「特別寄稿」の記事を10件ずつ表示します。
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◎「大いなる幻影」としての「日本のコンテンポラリー・ダンス」
木村覚(ダンス批評)
最近の「エンタの神様」(日本テレビ系列のお笑い番組)はすごい。何がか、というとつまらなさにおいてすごいのである。「爆笑の60分!笑いが止まらない」と冒頭にキャプションがあらわれるのとは対照的に、圧倒的に笑えない60分。以前からそうだったともいえるが、このところ笑えない程度が極まっているように見える。お笑いブーム末期という現状を象徴的に映像化しようと目指しているのか?と勘ぐりたくなるほどに、次々と登場する芸人は、どこかでかつて見たような(そしてもはや誰もがすでに消費してしまった)ネタと形式をなぞってゆくばかりで、ネタの個性はキャラ設定以外ほぼない。笑いのマニエリスム(マンネリズム)。笑えない笑いを笑う。いや、視聴者はもう通常の意味では笑っていないだろう。それでも番組は堂々と続行している。それは大いなる謎だ。その謎において「エンタの神様」は、いま見るに値する番組である(少なくともぼくのなかで)。
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2008/05/22 22:08 KITAJIMA Takashi |
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◎舞台が遊び場(play-ground)となる条件
木村覚(美学/ダンス批評)
▽リミックス、あるいはデスクトップ画面としての演劇
ハイバイ(岩井秀人)が2005年に上演した同名作品のリミックスである本作は、単なる翻案とは言い難いし、ましてや岩井戯曲の単なる再演ではない。ハイバイ版の骨組み、どうしようもない男ヨシヒロとヨシヒロを愛するヒドミとヒドミを愛する幽霊(三郎)という3人の登場人物の力関係を、ほぼそれだけを活用して、それ以外のほとんどすべてを北川陽子が仕上げた、それ故に、限りなくオリジナルと言ってよい戯曲の舞台である。
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2008/02/24 22:11 KITAJIMA Takashi |
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◎「関係者全員参加!ダンスクリティーク」で交わされたこと(1)
-司会の立場からのまとめ
木村覚(美学/ダンス批評)
はじめに
大橋可也&ダンサーズを主宰する振付家・大橋可也さんのお誘いで「ダンス蛇の穴」という企画に参加することになった。そこでぼくは、昨年の11月から今年の1月にかけて、計5回、全員で11人の振付家・ダンサーをプレゼンターに招き、森下スタジオを会場に「関係者全員参加!ダンスクリティーク」と称する会をひらいた。これは、司会を務めた木村覚の立場からまとめたこのイベントをめぐるレポートである(この場をお借りして、3回に分けて掲載する予定)。
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2008/01/27 23:42 KITAJIMA Takashi |
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◎ミニマルな所作の大いなる効果
木村覚(美学・ダンス批評)
まず、ロケーションのチョイスが素晴らしかった。目白の赤鳥庵は、駅から高級住宅街を五分ほど歩くと突如現れる目白庭園の一画にあり、都心にいることを忘れてしまう静かで美しい空間だった。夜の回もあったのだが、室内に差し込む午後の光とともに見られて、昼の回でよかった。畳敷きの一室が、舞台と客席を兼ねている。受付で渡されたお茶とお菓子の小箱に手を伸ばし、しばらく開演を待つ。座布団に座って、廊下を隔てた窓から外を見渡せば、池に錦鯉が遊んでいる。時折、和装のダンサー四人たちもあらわれて、本番前にもかかわらず、観客の相手をしたり談笑したりしている。
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2007/11/23 23:55 KITAJIMA Takashi |
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◎定規となった身体、測ることで生まれる時空
木村覚(ダンス批評)
この夏は、「生粋の」とでも形容するべきダンサーたちの公演をたて続けに見たという印象がある。黒沢美香と木佐貫邦子とが競演した『約束の船』。昨日(9/16)見た『ミミ』でも、室伏鴻と黒田育世のコラボレーションがあった。どちらも技量ある2人の意外な組み合わせ。とはいえ、意外性や話題性に寄りかかることなく、組み合う2人のベストなクロッシング・ポイントを求めて、『約束の船』も『ミミ』もある程度しっかりした構成を拵え上げていた。
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2007/09/21 16:41 KITAJIMA Takashi |
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◎瑞々しくて強くてカラッとした運動
木村覚(ダンス批評)

撮影=ニーハオ・のんのん
からだをおもちゃにして踊る。ぼくの夢にみる光景。よく聞く表現ではあるが、実際のところ、まず舞台上でお目にかかれない幻。
いや、優れたパントマイマーや教育番組での森山開次やロボコップのコロッケとか、いるでしょ? 巧みなコントロールで色んなものに変身しからだをおもちゃにするテクニシャンが、というひともいるかも知れない。うん、それはそう、彼らのテクニックについうなる自分がいるのは事実。それはそれで嫌いじゃない。
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2007/07/20 22:03 KITAJIMA Takashi |
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◎アメーバ化したぞ「吾妻橋」
木村覚(ダンス批評)
3月の上旬に行われた「The Very Best of AZUMABASHI」の話をする前に、ひとつ寄り道をしておきたい。
もし吾妻橋ダンスクロッシングが存在していなかったら、日本のダンスシーンはどうなっていただろうか。
ちょっと現在と過去を振り返り、そんなこと考えてみたらどうだろう。「吾妻橋」以前すでにその兆候が如実にあらわれていたように、きっと、曖昧模糊とした「コンテンポラリー・ダンス」という言葉を曖昧なままに利用する有象無象の手によって、リアリティを欠いたまま何だか立派そうでアーティーな(芸術気取りの)存在として今日のダンスシーンは社会に位置づけられ(棚上げされ)、それによってわずかな例外を除いてどんどん時代から無視され取り残されていったことだろう。
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2007/03/24 12:12 KITAJIMA Takashi |
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◎コントロールを遊ぶむき出しの時間
木村覚(ダンス批評)
大橋可也の作品が見る者を唖然とさせるとき、そこには独自の「時間」が出現している。だからぼくにとって、大橋は時間の作家である。観客をもてなす何らの物語も、舞台上の人物による自己告白もなく、経過する時間。受け身の観客に満足を与えるイリュージョンのヴェールはあっさりはぎ取られ、むき出しでからっぽな、裸の時間が、劇場の閉じた空間に放り出される。
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2007/01/27 23:40 KITAJIMA Takashi |
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◎規範をすり抜ける遊戯の内にダンス的な何か(「面白い」瞬間)がある
木村覚
一時の暗転の後、どこの誰か分からない十人弱の一団(買い物かごを持った主婦?)が瞬時に舞台に上がると、一斉に白い棒をひたすら振りまわし互いの体をぶっ叩きはじめた。「白い棒」はよく見れば長ネギだった。三十秒ほどで一団が消え去った後に取り残され呆然とする満場の観客のなかでぼくは、裂けて飛び散り揮発して空気に入り交じったネギの汁のせいで涙が止まらず、まさにイチモクサンといった勢いで出口となるエレベーターに飛び乗ったのだった。
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2006/11/10 22:16 KITAJIMA Takashi |
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◎「庭」が可能にするリアルな妄想の感触
木村覚
庭というのは自然そのものではない。むしろ妄想そのものだ。自然の内に押し込め入念にしつらえた妄想。庭とはまたひとを招く場所、庭が体現する妄想に客人が巻き込まれ吸い込まれる場所。時折迷いネコが通り過ぎたりする。庭劇団ペニノ(以下、ペニノ)の庭ではそんなネコのように役者は観客の存在を無視したまま、現れて消えていく。普通のセリフ劇がセリフとそれを口にする役者へ観客の注意を一元化するのに、ここでは庭とそこにいるすべてのものどもが等しく興味深い。
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2006/09/29 19:51 KITAJIMA Takashi |
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