り雀」の芝居はやがて、防空壕に避難する家族の一場面へとスライドしていく。「舌切り雀」の老夫婦の口論は防空壕の父母の口論へと重なり、「舌切り雀」は父親が娘へと読み聞かせていた昔話として回収されるのだ。舞台という虚構の中に、防空壕という「現実」と昔話という「虚構」の二つのレベルが設定される。</p>
<p>　老人が、観客である私たちと舞台の外部＝現実を共有する存在であることを踏まえると、舞台『お伽草紙／戯曲』の構造が見えてくる。劇場という現実に対する舞台空間の虚構、舞台上の防空壕という「現実」に対する昔話の「虚構」という三重の同心円である。老人は舞台の隅から芝居を見やる。老人の年齢を考えると、舞台上の「現実」である戦争中の防空壕は老人の記憶の中の風景であるとも考えられる。舞台上で繰り広げられるのは老人によって想起された記憶であるというわけだ。この解釈を文字通り「支える」のが老人の腕に繋がれたつっかえ棒である。舞台の背景にそびえ立つ巨大な笠とそれを支えるつっかえ棒。老人がいなくなりつっかえ棒が外れたならば、舞台は笠に覆われそこで繰り広げられる光景は消えてしまう。老人がいなくなれば想起される風景も消えるのだ。舞台という虚構は老人という現実の存在をその基盤としている。</p>
<p>　ところが、大方の観客の予想を覆し、老人が席を立ちつっかえ棒が外れても巨大な笠は立ち続ける。老人の夢想というフィクションは、その瞬間、現実からの独り立ちを始めるのだ。現実を越えてなお歩み続ける虚構の世界。ここに至って同心円は反転し、虚構が現実を飲み込み始める。「あんまりつまらないから、やけになつて、ウソばつかり書いたやうな気がする。ヒラタなんて男もゐないし、そもそも私には妻も子もゐない。ここは防空壕の中ぢやないし、外は戦争なんかぢやない。その他の事も、たいがいウソだ」と男が言い、舞台上の「現実」はその足元を危うくする。男がゆっくりと倒れてきた笠に飲み込まれ姿を消すと、舞台に残るのは鬼や狐など昔話のキャラクター、「虚構」の登場人物たちである。「現実」の中にあると思われた「虚構」が「現実」の登場人物である男をその内部に仕舞い込み、虚実は反転する。</p>
<p>　この虚実の反転は役者の身体のあり方のレベルでも反復される。そもそも舞台という虚構は現実の中に作られるが、同時に身体という現実に虚構をまとうことで成立するものでもある。例えば舞台上で「カチカチ山」が演じられる場面。そこに立つ女が兎を、男が狸を演じることでそれは成立する。我々観客は、役者の身体という現実に役という虚構を貼り付けて舞台を観ており、そこでは現実が虚構に包まれる。三浦基は役者の身体に負荷をかけることでこの構造を破壊し、虚構の膜の向こうに隠された役者の身体を露わにして見せるのだ。例えば、ヒラタという男がウイスキーを飲む場面では、戯曲の指示以上に過剰に杯を重ねさせ、ボトル１本分以上の液体を役者に飲ませる。そこに現れてくるのは、ヒラタの「ウイスキーを飲む」という行為ではなく、実際に役者が大量の液体を飲むことの大変さである。あるいは防空壕での一場面。娘はチョコレートをかじるのだが、チョコレートを舐め回すその仕草は少女の所作としては過剰にエロティックであり、そのエロティックさはむしろ役者の身体に属する性質のものだろう（このエロティックさは直後に続く「カチカチ山」で、少女が兎へと転ずることの伏線としても効いている）。そしてまた、浦島太郎についての講釈を長台詞で述べる兄は、噛む度に台詞を初めからやり直す。やり直しが三度四度と重なるうちに、観客の関心は台詞の内容ではなく、次は噛まずに言えるのかという一点へと集中していくことになる。これらの演出によって、舞台上の虚構に没頭していた観客の注意は役者の身体そのものへと向かう。役者の身体という現実が、役という虚構を食い破るのだ。</p>
<p><!-- 「お伽草紙／戯曲」公演 --></p>
<div style="font-size:10px; text-align:center; line-height:140%; "><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/urinko_otogizoshi03.jpg" alt="「お伽草紙／戯曲」公演の舞台写真3"    style="margin-bottom: 1px;"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/urinko_otogizoshi05.jpg" alt="「お伽草紙／戯曲」公演の舞台写真4"   style="margin-left: 1px;"><br />
【写真は、「お伽草紙／戯曲」公演から　撮影=清水ジロー&copy; 　提供=劇団うりんこ　禁無断転載】</div>
<p>　一方、戯曲にも登場する「カチカチ山」に代表される民話や童話もまた、その裡に現実を孕んでいると見ることができる。例えば、童話「赤ずきん」は「男には気を付けろ」「ふらふら出歩くな」という少女への警告である、という具合だ。劇中には次のような台詞もある。「カチカチ山の物語に於ける兎は少女、さうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋してゐる醜男。これはもう疑ひを容れぬ儼然たる事実のやうに私には思はれる」。演劇と民話はともに、虚構が現実を包み込む形で成立しているのだ。少女の隠喩である兎を演じる女と醜男の隠喩である狸を演じる男。ここにもまた虚構と現実の織り成す同心円があるのだが、ではこの同心円の一番外には何が位置しているのだろうか。役者の身体か演じている役か。兎／狸の裡に潜む少女／醜男と、それらを演じる役者の身体とはどのような関係にあるのか。そこにあるのは互いが互いをその内部に含んでいるような奇妙な関係である。</p>
<p>　舞台『お伽草紙／戯曲』にあるのは虚構と現実のせめぎ合いだ。一見明確に見える虚構と現実の多重構造も、両者のせめぎ合いの中でその境界は常に揺らいでいる。時に現実が虚構の向こう側から顔を出し、時にフィクションがその境界を越えて現実の側にあふれ出す。作品がその枠組みを越えていくと言い換えることもできるだろう。作品のラストに配された、「紀元二千七百年」を「にせんななひゃく」と読むか「にせんしちひゃく」と読むかというやや唐突なやり取りは、端的に読み方の問題である。そして「もう百年あとには、しちひやくでもないし、ななひやくでもないし、全く別な読みかたも出来てゐるかも知れない」という台詞。ここで言われているのは思いもしない「誤読」の可能性だ。現実の中に作られた作品という虚構は観客を経／得ることで再び現実と接続し、そこに未知の世界が立ち上がる。その意味で虚構と現実が描くのは同心円ではなく、陰と陽のかみ合った対極図であるのかもしれない。虚構と現実を車の両輪として世界は回る。</p>
<p>　作品のほぼラスト、巨大な笠が閉じる直前には、浦島太郎が玉手箱を開ける場面が配されている。竜宮城でこの世のものとも思えない時間を過ごした浦島太郎は、玉手箱という土産とともに地上へと帰る。浦島太郎が持ち帰ったのは時間だ。玉手箱は竜宮城での夢の時間を地上という現実に持ち帰るための器だったのだ。私たち観客もまた、竜宮城で夢の時間を過ごした浦島太郎のように、虚構の世界に遊ぶために劇場へと足を運ぶ。ならば劇場は竜宮城であり、あるいは巨大な玉手箱であるのかもしれぬ。芝居を見終えた私たちは扉を開き、現実の中に虚構を解き放つ。玉手箱から解き放たれた時間が浦島太郎の世界を変えたように、劇場の扉から解き放たれた虚構が世界を変える。作品を締めくくる「ムカシ　ムカシノオ話シヨ」という台詞は現実の中に虚構を召喚し、世界を変えるための言葉なのだ。<br />
（1月22日昼公演観劇）</p>
<p>【著者略歴】<br />
山崎健太（やまざき・けんた）<br />
1983年東京生まれ、早稲田大学文化構想学部表象・メディア論系幻影論ゼミ１期卒業生。現在、同大学院文学研究科表象・メディア論コース所属。演劇研究。</p>
<p>【上演記録】<br />
劇団うりんこ「<a href="http://www.urinko.jp/otogi2012.html">お伽草紙／戯曲</a>」<br />
<a href="http://www.kaat.jp/pf/urinko.html">KAAT</a>神奈川芸術劇場中スタジオ（2012年1月19日-22日）<br />
原作＝太宰治<br />
戯曲＝永山智行(こふく劇場)<br />
演出＝三浦基(地点) </p>
<p>キャスト＝内田成信、越賀はなこ、丹羽美貴、高田博臣、牧野和彦、にいみひでお、藤本伸江、和田幸加、花山ヨージロー  </p>
<p>演出助手＝佐久間晶子<br />
舞台美術＝杉山至＋鴉屋<br />
衣裳＝ごとうゆうこ<br />
照明・音響＝四方あさお<br />
音響オペ＝新美豊<br />
イラスト＝よしながこうたく<br />
フライヤーデザイン＝京(kyo.designworks)<br />
制作＝安形葉子 製作総指揮＝平松隆之  </p>
<p>日程 【】内はアフタートークのゲスト　♪はお得なプレビュー料金ステージ<br />
●名古屋＝愛知県芸術劇場小ホール（全席自由）<br />
1月13日(金)19:30【三浦基(演出家・地点代表)×平松隆之(制作・劇団うりんこ)】<br />
1月14日(土)14:00<br />
1月14日(土)18:00【永山智行(劇作家/演出家・劇団こふく劇場代表)×唐津絵理(愛知芸術文化センター主任学芸員)】<br />
ーーーーーーーー<br />
●横浜＝KAAT神奈川芸術劇場中スタジオ（全席自由）<br />
1月19日(木)19:30♪【鹿島将介(演出家・重力/Note)×三浦基】<br />
1月20日(金)15:00♪【吉田小夏(劇作家/演出家・青☆組)×平松隆之】<br />
1月20日(金)19:30　【杉山至(舞台美術家・六尺堂)×三浦基】<br />
1月21日(土)14:00<br />
1月21日(土)18:00　【相馬千秋(F/Tプログラム・ディレクター)×三浦基】<br />
1月22日(日)14:00<br />
一般早得2500円/高校生以下1000円などチケットかながわにて取扱中(各回限定)<br />
ーーーーーーーー<br />
●広島＝アステールプラザ多目的スタジオ（全席自由）<br />
2月1日(水)19:30<br />
ーーーーーーーー<br />
●福岡＝ぽんプラザホール（全席自由）<br />
2月3日(金)19:30♪【泊篤志(劇作家/演出家・飛ぶ劇場代表)×平松隆之】<br />
2月4日(土)14:00<br />
2月4日(土)18:00【柴幸男(作家/演出家・ままごと主宰)×うりんこ俳優陣】<br />
2月5日(日)14:00<br />
ーーーーーーーー<br />
●大阪＝大阪市立芸術創造館（全席自由）<br />
2月10日(金)15:00♪<br />
2月10日(金)19:30【杉原邦生(演出家・KUNIO主宰)×池浦さだ夢(男肉 du Soleil団長)】<br />
2月11日(土)14:00<br />
2月11日(土)18:00【山崎彬(劇作家/演出家・悪い芝居)×平松隆之】<br />
2月12日(日)14:00<br />
ーーーーーーーー<br />
●相模原＝グリーンホール相模大野多目的ホール（全席指定）<br />
2月25日(土) 15:00【三浦基(演出家・地点代表)】<br />
ーーーーーーーー<br />
●豊川＝ハートフルホール<豊川市御津文化会館>（全席指定）<br />
3月4日(日)15:00<br />
ーーーーーーーー<br />
●松本＝まつもと市民芸術館小ホール（全席自由）<br />
3月18日(日)14:00<br />
料金 前売：一般3000円 学生2000円 ♪プレビュー2500円<br />
当日：一般3500円 学生2500円 ♪プレビュー3000円  </p>

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		</item>
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		<title>劇団鹿殺し「青春漂流記」</title>
		<link>http://www.wonderlands.jp/archives/20076/</link>
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		<pubDate>Wed, 08 Feb 2012 03:01:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>編集部</dc:creator>
				<category><![CDATA[福原幹之]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.wonderlands.jp/?p=20076</guid>
		<description><![CDATA[◎振り返るな、青春を走り続けろ 　福原 幹之 　東京千秋楽。開演の14時ぴったり。上手から劇団員が走り出て一列に並んだ。様子がおかしい。菜月チョビが口を開いた。 　「機械トラブルで音が出なくなりました。台詞が聞こえないよ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p>◎振り返るな、青春を走り続けろ<br />
　福原 幹之</p>
<div id="attachment_20077" class="wp-caption alignright" style="width: 151px"><a href="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/shikagoroshi_seishun0a.jpg"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/shikagoroshi_seishun0a-141x200.jpg" alt="「青春漂流」公演チラシ"  width="141" height="200" class="size-thumbnail wp-image-20077" /></a><p class="wp-caption-text">「青春漂流」公演チラシ<br />（写真：江森康之）</p></div>
<p>　東京千秋楽。開演の14時ぴったり。上手から劇団員が走り出て一列に並んだ。様子がおかしい。菜月チョビが口を開いた。<br />
　「機械トラブルで音が出なくなりました。台詞が聞こえないような大音量でやっているので、機材を取り換えるために開演時間を1時間遅らせて下さい」</p>
<p>　そういえば、10分程前に流れていた徳永英明の歌が途中でプツっと切れたままだ。20年前にヒットした曲だ。会場は観客の話し声だけが響いていた。菜月さんも相当焦っていたはずなのに、時間がなくて観られなくなってしまう人にお詫びを言ったあと、「もう体はあったまって準備は万全ですが、さらにアップしてキレの良い演技をしたいと思います(笑)」と場を和ませた。紀伊國屋書店の中にあるので、時間つぶしには困らないが、毎回配られる劇中曲の歌詞カードを見るのもいいだろう。この歌詞カードは、鴻上尚史が毎回手書きの「ごあいさつ」のコピーを配るようなもので、観客の楽しみのひとつになっている。<br />
<span id="more-20076"></span><br />
　彼らはお客さんを大事にしている。「パトロンダ」（パトロンだ？）というメール配信サービスで公演や路上パフォーマンスの最新情報を教えてくれるし、先行予約でチケットを申し込むと劇団員が手書きでメッセージを入れた公演案内の葉書を送ってくれる。こんなちょっとしたことも、この劇団を身近に感じさせている。</p>
<p>　劇団鹿殺しは「2000年座長・菜月チョビが関西学院大学在学中にサークルの先輩であった代表・丸尾丸一郎とともに旗揚げ。同時に同大学内でバンド活動を行なっていた李と山本総司らが加入」とHPで紹介されている。当初はつかこうへい脚本作品を上演しており、2005年4月に東京へやってきた。本公演の脚本の多くを書いている丸尾丸一郎は、2010年1月公演の「スーパースター」で岸田國士戯曲賞の最終候補に残っている。彼の描く世界は、純粋だった子供の頃を振り返り、なくしてしまった夢を取り戻そうとするものであり、成長していく過程で挫折を繰り返しながら、友情や自分を信じることが大切だと気づいていくというものだ。登場人物は、お人好しであるが故にお金に縁が無くて生活するのがやっとという人が多く、愛おしくて応援したくなる。生きていくのはたいへんだけど、明日を信じていこうという気持ちにさせる。そんな前向きな筋立てと思い切り笑えるギャグ、汗が飛び散る激しいダンス、大音量でノリの良いロックミュージック、トランペットやアルトサックスの生音に、心を揺さぶられる若者は多いに違いない。</p>
<p>　今回のチラシにも林家正蔵や奥菜恵が推薦コメントを書いているが、東京進出以来数々の役者や演出家、雑誌編集者が推薦コメントを寄せている。出演者にしても2011年1月の「僕を愛ちて（再演）」では粟根まこと（劇団☆新感線）、廣川三憲（NYLON100℃）、同年7月の「岸家の夏」では千葉雅子（猫のホテル）、峯村リエ（NYLON100℃）、今回は高田聖子（劇団☆新感線）、廣川三憲が客演していることからも、劇団の評価が高くなってきたことが伺える。</p>
<div id="attachment_20086" class="wp-caption aligncenter" style="width: 460px"><a href="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/shikagoroshi_seishun01.jpg"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/shikagoroshi_seishun01.jpg" alt="「青春漂流」公演の舞台写真"  width="450" height="300" class="size-full wp-image-20086" /></a><p class="wp-caption-text">【写真は、「青春漂流」公演から。撮影=和田咲子　提供=劇団鹿殺し　禁無断転載】</p></div>
<p>　さて、「青春漂流記」は1990年に一世を風靡したチャイドルグループ「モトコー5」の復活を目指す、若者たちの物語だ。舞台の中央には寂れた商店街の入口があり、天井の低い通路が奥へと続いている。店のシャッターは半分以上閉まっており、通路は薄暗い。下手側に中華料理屋ののれんが掛かり、のれんをくぐってくると舞台前面が店の中という設定になる。</p>
<p>　「モトコー5」は神戸元町の高架下に連なる寂れた商店街「モトコー」をアピールする目的でプロデュースされた5人グループだ。彼らを懐かしんで中華料理店にやってきた客に問われて、メンバーが自らの紹介を始めるが、４人しかいない。レコード大賞新人賞受賞を期待されるほど人気が出たが、リーダーの洲本波美（高田聖子）のスキャンダルと失踪によって、表舞台から葬られてしまったのだ。今は家賃の支払いも滞り、生活も苦しい４人だが、かつての栄光を取り戻して商店街を再生したいと思っている。</p>
<p>　そこに、22年ぶりに波美が現れる。テレビ局のプロデューサーと結婚し、リッチな生活をしているらしい。そして、人気テレビ番組「あの人は今」に「モトコー5」が出演できることになったことを告げる。</p>
<p>　場面は変わり、22年前。波美と妹の凪子（菜月チョビ）が商店街に引っ越してくる。すさんだ家庭に育ったはみ出しものの姉妹だが、商店街のチャイドルオーディションに合格したことで、明日を信じることができるようになる。「モトコー5」の人気が高まった時、未成年の波美がタバコを吸っているところをフライデーに撮られ、メンバー全員で深夜取り戻しに行くが、失敗して波美は神戸を離れていったのだ。</p>
<p>　時間は現在に戻る。テレビ局に波美はやってこない。結婚していたというのは嘘で、ボロアパートの布団の中で波美は死んでいた。癌で長くないことを波美は分かっていたのだ。一度として出されることのなかった手紙の山で、4人は波美がこの22年間「モトコー5」の再生を夢見て、独りぼっちで苦労してきたことを知る。</p>
<p>　4人は「モトコー5」の復活を図り、商店街の幼なじみが主催する現代アートフェスティバルを乗っ取って追われる身となるが、燃え立つ太陽が昇ってくるのを前にして新しい今日を信じるのだった。</p>
<p>　客演を迎えるようになってというか、中心となる劇団員の年齢も上がってきたせいか、ブリーフにサスペンダーの半裸姿で激しい踊りを見せることはなくなったが、随所に見せるダンスや立ち回りのパフォーマンス度は高い。観客の体を突き抜けるような激しい大音量のロックとの相性も抜群だが、今回は90年代の歌謡曲っぽいテイストで聞かせていた。</p>
<p>　見せ場も随所にある。波美が現れたとき、音と照明がドーンと舞台を埋め尽くしタイトルを出したのは劇団☆新感線のようであり、バックダンサーの踊りは夜のヒットスタジオを見ているようで、1990年という時代感覚をうまく再現していた。</p>
<p>　大人になるってどんなことだろう。それがこの芝居でもテーマになっている。上演台本を見たわけではないので、表現の違いはあるかもしれないが、成長の壁にぶつかる場面の台詞には次のようなものがあった。</p>
<div class="quote">
　「年をとるごとにこんなに生きにくくなるもん」<br />
　「あの頃はよかったよな」<br />
　「誰か俺の将来を決めてくれ」<br />
　「（ラーメンを食べて）まずい。はっきりしない味しやがって、お前と同じだよ」<br />
　「自信を取り戻さなきゃ」<br />
　「やってやるよ。22年ぶりの努力ってやつをな」<br />
　「もっと心を動かして熱くなりたいんだ。ここじゃないどこかへ行きたいんだ」<br />
　「なんだ、（波美は）俺たちよりバカじゃないか。俺たちも負けてらんねえょ」<br />
　「そんな心配してどうするねん。走ってる時は走ることに集中せいや」<br />
　「誰も待ってくれなくても、誰も期待してくれなくても、最後の最後は自分のためやねん」
</div>
<p>　これが、今の30代の人たちの自分作りの言葉なのかなと、多少違和感を覚えながら聞いていた。そのうち大人になるのかなと思いながら、なかなか覚悟を決められない。大人になったところでいいことはどれだけあるだろう、と言っているようだ。確かに、バブル経済が弾ける前と後では大人になることや将来に夢を持つことの意味は、まるで変わってしまった。</p>
<p>　大人になったら、自由になれる。早く大人になりたい。そう思って、大人びた振る舞いをしようとしてきたのは、40歳後半より上の世代だろう。社会のシステムがあまりに堅牢に見えたが故に、その恩恵にあずかろうと背伸びをしてきた世代だ。当然ながら、そんな生き方への反発も強く、「ライ麦畑でつかまえて」のホールディンのように自分を守る強固な言葉で時代の渦に巻き込まれないようにすることもあった。それでも、生きていけたから。</p>
<p>　バブルの後で成人になった若者は、社会にどう向き合おうとしてきただろう。年功序列や定年制が崩れ、実力主義の容赦ない社会で、若者はどうやって自分作りをすればいいだろう。同時代に青春を生きてきた劇団鹿殺しの公演にその答えが見えると言ったら言い過ぎだろうか。演劇はいつだって時代を映す鏡だ。社会がこんになに不確かで脆弱になってしまった中で、どこまでも走り続けようとする彼らの行先を見守っていきたいと思う。「青春」という言葉を使えるようになったということは、生き方を振り返る余裕も出てきたということだ。でも、劇団鹿殺しはいつまでも時代の革新であってほしい。観るたびにこんな言葉を思い出させてくれるから。<br />
　Today is the first day of the rest of your life. ( by Charles Dederich )</p>
<p>【著者略歴】<br />
　福原幹之（ふくはら・もとゆき）<br />
　1962年2月静岡市生まれ、横浜市立大学文理学部文科卒。神奈川県の高校英語教員。</p>
<p>【上演記録】<br />
劇団鹿殺し「<a href="http://shika564.com/hyoryu/">青春漂流記</a>」<br />
東京・紀伊國屋ホール（2012年1月19日-29日）<br />
大阪・ABCホール（2012年2月10日-12日）</p>
<p>作　　　丸尾丸一郎<br />
演出　　菜月チョビ<br />
音楽　　入交星士・オレノグラフィティ</p>
<p>出演<br />
高田聖子（劇団☆新感線）…　洲本波美<br />
菜月チョビ	…　洲本凪子<br />
丸尾丸一郎	…　舵山一平<br />
オレノグラフィティ	…　沖田流人　他1役<br />
山岸門人		…　帆足航太　他1役<br />
傳田うに		…　麗月　　　他7役<br />
坂本けこ美	…　梅梅　　　他10役<br />
橘輝		…　なんでも屋　他14役<br />
円山チカ		…　浅海結　　他11役<br />
山口加奈		…　本橋岬　　他13役<br />
水野伽奈子	…　街の人　　他6役<br />
鷺沼恵美子	…　通行人　　他6役<br />
浅野康之		…　マネキン　他7役<br />
峰ゆとり		…　通行人　　他8役<br />
近藤茶		…　航太80代<br />
富山恵理子	…　通行人　　他8役<br />
谷山知宏（花組芝居）…　砂原豪　　他10役<br />
村木仁		…　帆足満男　他3役<br />
廣川三憲（NYLON100℃）…　潮田洋平　他3役</p>
<p>舞台監督　松嵜耕治<br />
舞台監督助手　西廣奏<br />
演出助手　上嶋倫子<br />
舞台美術　加藤まゆこ<br />
照明　黒尾芳昭<br />
照明助手　阿部康子<br />
音響、音楽編集　鏑木知宏<br />
音響操作　末谷あずさ<br />
振付　山口加菜・山岸門人・水野伽奈子<br />
殺陣指導　森貞文則<br />
衣装　赤穂美咲<br />
衣装製作　傳田うに・円山チカ・鷺沼恵美子<br />
ヘアメイク　宮内宏明(M’s Factory)<br />
舞台撮影　彩高堂<br />
舞台写真　和田咲子<br />
フライヤー＆グッズデザイン　　入交星士<br />
WEBデザイン　入交星士・オレノグラフィティ<br />
宣伝写真　江森康之<br />
宣伝ヘアメイク　阿波連大竜・諸星聡子(VoguA)<br />
制作　高橋戦車<br />
制作協力　SUI(東京公演)・辰田明子(大阪公演)<br />
運営協力(大阪公演)　サンライズプロモーション大阪<br />
協力　ヴィレッヂ・ダックスープ・花組芝居・サードステージ<br />
企画制作　劇団鹿殺し<br />
助成　芸術文化振興基金<br />
主催　株式会社オフィス鹿<br />
＊前売・当日5000円　（プレビュー公演4000円）　学生3500円</p>

]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>激情コミュニティ「つぎ、待ち」（クロスレビュー挑戦編第21回）</title>
		<link>http://www.wonderlands.jp/archives/20058/</link>
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		<pubDate>Tue, 07 Feb 2012 08:19:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>編集部</dc:creator>
				<category><![CDATA[クロスレビュー]]></category>

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		<description><![CDATA[　激情コミュニティは主宰の垣本朋絵と兼桝綾によるユニット。垣本が早稲田大学演劇倶楽部に所属していた2009年に旗揚げ。「言葉じゃなければ表現できないことと言葉に出来ない表現を探求することを目的」（公式HP）とし、言葉と体 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<div class="sp_intro">
　激情コミュニティは主宰の垣本朋絵と兼桝綾によるユニット。垣本が早稲田大学演劇倶楽部に所属していた2009年に旗揚げ。「言葉じゃなければ表現できないことと言葉に出来ない表現を探求することを目的」（公式HP）とし、言葉と体を結びつけた「身体性の高い会話劇」を目指してきたそうです。<br />
　銀河鉄道999を下敷きにした今回の「激情コミュニティ流”回顧”と”前進”と、成長の物語」はどんな展開を見せたのでしょうか。レビューは★印による5段階評価と400字コメント。到着順の掲載、各レビュー末尾の括弧内は観劇日時です。（編集部）
</div>
<p><span id="more-20058"></span></p>
<p>▽<strong>梅田径</strong>（早稲田大学大学院）<br />
　★★★★★<br />
<a href="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/gekijo_tsugimachi0a.jpg"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/gekijo_tsugimachi0a-142x200.jpg" alt="「つぎ、待ち」公演チラシ（表）"  width="142" height="200" class="alignright size-thumbnail wp-image-20060" /></a>　完成度は最低。演出と脚本が互いに憎悪を燃やし、錯乱していて演出過剰。俳優もよわよわしい。舞台美術をうまく生かせてないし、物語はどうしようもなくしょぼい。話のつながりもきわめて悪い。外挿されるスローモーションやパントマイム、ビデオカメラを使ったテクニカルな演出だけがまるで現代詩を視覚化したように印象に残るが、突然すぎて意味がわからない。過去の人々たちの手紙の朗読と現前の舞台とのギャップは観客の苦痛を誘う。正直言って見てられない。<br />
　でももちろん、僕らが舞台に行くのはよくできたものを見に行くためだけではない。<br />
　激情コミュニティの混乱と嘆きは、僕らに演劇の原風景を見せつける。「つぎ、待ち」は詩のように抽象的で愛のあるメッセージとイメージで、世界の重みと釣り合おうとゆう無謀な試みである。この混乱と敗北を乗り切った先には本当に見たかった景色が広がっているのかもしれない。その可能性のひとかけらをたしかに受け取れたから、星ゼロ個と隣り合わせの五つ星をつける。<br />
（2月2日19:30の回）</p>
<p>▽<strong>藤原ちから／プルサーマル・フジコ</strong>（編集者、フリーランサー、<a href="http://bricolaq.com/page/BricolaQ.html">BricolaQ</a>主宰）<br />
　（星ゼロ）<br />
　人に見せる意欲がちっとも感じられない。「人生ってこうなんでしょ？」程度のなんとなくの甘い見込みで書かれたクリシェ全開のセリフを、存在感の希薄な俳優たちが、もたもたとゾンビのようにみっともなく動いて、力なく喋る……。幾何学模様の床面には少し目を惹くものを感じたが、これではなんにもならない。苛立ちながらも辛抱していたけれど、とうとう「一人で生きてくのはイヤだから一緒にいてほしい」みたいに駄々をこねるシーンが登場し、席を立った。人が誰かと共に生きていくことは、そんなに簡単なものではないはずだ。<br />
　脚本家については、さるリトルマガジンに掲載されていた小説をかなり面白く読んだことがあり、期待していたが、今回は失敗と言わざるを得ない。言葉に粘った跡がない。「それっぽいもの」なら今の時代、誰でも手癖で書けてしまうのだ。ある言葉がこの世に生まれる瞬間を、そう簡単に通り過ぎないでほしい。<br />
（2月2日19:30の回）</p>
<p>▽<strong>手塚宏二</strong>（CoRich舞台芸術！演劇コラムニスト、<a href="http://ameblo.jp/corichtezuka/">CoRich手塚の小劇場応援ブログ</a>）<br />
　★★★<br />
<a href="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/gekijo_tsugimachi0b.jpg"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/gekijo_tsugimachi0b-142x200.jpg" alt="「つぎ、待ち」公演チラシ（裏）"  width="142" height="200" class="alignleft size-thumbnail wp-image-20062" /></a>　開演前から芝居が始まっていた。舞台上では駅員役の役者によるパントマイムが演じられている。そのマイムを観ている最前列の観客が音楽とともにスモックを脱ぎ、芝居の演者となる。始まり方は華麗だ。<br />
　モチーフは銀河鉄道の夜。その銀河鉄道に何組かの男女が乗車し、旅に出る。それぞれが何かを求め、何かを探しながら。しかし、すれ違いの連続、そして…。<br />
　主宰者であり、演出家である垣本朋絵はパントマイム出身の演出家である。登場人物の心情を身体表現で表すのが得意だ。特に集団を動かすのがうまく、それはマイムのようであり、ダンスのようであり、それらとは全く違う新しいものを築きあげている。<br />
　兼枡綾の描く物語は、一組ずつの男女の物語を描きながら、全体として同世代のもどかしさやいらだちをていねいに描いている。<br />
　部分部分がまばゆいくらい光り輝いているにもかかわらず、全体として、それらが有機的に絡み合っていないのが少し残念。<br />
（2月2日19:30の回）</p>
<p>▽<strong>徳永京子</strong>（演劇ジャーナリスト）<br />
　★<br />
　「自分が観たい作品をつくる」とは、よく聞く言葉ではあるけれど。それがつくり手にとって「自分も観たことのない」なのか「自分が好きなものを再構築して」なのかでは雲泥の差がある、という当たり前のことを痛感させられた。<br />
　作品は、異なる男女の関係を扱った５つの短い物語が、それらとは直接関係のない（ように思われる）手紙の朗読や群舞的なムーブメントを挟んで進んでいく。だが、そこで聞かされるせりふも見せられる動きも、すべてが手垢にまみれていた。誤解がないよう書くが、新しさを無条件に称賛するつもりは毛頭ない。しかし、作・演出の垣本朋絵と脚本の兼桝綾が演劇に対して抱く定義、与える既定値は、あまりに古く、小さくはないか。<br />
　作品の芯を担うエピソードに登場する男性が言う（会話は私の記憶による大意)。「夕焼けって、寂しくて悲しいよね」、それを聞いた女性が「私はそんなふうに感じたことがなかった。君ってすごいね」と感心する－。演劇って、こんなに貧しいものではない。言い方を変えれば、演劇はすでにそこにはいない。必死になって「自分も観たことがない」地平を切り拓こうとする人の作品を、私は観ていたい。<br />
（2月2日19:30の回）</p>
<p>▽<strong>齋藤理一郎</strong>（会社員、個人ブログ「<a href="http://riichiro.air-nifty.com/">RClub Annex</a>」）<br />
　★★★☆（3.5）<br />
　開場前の役者たちの空気作りから前座芝居の雰囲気、さらには開演時の舞台への観客の取り込み方などもしたたか。エピソードごとのかつての人々の文章の朗読と今を描くシーンたちの接点の取り方には観る側に気付きを与える力があり、ビデオカメラなどを小道具に作られる視野や、その中に刻まれる刹那から個々のエピソードの印象にとどまらない一つの時代の群像感が浮かんでくる。<br />
　銀河鉄道を借景にした舞台はよく見かけるのですが、それらの中でもひと味違った作り手の視点や語り口、さらには、男たちが歩んでいくことへの普遍の切り取り方に心惹かれました。<br />
　ただ、作品として、観客を巻き込むような密度に至るための精緻さにはやや欠けている印象もあって。それはひとつの刹那の中のトーンのバラツキであったり、映像の見せ方、あるいはシーンを重ねるときのミザンスであったりもするのですが、作り手の意図を十分に羽ばたかせるクオリティには今一つ届いていない感じがしました。<br />
（2月6日13:00の回）</p>
<p>▽<strong>都留由子</strong>（ワンダーランド）<br />
　★★<br />
　列車に乗り込んだ数組の男女の関係のあれこれが、オムニバスで描かれる。どのカップルも、男性はぐだぐだ甘ったれダメンズで、女性は辛抱強くそれにつきあうが、結局、別れを告げる。捨てられた男たちは、「君の大事さに今気がついた、ごめん、これからは僕が君を背負っていくから、こっちへ来いよ」みたいなビデオレターを作り、驚いたことに女たちはそれを受け入れ、落ちてくる美しい白い紙吹雪の中、男の背中におんぶされる。<br />
　女性は銀河鉄道999のメーテル、男性は鉄郎であることが幕開けの衣装によって示されるので、そういう関係性は予想されたのだが、よくわからないのは、そういう事態を皮肉っているわけではなさそうだったということだ。これが「少年が大人になる瞬間」なのだろうか。スローモーションやストップモーションを使った映像的な演出が印象的でいいなと思う場面もあったのだが、残念ながら内容には共感できなかった。<br />
（2月4日19:00の回）</p>
<p>▽<strong>大泉尚子</strong>（ワンダーランド）<br />
　★★<br />
　カラフルな差し色を配した可動式ベンチ、ビニールテープを張って床に描いたいくつもの四角形、4か所のモニターに映し出されるタイトルや手紙仕立ての文章、ところどころに散りばめられたマイム的な動きなど、センスよさげな道具立ては整っていた。朗読されるその手紙の中には、無頼派の田中英光や民芸の父といわれた柳宗悦のものも含まれている。そしてかなりの音量で流れる忌野清志郎の曲。そういう、ちょっと目や耳をひくものの陰で、オリジナルの男と女（というより、上演台本にもある通り“男子と女子”）の物語が埋もれてしまって、いっかな記憶が蘇ってこない。<br />
　一番気になったのは、ラスト近くで男子たちを見捨てた女子たちが、結局彼らにおんぶされて仲直りをするシーンだ。どうしてこの展開？　今までのいざこざは雲散霧消？…と唖然（女が男社会の中で、傷だらけになりながら居場所を作ってきたのを目の当たりにした世代としては、若い女性がこんなに古色蒼然とした男女像を描くことに、正直ショックを受けた…）。<br />
　鉄郎とメーテル、男の子とやさしいきれいなお姉さんのイメージは、新たに展開されることなく内輪に留まってしまった感じ。観客は作り手に「…なーんちゃって」と見事にうっちゃりを食わされることを、心ひそかに期待しているのだけれどなあ。<br />
（2月2日19:30の回）</p>
<p>▽<strong>北嶋孝</strong>（ワンダーランド）<br />
　★<br />
　尾籠な譬えで恐縮だが、あらゆる舞台芸術を排泄系と吐瀉系に分けてみたらどうかと妄想したことがある。つまりは「うんこ」と「ゲロ」。下痢でも固形でもともかく「うんこ」は食べ物が体内を通って出てくるから、その人特有の色や臭いが付いている。しかしゲロは食べ物が胃袋止まりなので似たり寄ったり。その人らしさがみられない。強引に分けると、今回の公演は吐瀉系ではないか。<br />
　男女の仕事絡みのやり取りは実態不明で切実感がない。実家管理を巡る兄弟夫婦の諍いは底の浅い紋切り型。恋人たちのもつれもイチャイチャの域を出ない。特徴のない凡庸な会話でもいいけれど、それなら凡庸が生活の心棒だと確信的に押せばいい。あるいは俗悪の極みとして隈取り深く記録しても構わない。しかし総じて人物も会話もふわふわ薄く描かれるのだ。<br />
　その反面、場面転換では田中英孝（台本では「田中栄光」）、柳宗悦、坂口安吾らの格調高い文面が読み上げられる。その乖離があまりに甚だしい。しかもしっかり者の女たちが登場していまどきのフェミニズム風が吹くのかと思ったら、あっという間に男たちに甘えるどんでん返し。女たちの歴史は羽毛ほどにも軽いのか。薄くても軽くても構わないが、批評的であることが色と臭いのあるうんこになり、やがては人々の肥やしとなって実を結ぶのに－。<br />
（2月2日19:30の回）</p>
<p>【上演記録】<br />
<a href="http://gekicomi.web.fc2.com/">激情コミュニティ</a>第4回公演『つぎ、待ち』<br />
作・演出　垣本朋絵<br />
脚本　兼桝綾<br />
日暮里d-倉庫（2012年2月2日-5）</p>
<p>キャスト<br />
あに子(アリー・エンターテイメント)<br />
伊藤 寛<br />
井上 千裕<br />
小野 紗知<br />
カゲヤマ気象台(sons wo : )<br />
酒井 尚志<br />
佐賀 モトキ<br />
佐藤 至恩<br />
柴田 周平(Feather Village Family)<br />
杉 香苗(劇団虫の息)<br />
椎谷万里江(拘束ピエロ)<br />
野依 美弥子(アリー・エンターテイメント)<br />
原田 シェフ(ヲカシマシン)<br />
松浪慧<br />
ヤマスケ</p>
<p>スタッフ<br />
舞台監督橋爪智博（あんかけフラミンゴ）<br />
舞台美術　湯ノ迫 史　都築 響子　北城みどり<br />
美術協力　伊藤 杏奈<br />
照明　山内 祐太<br />
照明操作　榎本 茜<br />
音響　カゲヤマ気象台(sons wo:)<br />
音響操作　岡田まりあ（劇団森）<br />
衣装　あに子（アリー・エンターテイメント)<br />
技術指導　ヤマスケ<br />
演出助手　新上 達也(水道航路)<br />
宣伝美術・web　垣本 朋絵<br />
写真撮影　御菩薩池真鈴<br />
制作　飯塚 なな子(Ort-d.d)<br />
企画・製作　激情コミュニティ</p>
<p>料金　前売り一般　2300円　 学割（要学生証）1800円　当日　各券200円増し</p>

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		<item>
		<title>シンクロ少女「未亡人の一年」</title>
		<link>http://www.wonderlands.jp/archives/20034/</link>
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		<pubDate>Wed, 01 Feb 2012 01:33:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>編集部</dc:creator>
				<category><![CDATA[宮本起代子]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.wonderlands.jp/?p=20034</guid>
		<description><![CDATA[◎夜道の誘惑～シンクロ少女の示すもの～ 　宮本起代子 　演劇ユニット・シンクロ少女は2004年、当時日本映画学校映像学科在学中だった名嘉友美を主宰に結成された。現在のメンバーは脚本・演出・出演の名嘉をはじめとして、俳優の [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p>◎夜道の誘惑～シンクロ少女の示すもの～<br />
　宮本起代子</p>
<p><a href="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/syncrogirl_no9a.jpg"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/syncrogirl_no9a-141x200.jpg" alt="「未亡人の一年」公演チラシ"  width="141" height="200" class="alignright size-thumbnail wp-image-20035" /></a>　演劇ユニット・シンクロ少女は2004年、当時日本映画学校映像学科在学中だった名嘉友美を主宰に結成された。現在のメンバーは脚本・演出・出演の名嘉をはじめとして、俳優の泉政宏、横手慎太郎、中田麦平で、作品ごとに出演者を募る形式をとる。公式サイトには「『愛』と『性』、『嫉妬』や『慾』など、目に見えない感情や欲求をテーマに見た人の血となり肉となる作品を目指して公演を打つ、エロ馬鹿痛快劇団」と記されている。『私はあなたのオモチャなの』で旗揚げし、以後も『ドキドキしちゃう』、『めくるめくセックス』等々、タイトルからして挑発的だ。<br />
<span id="more-20034"></span><br />
　自分がはじめてみた2010年10月の＃8『性的敗北』（名嘉友美脚本・演出　王子小劇場）は、兄妹の近親相姦や友だちの恋人の横どり、子どものできない夫婦の強硬手段、デキ婚せざるを得なくなったカップルなど、男女10人が繰り広げる愛憎劇だ。異なる空間の会話を同時進行で描くのが劇作家名嘉友美の得意とするところで、入念な稽古があったことをうかがわせて劇の流れは滞りない。俳優はそれぞれの持ち味を活かした役を得て、心憎いまでに好演している。しかしラブシーンどころか性行為そのものを舞台上であからさまに見せられることに少なからず困惑したのも確かであった。</p>
<p>　本作は2010年佐藤佐吉賞最優秀脚本賞を受賞し、シンクロ少女は同劇場の支援会員から「次回作もみたい」という支持がもっとも多く寄せられた劇団を一週間無料で招待する王子小劇場支援会員セレクト公演として、2011年晩秋に最新作『未亡人の一年』を上演する栄誉に輝いた。</p>
<p>　全裸に近い女性のからだを深紅の薔薇がなまめかしく彩る公演チラシといい、『未亡人の一年』というタイトルといい、今回も過激なエロス満載か。</p>
<p>　『未亡人の一年』初日。<br />
　Ｔ字型に平台が組まれ、中央が張り出して小さな茶卓が置かれている。上手と下手はそれぞれリビングらしき作りで、3つの異なる演技空間があることがわかる。</p>
<p>　下手には先生と呼ばれる女性（坊薗初菜）と友人のエリ（岸野聡子）がいて、先生の「お母さん」が新しく雇った男性家政婦？アカギ（中田麦平）がお茶を運んでくる。作家である先生は一年前に夫をなくした。お母さん役は泉政宏が微妙な女装で演じており、うちにはもうひとり、お母さんが「兄さん」と呼ぶ男性（村上佳久）が引きこもっている。</p>
<p>　上手エリアはミツコ（髙畑遊）と中学生の娘キホ（浅川薫理）が住む家だ。ミツコは夫を十年前に亡くして以来、酒に溺れて娘に無関心、キホは週に4日も近所の林家で食事をとっている。中央エリアがその林家の茶の間だ。熱心に中国語の勉強をしているお父さん（林剛央）、ポテトチップスを食べては文句ばかり言っているお母さん（配役表には「ババア」と記載　上松頼子）、大学生のソノヤ（横手慎太郎）がいて、みなそれなりにキホを大切にしている。</p>
<p>　ソノヤはキホを好きなのだが、彼にロリコンの気があることを知ったキホは激しく動揺して彼を拒絶する。しかしミツコに諭されて心をひらき、キホとソノヤは多少危なげながらもほほえましい交際をつづけてゆく。ミツコの友人ハナ（名嘉友美）は作家志望のセイ（太田誉充）との先の見えない関係に悩むのと相似形を成すように、先生の友だちのエリは男運に恵まれない。</p>
<p>　やがて中学生のキホが長じて上手の「先生」になり（亡くなった夫はソノヤである）、ミツコが泉政宏演じる「お母さん」で、お母さんが兄さんと呼ぶ男性がセイの成れの果てであることが徐々に示されてゆく。下手の家族は上手の家族のおよそ四半世紀あとのすがたであり、物語は互いを鏡のように映しあいながら進行する。</p>
<p>　セイの心ない言動に傷ついたハナが亡くなり、ミツコは抜けがらになったセイを「生き別れになっていたふたごの兄さん」として強引に家族にするが、終幕において泉政宏の「お母さん」は兄さん（=セイ）をうちから出し、娘がアカギと心を通じ合わせていることを確かめて、自分も娘に別れを告げる。上手が新しい家族を作り、下手が家族を解散するのだ。</p>
<p>　エロスの表現は驚くほど控えめで、期待した向きには拍子抜けでものたりなかっただろうが、自分は堪能した。</p>
<p><a href="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/syncrogirl_no8a.jpg"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/syncrogirl_no8a-141x200.jpg" alt="「性的敗北」公演チラシ"  width="141" height="200" class="alignleft size-thumbnail wp-image-20037" /></a>　『未亡人の一年』の観劇後、揺り戻されるように前回公演『性的敗北』の上演台本を読む。<br />
　「いちゃいちゃしだす二人」、「キスしたりキスしたり」、「セックスしている」などのト書きが生々しくその場面を想起させない。そう書かれているから人物がその行為をすることだけがわかるのである。</p>
<p>　たとえばラストシーンは、夫（奥村拓）が無精子症のために妊娠が不可能と知った夫婦が夫の弟（桑原環七）の部屋を訪れ、「これしか方法がない。種をわけてもらいたい」と行為を迫る。妻（しまおみほ）は夫の目の前で義理の弟に近づき夫は実の弟のからだを押さえつける。弟も長年愛しあっていた妹（岸野聡子）に去られた悲しみで自暴自棄になり、義理の姉との行為に身を投げ出す。</p>
<p>　舞台をみたときは、ただでさえ「いちゃいちゃしだす二人」、「キスしたりキスしたり」などがさんざんつづいたあげくの強烈なラストシーンに、ほとほと食傷したというのが本音であった。<br />
　しかし台本を読んだとき、意外なほど自然に心にはいってきたのである。</p>
<p>　ト書きにはこの場面の3人について、「泣いている」「泣きながらセックスしている」と書かれている。この涙のなかに、じゅうぶんに話し合って合意の上、医学的処置によって弟の精子と妻の卵子を受精させればよいではないかという考えが入り込む余地はない。弟と兄夫婦は「子どもが産めない」という点で敗北しており、そこから勝利せんと泣きながら行為におよぶのだ。自分の妻と弟がからだを重ねているすがたに夫が「がんばれ、がんばれ」と声をかける最後の台詞は、「泣いている」というト書きによって、悲嘆の極致とも読みとれるのである。</p>
<p>　この部屋にいるのは彼ら3人だけだ。彼ら自身がおおぜいの人にこのありさまをみせようとしているわけではない。演劇であるがゆえに観客の存在がある。そして自分は、この悲しいまでに壮絶な行為をみている罪深さに打ちのめされるのだ。</p>
<p>　上演台本を読みおわって、『性的敗北』は新しい存在になった。むろん先にみた舞台の印象がベースになっていることは確かであるし、決して「舞台はおもしろくなかったが、ホンはよかった」ということではない。柔らかで繊細なものを秘めており、人物の話すことばを中心に構成された小説、あるいは散文詩のような味わいがあって、それはなまめかしい公演チラシやきわどい場面などの過激なエロス表現に目を奪われてしまうと気づきにくいものである。</p>
<p>「舞台をみる」と、それを「読む」あいだに生まれる違いを考える。一見エロス表現控えめな『未亡人の一年』の上演台本には、どんなト書きがが記されているのだろう。</p>
<p>　『性的敗北』につづいて『未亡人の一年』を観劇し、前者の上演台本を読んでふたつの舞台を改めて考えること、そして後者の台本を読んでいないことはただの流れや偶然かもしれないが、これからもシンクロ少女の舞台をみる上で、大きな課題を改めて意識するきっかけになった。</p>
<p>　上演台本（戯曲）と舞台表現、観客との関係が浮かびあがる。目の前の舞台表現だけをその人の作品ととらえるか、戯曲の段階から含めて考えるのか。戯曲を読んで満たされるなら、舞台は何のためにあるのか。観客の存在は何なのか。</p>
<p>　たとえば前述の『性的敗北』の終幕についても、実際の舞台において俳優が悲痛な表情をしていたことは記憶にあるが、ほんとうに泣いていたのか、涙を流していなくても「泣いている」と自分が認識していたのかは、もはや判断がむずかしい。したがって、自分は台本を読んではじめて「泣いている」、「泣きながら」を明確に認識し、それによって『性的敗北』ぜんたいの印象が変わり、大きく捉えなおすことになったのだ。これをどう考えるのか。</p>
<p>　戯曲を読むことはもちろん大切だ。しかし「戯曲を読まなければ舞台が理解できない」となってしまうのも問題であろう。また本稿において自分は「上演台本」と「戯曲」、さらに「ホン」の記載を統一していない。これらを統一すべきか、厳密に区別した場合、互いの違いはどこにあるのか。</p>
<p>「演劇とは戯曲とは、舞台表現、観客とは何か」と大学時代の講義からこれまで幾度となく問いかけられ考えつづけてはきたものの、いまだに答を見い出せない。<br />
『性的敗北』の台本を繰りかえし読み、『未亡人の一年』の舞台を思い起こすことは、この答をみつけるというより、もっと迷い悩む方向へ導かれる予感がする。暗く危険な夜道。しかしその道はぞくぞくするほど魅力的であり、進まずにはいられないのである。</p>
<p>【著者略歴】<br />
　宮本起代子（みやもと・きよこ）<br />
　1964年山口県生まれ　明治大学文学部演劇学専攻卒　1998年晩秋、劇評かわら版「因幡屋通信」を創刊、2005年初夏、「<a href="http://inabaya-k.mo-blog.jp/inabayakmoblogjp/">因幡屋ぶろぐ</a>」を開設。</p>
<p>【上演記録】<br />
<a href="http://syncrojesse.web.fc2.com/">シンクロ少女</a>＃9『未亡人の一年』（王子小劇場支援会員セレクト公演）<br />
王子小劇場（2011年11月30日-12月4日）</p>
<p>脚本・演出　名嘉友美<br />
＊出演<br />
　先生・・・坊薗初菜<br />
　アカギ・・・中田麦平（2012年1月よりシンクロ少女）<br />
　お母さん・・泉政宏（シンクロ少女）<br />
　エリ・・・岸野聡子（味わい堂々）<br />
　キホ・・・浅川薫理（アシカツ　絶対安全ピン）<br />
　ソノヤ…横手慎太郎（シンクロ少女）<br />
　ミツコ・・・髙畑遊（ナカゴー）<br />
　セイ・・・太田誉允（今夜はパーティ）<br />
　ハナ・・・名嘉友美（シンクロ少女）<br />
　ババア・・・上松頼子（風花水月）<br />
　お父さん・・林剛央<br />
＊スタッフ<br />
　舞台監督／太田誉允（今夜はパーティ）<br />
　照明／井坂浩<br />
音響／久郷清（今夜はパーティ）／伊藤幸拓<br />
　宣伝美術／菅井早苗<br />
　制作／祝大輔<br />
＊前売2500円　当日2800円</p>

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		</item>
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		<title>鴎座クレンズドプロジェクト02「浄化。」</title>
		<link>http://www.wonderlands.jp/archives/20012/</link>
		<comments>http://www.wonderlands.jp/archives/20012/#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 25 Jan 2012 10:00:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>編集部</dc:creator>
				<category><![CDATA[關智子]]></category>

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		<description><![CDATA[◎「浄化。」されるわたし 關智子 　「わたしは強烈な力であの人の中に投影されており、ひとたびあの人を欠くとなると、再び自分を捉えることも、とり戻すこともできなくなる。わたしは永遠に失われてしまうのだ。」 　この言葉はロラ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p> ◎「浄化。」されるわたし<br />
  關智子</p>
<p><a href="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/kamomeza.fringe_clansed02_0a.jpg"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/kamomeza.fringe_clansed02_0a-200x141.jpg" alt="「浄化。」公演チラシ"  width="200" height="141" class="alignright size-thumbnail wp-image-20014" /></a></p>
<div class="quote">
　「わたしは強烈な力であの人の中に投影されており、ひとたびあの人を欠くとなると、再び自分を捉えることも、とり戻すこともできなくなる。わたしは永遠に失われてしまうのだ。」
</div>
<p>　この言葉はロラン・バルト（Roland Barthes）が『恋愛のディスクール・断章』（Fragments D’un Discours Amoureux, 1977. 三好郁朗訳、みすず書房、1980年）における「破局」の項で述べたものである。この本は、『浄化。』の戯曲である『洗い清められ』（Cleansed, 1998. 近藤弘幸翻訳。以下敬称略）を書いた際に作者のケイン（Sarah Kane）自身が影響を受けたと述べており、作品の主題である精神的限界状態としての愛を表象するために参照していたとされる。この『浄化。』では、このバルトの言葉にあるような状態が上演の中で描かれると同時に、それは作中の登場人物だけではなく観客までも巻き込もうとする力強い、挑発的な試みが見られた。<br />
<span id="more-20012"></span><br />
　『浄化。』は3年がかりで『洗い清められ』を作るという鴎座フリンジ企画の「クレンズド・プロジェクト」の第2作目にあたり、前回のリーディング作品とはまったく異なる趣向でもって上演された。恐らく、2012年5月に予定されている本公演も完全に別の作品になるのではないかと期待される。だが、前回に比べてより大胆な解釈や演出が見られていくら傾向が違っていても、戯曲に対する誠実な態度は相変わらずであり、それは以下の辻田暁（企画・振付）の言葉からも窺える。</p>
<div class="quote">
　「サラ・ケインの言葉は肉体をもつ。川口智子と作業を共にすることで『身体が心地よくなってはいけない』と思わせられました。言葉よりも先に身体が誕生した。つまり身体は言葉以上の意味や情を放つ。それは身体に執着するあまり言葉から放れて（ママ）しまった現代のダンサーに対する挑戦状だと受け取りました。」（当日パンフレットより）
</div>
<p>　言葉により表される戯曲というメディアをダンサーが扱う場合は常にある種の困難があると思うが、この『洗い清められ』の場合、戯曲の言葉自体が既に肉体を持つために、ダンサーの肉体をいわば言葉が追い詰める形式になっているので、より難しい状況に置かれるのではないだろうか。さらに言えば、追い詰められるのはダンサーだけではなく、他の出演者や演出に対してすら挑戦的である。演出・企画の川口と辻田は真っ向からその勝負に立ち向かい、川口はその突破口として「幽霊」「肉感」「同時多発身体」が見えたと述べている（当日パンフレットより）。この3つのキーワードはどれも人間の身体の問題であり、上演においてはそれが肉体を持つ者と持たない者の対比によって表されていた。</p>
<p><!-- 「浄化。」公演--></p>
<div style="font-size:10px; text-align:center; line-height:140%; "><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/kamomeza.fringe_clansed02_01.jpg" alt="「浄化。」公演写真"   ><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/kamomeza.fringe_clansed02_02.jpg" alt="「浄化。」公演写真"   style="margin-left: 1px;"><br />
【写真は、ともに「浄化。」公演から。 撮影=青木司　提供=鴎座クレンズドプロジェクト　禁無断転載】</div>
<p>　話の筋は複雑な恋愛関係（欲望関係という言葉の方が相応しいかもしれない）により構成されている。主人公グレイスは死んだ兄グレイアムを想い、自称医者のティンカーに監禁されているロビンはそんなグレイスを慕っている。このティンカーは、同性愛のカップルであるロッドとカールを虐待し、名のない＜女＞にグレイスの姿を求めている。この交差した関係はトランス・ジェンダーとトランス・アイデンティティをもって描かれている。ロビンは恋の対象であるグレイスの服を着させられ、グレイスは兄グレイアムの服を着てグレイアム本人になりたいと願い、＜女＞は医者ティンカーの前でグレイスとなる。また既に死んだはずのグレイアムが登場したり、グレイスを暴行するのが＜声＞という登場人物（？）だったりと、かなりリアリズムからは離れている。</p>
<p>　ここまでが戯曲の話である。『浄化。』ではこのような複雑な関係性とアイデンティティの問題が、出演者の肉体と声を用いてより複雑化されていた。まず、肉体を持たない、肉体が見えない者がいる。黒川モモ、鈴木光介と花佐和子である。役名で呼ぶとするならば＜声＞、ロッドとカール、＜女＞なのだが、この後述べるようにトランス・アイデンティティ的存在であるこの3人は役名で呼ぶのが相応しくないように思われる。</p>
<p>　鈴木は最初に現れる人物である。まず上演が始まる際に、クリスマスですから、と言い、両手に持ったアサラト（2つの木製の玉が縄で繋がれたカスタネットのような楽器）を鳴らしながらホーメイで『ジングルベル』を歌う。そのまま片手をロッド、他方をカールに見立て、ひとりで対話を行う。つまり、歌っていたのはロッドとカールなのである。後でロッドは殺され、カールは舌を切られて言葉を失うために、鈴木は音楽担当という印象が強い。このカールは戯曲においては舌だけではなく両足と両腕も切断され、性器をグレイスに移植され、かつその傷痕をネズミに齧られるという残酷極まりない目に遭うのだが、『浄化。』ではあえてそこを描写せず、声だけでカールを登場させている。</p>
<p>　黒川はいかにも目を惹きそうな容姿をしていながら、この上演では敢えてその肉体が消され、見えないものとなっている。実際にダンサーとしても活躍しており作中で踊りもするのだが、その動きは整えられたものであり「肉感」はあまり感じられない。彼女はロビンの声や＜女＞の声、＜声＞そのものになったりするが常に肉体は別にあり、登場人物のアイデンティティの間を彷徨う者として存在していた。</p>
<p><!-- 「浄化。」公演--></p>
<div style="font-size:10px; text-align:center; line-height:140%; "><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/kamomeza.fringe_clansed02_03.jpg" alt="「浄化。」公演写真"   ><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/kamomeza.fringe_clansed02_04.jpg" alt="「浄化。」公演写真"   style="margin-left: 1px;"><br />
【写真は、ともに「浄化。」公演から。 撮影=青木司　提供=鴎座クレンズドプロジェクト　禁無断転載】</div>
<p>　同じように「見えない」存在として花佐和子がいる。彼女はほとんどを舞台奥の倉庫にある椅子に座っており、観客の半分以上は恐らくその姿が物理的に見えない。＜女＞を演じるのは通常、グレイスと同じくらいの年齢の女性だが（というのも、この＜女＞は覗き小屋のダンサーという設定だからである）、この上演ではあえてグレイスよりも年齢が高い女性であることが強調されていた。ティンカーは白髪交じりの彼女にグレイスを見ており、やはり彼女の肉体は見えないものとして提示されているのである。筆者は倉庫の奥が見える位置に座っていたため推測でしかないが、恐らく見えない位置に座った場合にはティンカーと同じ状態に置かれたのではないだろうか。つまり、見えないことによりそこにグレイスを見るのである。上演において観客は、具体的に提示しないことによってそこにないものを想像力で補い、見るという行為を要求されている。例えばぶら下げられた白い布に黄色いペンキを塗るという行為は、床からひまわりが咲く様子でもあり、ロビンが読み書きを習うための本でもある。このような演出は、あえて見せない、あえて見ないという行為による「見る」ことの可能性を増幅させているのである。戯曲の中でも、ティンカーは最初の内はあえて＜女＞の顔を見ないでいる。作品の最後で花は倉庫から出て舞台上を歩く。彼女はティンカーに名を聞かれ、「グレイス」と答える。その時彼女はグレイスとして初めて肉体を獲得し、見える者として現れるのである。</p>
<p>　これらの肉体を持たない者に対して、肉体を持つ者、人間の肉体がそこにあるという感覚をもたらす者がいる。グレイスを演じる辻田は常にその身体が強調されており、作中で最も強い「肉感」を放っていた。椅子に座って前を見ている姿は、倉庫の奥で椅子に座る花＝＜女＞のパラレルのようになっているのだが、その肉体の在り方が明らかに異なっている。辻田の体は、グレイスが作中でたびたび訴えるように何かが不自然な状態、つまり辻田自身が語るように「身体が心地よくなって」いない状態を描き出していた。それはグレイスがグレイアムになりたいと願っている原因である。辻田の座る椅子の後ろにはグレイアムを演じる武田幹也が立っている。グレイアムはグレイスの兄の幽霊として見ることもできるが、武田の傍で辻田がその肉体の異質感を表し続けていることから、むしろグレイアムとはグレイスのアイデンティティの一部、彼女の精神的側面の具現化として見られた。客席の方を向いて立つ武田、体を持て余すように椅子に座る辻田、倉庫の椅子に座り「グレイス」と呼ばれる花、この三者の間に＜グレイス＞というアイデンティティが存在しており、つまりグレイスは「同時多発身体」を持っていたのである。</p>
<p>　肉体の強調は、観る者の肉体をも巻き込む。井上大輔が演じるロビンはグレイスを慕っており、チョコレートを渡そうとするのだが自称医者であるティンカーに見つかってしまう。ティンカーはその箱のチョコレートを全部、無理矢理ロビンに食べさせる。このシーンは実際に上演で行われた。ティンカーは次々にチョコレートを投げつけ、ロビンはそれを片っ端から（まるでティンカーには一つも与えまいとするかのように）食べる。つまりチョコレートが表す愛をティンカーが過剰に投げ与え、それを消化し切れないままロビンは貪り食うのである。甘い匂いが伝わり、食べ切れず吐きそうになっている井上の姿は見るに耐えず、このシーン故にこの作品が好きではないと思う人もいるだろう。だが、繰り返される暴力とその暴力に晒される身体が強調されることによって生まれる嫌悪感は、感情移入の一種とも考えられる。その様子から眉を顰めて目を背け、不快感を覚えるのはその井上の肉体に自分の一部を入れ込んでいるからではないだろうか。ロビンに与えられる虐待を拒絶する瞬間、同時に自分がロビンであることにも気付かされるのである。上演で、やっと箱が空になったと思った次の瞬間、ティンカーはその底紙をむしり取ってもう一段あることを表し、客席からは驚愕を含んだ笑いが漏れた。ロンドンの初演では一段であったのを、ケインは後から二段重ねに変更しており、恐らくこの繰り返すという行為そのものに含まれる暴力性が、観る者を巻き込むことに必要だと感じたのではないだろうか。客席から漏れた息を呑む音と笑いは、ロビンと共に感じる絶望と、ティンカーと共に感じるサディスティックな悦楽をも含んでいたように感じられた。</p>
<p>　他人に自分を投影することは演劇を観るという行為の一部でもあり、この作品における主題の愛するという行為でもある。久保恒雄演じるティンカーは、作中でも最も歪んだ形で投影を行っていた。ティンカーはロッドとカール、ロビンの愛を次々と破壊させ、グレイアムを麻薬で殺し、一方ではグレイスを暴行させておきながら他方でグレイスを愛している。だが、その愛が直接本人へ向けられることはなく、常に＜女＞を通したグレイスを愛するのである。上演において久保は巨大なハサミをずっと持っており、傘の骨を折り穴を開け、カールの舌を切り、黄色い布を引き裂く。『シザーハンズ』というティム・バートン監督の映画があるが、ここではティンカーはいわば裏・エドワード（両手がハサミになっている人造人間）である。手がハサミであるが故に愛せないのではなく、手をハサミにし、傷つけなければ愛することができない。この屈折した愛は、自らへと回帰する。作品の最後でティンカーはグレイスに手術を施し、グレイアムの体へと変えた後に＜女＞の元へ行く。戯曲では2人が愛し合うという（歪んだ）ハッピーエンドだが、この上演の演出においてティンカーはかつて＜女＞がいた倉庫の椅子に腰掛けた状態で台詞だけがハッピーエンドである。倉庫から出て舞台上を歩く＜女＞＝花と椅子に座るティンカー＝久保の対比は、立場の逆転を表すようでもあり、ティンカーが最も求めていたのは自らがグレイスとなることだったのではないかとすら思わせる。グレイスをグレイアムにすることで、グレイス＝＜女＞＝自分を愛することが可能になったのである。</p>
<p>　かくして冒頭のバルトの言葉に戻ってくる。作中にある様々なトランス・アイデンティティは愛するという行為の投影の結果であり、グレイアムを失ったグレイスはグレイアムになり、グレイスを失ったティンカーはグレイスになる。そして描かれる暴力によって観客もまたある種の投影をそこに行う。『浄化。』は戯曲に描かれている交錯する愛をさらに複雑化することでその幅を広げ、観客までそこに巻き込もうとしていた。</p>
<p>　細かい演出は挙げ出すとキリがないが、もっとも印象に残ったのは靴である。舞台のほとんど中央に水の入った銀の盆が置かれており、作品冒頭でグレイアムはそこに裸足で入ってティンカーから薬を貰い、作品の最後には手術を受けたグレイス（／グレイアム）がやはり裸足でそこにいる。ロビンが監禁の残り日数を数えている間、黒川（この時は恐らく誰でもない。言うなれば「幽霊」である）がもう一方の倉庫から靴を次々に取り出し、舞台上に並べていく。恐らく、グレイスとグレイアムのように、それは盆に入って「浄化」された人達の墓標である。ロビンは残り日数があまりに長いことに絶望し、吊り下げられたバーにストッキングを巻き、紐を作る。そこにグレイアムが靴を引っ掛け、ロビンは「浄化」される（作者のケインは靴紐で首を吊って自殺している。演出がその事実を意図的に示唆したかは定かではないが、この上演で言うならばケインもまた「浄化」されたことになるだろう）。そして「浄化」されるのは作品における登場人物だけではない。筆者はこの上演の帰り道、クリスマスイヴの渋谷、カップルが愛を囁きまくり若い女の子たちがヒールをカツカツ言わせている中を、裸足で歩いているような気がした。<br />
（観劇日時：2011年12月24日15時の回）</p>
<p>【筆者略歴】<br />
　關智子（せき・ともこ）<br />
　大学院演劇学西洋演劇専攻。現代英演劇が主ですが基本的に雑食です。テクストと上演の関係が気になるので、暇さえあればテクストを読んでいます。ドラマトゥルクとか文芸部員とかいう存在にとても心惹かれています。</p>
<p>【上演記録】<br />
<a href="http://cleansed.seesaa.net/">鴎座クレンズドプロジェクト</a>02『<a href="http://kamomeza-fringe.net/pg20.html">浄化。</a>』―サラ・ケイン「洗い清められ」（近藤弘幸訳）より―<br />
渋谷・space EDGE（2011年12月22日-25日）</p>
<p>作：サラ・ケイン<br />
訳：近藤弘幸<br />
演出：川口智子<br />
振付：辻田暁<br />
音楽：鈴木光介（時々自動）<br />
音響：島猛、勝見友理<br />
照明：横原由祐<br />
舞台監督：伊東龍彦<br />
演出助手：佐々木琢<br />
協力：佐々木琢<br />
宣伝美術：太田裕介<br />
鴎座主宰：佐藤　信<br />
出演：久保恒雄（黒テント）、鈴木光介（時々自動）、武田幹也、井上大輔、辻田暁、黒川モモ、花佐和子<br />
予約：2500円/当日：3000円<br />
助成：一般社団法人　私的録音補償金管理協会（sarah）</p>

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		</item>
		<item>
		<title>あうるすぽっと・豊島区「おやすみ、かあさん」</title>
		<link>http://www.wonderlands.jp/archives/20025/</link>
		<comments>http://www.wonderlands.jp/archives/20025/#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 25 Jan 2012 09:30:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>編集部</dc:creator>
				<category><![CDATA[杵渕里果]]></category>

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		<description><![CDATA[◎邪悪 　杵渕里果 　『おやすみ、かあさん』(&#8216;Night, Mother)は、1983年ピューリッツア賞受賞の戯曲。 　「アラフォーおんなが自殺するはなし」というと「やたら暗い」けど、現代演劇に「自殺」がか [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p>◎邪悪<br />
　杵渕里果</p>
<p><a href="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/nightmother00a.jpg"><img src="http://www.wonderlands.jp/wp-content/uploads/nightmother00a-142x200.jpg" alt="「おやすみ、かあさん」公演チラシ"  width="142" height="200" class="alignright size-thumbnail wp-image-20026" /></a>　『おやすみ、かあさん』(&#8216;Night, Mother)は、1983年ピューリッツア賞受賞の戯曲。<br />
　「アラフォーおんなが自殺するはなし」というと「やたら暗い」けど、現代演劇に「自殺」がからむのは、『セールスマンの死』、『動物園物語』、『欲望という名の電車』…あんがい忌み嫌われてもないみたい。<br />
　「自殺」をめぐる葛藤は、健康な人でも…というか、そのカラダがそのカラダを殺せるくらい健康なカラダの人なら、窮状から消え去る手段としての「自死の誘惑」に襲われうるワケで、とりたてて異常なものではない。<br />
　なのに「自殺」がらみの葛藤は、まずその本人が隠すし、遺族も黙って抱えこんでヒミツにすることが多いから、外からはその存在じたい見えにくい。そんなふうに隠しこむ風習のためますます人は、孤独のドツボに落ちてゆく。<br />
　でも演劇にしてさしだせば、「特定の誰かの死」から離れたかたちで「自殺」についてコミニケーションする契機にできる。多くの力ある劇作家が「自殺」を好んで描いてきたのは、「演劇」という制度を最大限活用させられるテーマだから、なんだろう。<br />
<span id="more-20025"></span><br />
　さてさて、『おやすみ、かあさん』。題名は、これヒロインの辞世の台詞。<br />
　「おやすみ、かあさん」（&#8217;Night, Mother）、ひとこと残してベットルームでピストル自殺する娘ジェシー、「かあさん」ことセルマの二人芝居。<br />
　ま、「娘」といってもアラフォーの、不良息子に苦労してるこちらも「かあさん」だから、世代の違う母親二人の芝居、といってもいい。<br />
　ちなみに、「&#8217;Night, Mother」のアポストロフィ、たぶん「Good」の省略じゃないかな。さすがに「Good night!」と言いえまいし。<br />
　それにしてもこの台詞、じかに言うの。母親に。そう母親に予告して、ベットルームに篭る。<br />
　それってどうよ。<br />
　「自殺の是非」以前に、「どうせやるなら黙ってれば？」て思うんだよね。<br />
　ジェシーは癲癇の持病があって働けない。結婚にもやぶれ、実家に転がり込んで居候的に暮らしてる。当面の彼女の生きる理由は、母セルマの世話くらい。<br />
　なにやってもだめ。やるきもおこんない。いま自分が確実に上手にできそうなのは、自分を殺すことくらい…<br />
　　こんなふうに考えてる人に、「生きてればたまに楽しいことがあるよっ」とか微笑みかけたら無責任。<br />
　「たのむから生きてほしい」なんて頼んだら、頼んだアンタの気持ちを乱さないために「生きててほしい」ってかんじで偽善的。<br />
　「『楽しさ』を求めるなんざおこがましい、人間たるものじぶんの生命をまっとうする義務が！」、なんてウエカラ目線もどうかと思うし、だいいちそんな義務、証明できゃしない。<br />
　そうした義務感を培ってくれるとしたら宗教だろうけど、ジェシーによれば、<br />
　〈イエスだって自殺よ、わたしに言わせりゃ。〉<br />
　神なき時代、「それでも生きろ」とは誰も説得的にいえないよ。<br />
　でもさ、だったら、「どうせやるなら黙ってやれば？」。<br />
　ジェシーはなんで「予告自殺」するんだろ。原作戯曲をひらいてみるに――あ、今回の上演の感想こそ知りたい人は最後の最後に書いてるので下のほうへスクロールしてね♪</p>
<div style="text-align: center;">*</div>
<p>◎予告した理由その１【口がすべった】<br />
　舞台は、還暦のセルマと娘ジェシーが同居する郊外の住宅のリビングルーム。時刻は夜の八時すぎ。<br />
　ジェシーは今夜十時に決行するつもり。亡父のショットガンはどこか、母セルマに尋ねて見つけ出す。<br />
　不穏に感じたセルマが、銃なんかどうするの強盗なんかこないわよ、と銃をとりあげようとすると、ジェシーはあたし自殺するの、と銃を抱え込む。セルマ、びっくり仰天。<br />
　ジェシー、その場のいきおいで言ってしまったみたい。</p>
<p>◎理由その２【家事を引き継ぎたい】<br />
　意志を告げるやいなや、ジェシーは怒涛の家事伝達を開始する。<br />
　やれ洗濯機の使いかた判るか、洗剤の場所知ってるか。ゴミの曜日、犬にあさられない出し方。食品配達をいつもたのむ人の名前、頼み方。〈自分の薬、注文できる？〉。当面の食料品のストック状況。鍋やタオルのしまい場所、云々。<br />
　引き継ぎのついでに、セルマが好きなコカコーラの注文を牛乳にとり変えて、これからは牛乳をのみましょうねと健康管理もする始末。「逆縁の不孝」、ここまでこれば「逆縁の誉」ってかんじ。<br />
　娘ジェシーの母セルマへの気遣いは、長期入院する妻が夫の身を案じるが如し。成る程、アーサー・ミラーのセールスマンが黙って死んだのは、奥さんがしっかりしてたからなんだわね。</p>
<p>　ともあれこちらのお宅では、娘ジェシーこそ母セルマの生活全般の面倒をみる、事実上の「おかあさん」だったのね。<br />
　セルマは「子どもがえり」した状態で、ジェシーに身辺のことをさせながら六十坂を超え七十、八十、看取られるまで世話をうけ続ける予定だったので（そういう台詞もある）、たしかにジェシーは「死」という背水の陣でもしかなけりゃ、セルマに家のしごとを伝達できなかったろう。<br />
　それで予告したんなら、わかる、わかる。家事なんて書置きで残すよりダイレクトに言うほうが早いしわかりいいもん。</p>
<p>◎理由その３【聞いておきたいことがあった】<br />
　母セルマって人は、まじめに話すのが苦手というか大嫌い。話に尾ひれをつけ口からでまかせ、自分がオモシロイ方向に情報を歪める癖がある。良く言えばお喋りで親しみやすい、悪く言えば論理的整合性に無頓着な「堅牢で鉄面皮なオバチャン」タイプ。<br />
　ジェシーはこういう事実が歪む会話に不満があったようで、最期のいまこそ私と真面目に話してみてよママ、と頼む。<br />
　不仲にみえた両親。ママはパパを愛してた？、聞かれるうちにカンに障ってきたのかセルマは、パパはあんたを生まれたときから出来損ないっていってたよ、とクギをさす。<br />
　セルマの親友アグネスが、どうもジェシーを避けて遊びにくるかんじがする。この理由を聞いてみるとセルマは、アグネスはあんたの癲癇を怖がってるんだよ、と応える。なぁんだそれだけのことだったの！<br />
　ところが違う話題にうつった折にセルマが口を滑らすに、アグネスの娘カーリーンが、ジェシーの夫を寝取った女だったらしい。それでアグネスはジェシーを避けていた様子。<br />
　そういうのを承知の上で、セルマはアグネスと親しくつきあい続けたんですね。<br />
　がちょーん。死のうという二時間前にこんなこと知ろうとは。やぶへびというか、死にたい理由が最後に増えたというか。</p>
<p>◎理由その４【それが有利なカードだから】<br />
　おそらくセルマという人は、その場その場で自分を有利にしたい人。一瞬でも自分を優位にたたせるネタがあれば、相手を傷つけようがかまわずぱっと飛びついて口に出す。そういうやりかたで世間と、そしてジェシーと関わってきたのね。<br />
　セルマはジェシーの自殺の意志を聞くやいなや、ここは「私の家」だから自殺してはいけない、銃やタオルも「私の」だから使ってはいけない、「私の」「私の」と重ねてくる。実家居候組、でもどり娘のジェシーが、ますます居たたまれなくなるであろうワードをガンガン飛ばしてくる。<br />
　でも、ジェシーが「自殺」というカードをゆずらないとみるや、〈あんたにもっと気を遣ってあげる。聞かれればほんとうのことを言う。ちゃんと言い分を認めてあげる〉〈ここはあんたの家でもあるんだから〉と次第に譲歩をみせはじめる。<br />
　ジェシーにしてみれば、活発で負けん気の強いセルマをへこませられる切り札は、「自分の自殺予告」しかなかったろうよ。</p>
<p>◎予告した理由その５【ママが自分を責めないため】<br />
　ジェシー本人の弁によると、〈話したのは、ママが自分を責めないように、後ろめたくならないようにしてあげたかったから〉。<br />
　死のうとおもったのはママのせいでも誰のせいでもなく、それしかない、と自分が考えたそのせいだと伝えておきたかったと。<br />
　だけど、そこまで思いやるならさ。<br />
　自殺を止められないのは場合によっては自殺幇助が問われかねないわけで、「自殺直前の二時間の対話」なんて、セルマは一生、他人に隠さなくてはなるまい。「自殺」以上に重たい秘密を背負うことになるまいか。<br />
　明日になれば警察がくるわよ。〈誰かに何故わたしがこんなことしたかって聞かれるから、ただ分らないって言うのよ〉。<br />
　そんなことまで気をまわすジェシー。指示は的確なんだけど、そんなに母親の今後を思いやるなら黙って死んだら親切だろうに。</p>
<p>　でも、やってしまった。<br />
　銃声を聞いたセルマは、そのままジェシーの指示どおりに息子宅に電話をかける、ところで終幕。<br />
　しかしセルマ、案外タフにみえる。そんな二時間すごして本当に自殺なんざされたら、とりあえず朝まで呆然自失、動けなくなりそうだけど、すぐ次の行動に移るんだもん。銃声をきいたら電話しろとジェシーは指示したけど、本当にすぐできるってタフな気がする。<br />
　セルマの台詞に〈考えなきゃならないことは嫌い。前に行くのが好き〉っていうのがある。<br />
　だから彼女、すぐ電話するのかも。そしてこの夜のことは、二度と考えないですごせるかもしれない。考えたってらちがあかないし。<br />
　あ、でも、〈考えなきゃならないことは嫌い〉なセルマならなおさら、心の底から「なんで死んだか理由がまったくわかんない」状態のほうがマシじゃん。<br />
　うーん。どっちなんだろう。<br />
　ジェシーの「自殺の予告」からはじまる二時間は、あとに生き遺るセルマの役に立つんだろうか。たんなる「自殺」以上にタチ悪いんじゃないかしら。</p>
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<p>　哲学者のマーク・ローランズという人なら、この状態を、「邪悪」という概念でくくるだろう。（『哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン』マーク ローランズ／翻訳・今泉みね子／白水社　2010年）<br />
　ローランズに拠れば、「正しいこと」だと確信してやった行いでも、相手を傷つける可能性の検討を怠っているなら、その行為の結果が悪ければ「邪悪」といえる。<br />
　たとえば「子供を性的虐待する親」、がいたとして、その親が、それを子どもへの「正しい罰だ」「躾だ」と確信していたり、それじたいよくないことだ考える教養そのものを欠いていたにしろ、その行為は「邪悪」には違いない。<br />
　個々の人間が確信してる「正しさ」なんて、その社会の常識からずれてしまっていたり、本人の意図を外れて作用してしまう可能性はザラにあるわけで、自分の確信する「正しさ」が、他人からみて一般的に妥当なものか、「正しさ」を無効にする事態はありえないといえるか、折にふれ批判的な検討を繰り返す義務がある。</p>
<p>　だとすれば。<br />
　〈ママが自分を責めないため〉、「自殺前にそれを予告して対話する」というジェシーの二時間の「善意」は、母セルマに対する「邪悪」な行為にかわりうる。<br />
　また、そんなこというなら母セルマもけっこう「邪悪」。<br />
　ジェシーにさんざん重ねていた軽蔑的ないいまわしやあてこすり、娘の言い分に耳を貸さず自分の見解を押し付ける母親という立場をもちいた「パワーハラスメント」みたいのは、やっぱり、それが果たして妥当か検討を怠ったことによる「邪悪」な作法だもん。<br />
　まぁ、どっちもどっち。「邪悪」な娘。「邪悪」な母。<br />
　『おやすみ、かあさん』は、人間の「邪悪」（ローランズの定義する意味での）を描いた戯曲だよね。</p>
<div style="text-align: center;">*</div>
<p>　さてこの戯曲、昨年末、青山真治演出、白石加代子（セルマ）、中嶋朋子（ジェシー）の出演で上演されました。</p>
<p>　まず舞台装置。<br />
　戯曲の指定をだいぶはしょってた。<br />
　戯曲には〈セットは二人がこの国の特定の場所に住むある特定のリアルな女たちだということだけを表していればよい〉、〈雑誌類や刺繍カタログ、灰皿や菓子器などでごたごたに散らかっている〉、と書かれている。<br />
　舞台中央にソファーとダイニグテーブルがあり、そのまわりだけ「部屋」らしく飾っているんだけど…<br />
　上手側に、幅２メートルくらいの物置というかロッカーが、一個、どーんとおいてある。扉の前で、中嶋朋子のジェシーが立ったりしゃがんだり、中身を点検する。この家には収納家具がこれ一個しかないんだろうか。それにしてもバインダーに挟んだリストをめくりながら、まめまめしく在庫チェックを続ける中嶋朋子は、さながらコンビ二の店員の如し。生活臭、なし。<br />
　下手側にはキッチン。コンロと流しのセットが、これまた一個、どーんとおいてあって、この前でセルマ役白石加代子がココアを煮る。そして、コンロの下から鍋を取り出して床に散らかすんだけど、たしか、真っ黒こげで使い込んだかんじがするのはヤカンだけで、あとの鍋類がピカピカだった気がする。プロの厨房みたいな巨大なずんどう鍋が複数でてきた印象が残ってるけどさだかではない。生活臭、なし。<br />
　この舞台装置は、戯曲冒頭の指定を最小限守りつつ、最大限に経済しながら、かつ、役者に負荷をかけない程度には家財道具を配置してできあがったかんじ。<br />
　中途半端に「生活」の気配があったりなかったりするもんだから、死を決めたジェシーが母セルマに家事の要点を伝え遺す必要性も、この家族の歴史も、実感として伝わってこない。<br />
　演出の青山真治は、舞台演出はこれが二回目なんだそう。経験が浅いゆえの初々しいミステイクかもね。<br />
　でもさ、もともと映画監督なんだし、もっと装置に配慮が深くてもよさそうなもんだけどねぇ。</p>
<p>　さて、中嶋朋子が演じたジェシー。<br />
　一点の曇りもなくさえざえと死をみつめ、でも朗らかに笑みを絶やさないジェシー、といったかんじ。最期まで母親を気遣い、励まし、母との最期の二時間を少しでも楽しもうとしてみえた。病気がちで自殺に追い込まれた寡黙な女性ではなく、「自死」という決断を恐れない「りりしい健康な女性」といった印象。大河ドラマでお市の方の自害の場面とかやるばあいおよそこんなふう。</p>
<p>　白石加代子のセルマ。<br />
　アングラ演劇でならした白石加代子の十八番であろう。セルマがジェシーの癲癇発作がどんなふうか説明する場面、狂乱ぎみに身体を震わせ「べろべろばー」と舌を出しオモシロイ顔をしてみせた。たぶんファンサービス。<br />
　これをみた中嶋朋子のジェシーは、「アハっ♪、かあさんったらオモシロイっ」とばかり無邪気に笑う。<br />
　…本筋から考えれば、そんなとこでジェシーが喜ぶのはかなり「トチ狂ってる」。おそらくたとえ演目が『おやすみ、かあさん』であっても、大女優白石加代子が出演する以上、なにがなんでも「白石加代子ショウ」が優先されるべきなんだろうね。</p>
<p>　「トチ狂ってる」といえば、セルマがココアを作る場面。<br />
　死ぬわ、死ぬな、の議論のらちがあかず、セルマは小休止的にココアを作ってあげるともちかける。<br />
　ジェシーは〈マシュマロ入れないで〉と頼むと、〈マシュマロ入れなきゃ。それが昔式だ。二つ？三つ？　三つのほうがいいよ〉と押し付ける。〈じゃ三つ。〉<br />
　ジェシーは、たぶんしかたなく応じたと思うんだけど、中嶋朋子のジェシーの場合、満面の笑みで〈じゃ三つ。〉とはしゃいでみせる。<br />
　それが「おふくろの味」ならそれが飲みたいわ、今夜はママとの最後のランデブーなんだもん、ごめんねママ、でも死ぬの、決めちゃった、ママのこと大好き、ぐすん。<br />
　このジェシー、なんで自殺したいか、ほんと、よくわかんなかった。彼女が自殺したいとしたら、台本にそう書いてあったから。セルマが止められなかったのも、台本にそう書いてあったから。<br />
　中嶋朋子も白石加代子も、戯曲に書き込まれたジェシーとセルマの意地の悪い挑発、内面のわだかまりはきれいさっぱり黙殺、スルーしながら、ひたすら「愛し合う母と娘」「娘の哀しく潔い選択」「最愛の娘をとめられなかったかわいそうな母」、といった単純素朴な情感の図式に落とし込んで演じてた。<br />
　とおりいっぺんのステレオタイプで「善良そう」な母娘ふたりを演じたって、メロドラマにもなりゃしない。「愛情」ではなく「愛情の破綻」、ディスコミニケーションのそれらしさをたちあげずして、「自殺」にリアリティがでるわけがない。この上演、演技をたちあげるときの解釈が、ローランズいうところの「邪悪」、なんだよ。<br />
　死にたい娘と止めたい母。二時間、めいっぱい泣いて、笑って、叫んで、ズドーン、ご愁傷さま。</p>
<p>参考文献：『哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン』マーク ローランズ／翻訳・今泉みね子（白水社　2010年）</p>
<p>【筆者略歴】<br />
杵渕里果（きねふち　りか）<br />
1974年生れ。テレアポ。都内の演劇フリーぺーパー『テオロス』で劇評を始める。『シアターアーツ』も投稿あり。好きな劇団：少年王者舘、三条会、東京ミルクホール。好きな俳優：伊藤弘子、坂井香奈美（流山児事務所）、稲荷卓央（唐組）。<br />
・ワンダーランド寄稿一覧：<a href="http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kinefuchi-rika/">http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kinefuchi-rika/</a></p>
<p>【上演記録】<br />
<a href="http://www.owlspot.jp/performance/111126.html">あうるすぽっと</a>・豊島区『<a href="http://www.majorleague.co.jp/stage/nightmother/">おやすみ、かあさん</a>』<br />
あうるすぽっと（2011年11月26日-12月4日）</p>
<p>○作：マーシャ・ノーマン<br />
○訳：酒井洋子<br />
○演出：青山真治<br />
○出演：白石加代子・中嶋朋子<br />
○美術：青木拓也<br />
○照明：倉本泰史<br />
○音響：内藤勝博<br />
○衣装：藤井百合子<br />
○ヘアメイク：笹部純<br />
○演出助手：平井由紀<br />
○舞台監督：北条孝、後藤泰徳<br />
○宣伝美術：早田二郎<br />
○宣伝写真：坂本正郁<br />
○版権コーディネーター：マーチン・R、P・ネイラー<br />
○協力：白石加代子事務所、砂岡事務所、ニケステージワークス、六尺堂、エアー・パワー・サプライ、SEシステム、東京衣装、Pure、ビートル<br />
○広報:小沼知子、小仲やすえ（あうるすぽっと）<br />
○制作：ジェイ．クリップ<br />
○プロデューサー：笹部博司・上谷忠<br />
○主催：あうるすぽっと（公益財団法人しま未来文化）・豊島区<br />
○企画・製作：<a href="http://www.majorleague.co.jp/stage/nightmother/">メジャーリグ</a>・ジェイ.クリップ<br />
全席指定　4500円</p>

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		<title>「激情コミュニティ」と「十七戦地」　2月のクロスレビュー挑戦編</title>
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		<pubDate>Mon, 23 Jan 2012 03:47:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>編集部</dc:creator>
				<category><![CDATA[編集部]]></category>

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		<description><![CDATA[　クロスレビュー挑戦編の2月公演は、次の2本を取り上げることになりました。 ・激情コミュニティ「つぎ、待ち」（2月2日ｰ5日、日暮里 d-倉庫) ・十七戦地「百年の雪」（2月23日-27日、王子小劇場） 　1月を休んだの [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<p>　クロスレビュー挑戦編の2月公演は、次の2本を取り上げることになりました。<br />
・激情コミュニティ「<a href="http://gekicomi.web.fc2.com/index2.html">つぎ、待ち</a>」（2月2日ｰ5日、日暮里 d-倉庫)<br />
・十七戦地「<a href="http://17cm.info/works.html">百年の雪</a>」（2月23日-27日、王子小劇場）</p>
<p>　1月を休んだので今回は、2012年の第1回クロスレビューです。<br />
　レビューは★印による5段階評価と400字コメント。締め切りは公演最終日の翌日です。　本名と職業を載せますが、そのほかに条件はありません。公演を見た人はだれでも応募可能です。</p>
<p>　次回3月対象公演の募集中です。締め切りは2月15日(水)です。<br />
　クロスレビューは、舞台のさまざまな見え方を知る好個の機会です。レビューの評者何人かを主催者側が指名できる仕組みになっています。リスク含みですが、挑戦の価値はありと思います。ご検討ください。(編集部)<br />
　詳細は、次のページをご覧ださい。<a href="http://www.wonderlands.jp/crossreview_challenge/">&gt;&gt; </a>クロスレビュー挑戦編 応募要項</p>

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