#4 中野成樹(POOL-5+フランケンズ)

音楽のように上演したい

中野成樹さん柳沢 昨年10月に開かれた『中野成樹(POOL‐5)+フランケンズと演出コースの後輩』公演(注11)は、日大の後輩たちが演出したんですか。

中野 ええ、そうです。顔見知りです。日芸の演劇学科には演出コースってのがあって、各学年約20人います。でも、最終的に大学でても演出的なことを続けていくのは毎年1人か2人なのかな? でも、いまは劇団を持つのはリスキーだからと、いろんなとこの演出助手やったりして。でも結局は仕事に追われて自分で実際に演出する機会を持てない後輩が多いような気がしてて。ぼくは、どんなに魅力的な人のところで演助やっても、実際に自分で演出していかないとだめになっていくのではないだろうかと思ってて。なんで単純に先輩ぶりたいというのもおおいにあったんだけど(笑)、幸いぼくはSTスポットという本拠地を持ててたし、ちょっと呼んでみたということです。

柳沢 これも中野さんが契約アーティストだからできることですね。

中野 すごく私的なことで、いいのかなあとも思いますけど。そのとき呼んだ1人は、今度水戸で『かもめ』の上演をするそうです(注12)。2人とも翻訳劇を抵抗なくできるので声を掛けました。

柳沢 作品は中野さんが選んだんですか。

中野 いや、おのおのが選びました。だいたいの時間だけ決めて、それぞれ好きな作品を取り上げました。ぼくは演出にも口出ししていません。

柳沢 ハロルド・ピンターはそれほど珍しくないけれど、J.M.シング『谷の影』には驚きました。

中野 ぼくもシングの名前は知っていても、あの作品(『谷の影』)は読んだことがなかった。読んでみると、おもしろかったなあ。

柳沢 ベケットの伝記を読んでいたら、彼がシングの影響を受けたと書かれていたので記憶に残っていました。ベケットが若かったころ、ダブリンの劇場でシングの戯曲が舞台にかかっていて、それをベケットはみていたようですね。

中野 そういう楽しみ方もいいですよね。音楽の仕事をしている人たちの中には、音楽マニアってたくさんいる。でも演劇人には不思議にそういったのが少ない気がする。つまんない。やっぱりシングなんかは掘り出し物ですよ(笑)。「いまはシングがキテルね。やらないとヤバくない? マジで」みたいになっていくといいな(笑)。

柳沢 そこでうかがいたいのですが、フランケンズというと、音楽のように演劇を上演したいと考えているような気もしますが…。

中野 そういう気持ちはすごくありますね。音楽はお客さんとのコミュニケーションの取り方というか、お客さんとの付き合い方が演劇の世界よりも完成されている。ライブの構成にしても、アルバムというものにしても、そのプロモーションにしても。きっと音楽は演劇よりもお客さんとのつながりを徹底して考えているのかな。だったらそんな音楽(の世界)を、ダイレクトに参照していいと思う。それが同じおもしろさにはならないだろうけども、きっとおもしろくもなる。例えば、音楽のコンピ(コンピレーション)ってすごい発想じゃないですか。だから、演劇でも吾妻橋(注13)みたいのがもっとたくさんあってもおもしろいんじゃないかなあと。だから、ちなみにさっきの『演出コースの後輩たち』ってのは音楽でいうと、インディーズのとあるレーベルのコンピ(笑)。

身体と文体

柳沢 いま身体表現の方に目が向く流れがありますが、身体表現とはまた別に演劇が成り立つ場所があって、そういうこだわりからから、あるいはそういう方向から舞台を評価する線が弱い。そういう面からも、中野さんには頑張ってほしい。

中野 うん、これからはデスメタル的身体表現でいきましょう(笑)。さっき指摘されたことばのフォルムじゃないけれど、むかし大学の授業で、身体と並ぶことばは何かという問いがあって、その答えは文体だと言うんです。なるほどなあと思いました。身体という方法や視角にも興味があるしおもしろい、研究したいと思いますが、いまみんな意識がそっちへ行っちゃってる。みんなってだれだって話ですけど。あるいは身体じゃないどっちかって言うと文体だろうって人は、たいていみんな作家でもあって、やっぱりストーリーに意識がむいている気がする。別にストーリーにこだわることを批判してるわけではなく。ストーリーってのは、演劇全体を楽しむためのガイドラインだと思ってるし。でも、ガイドラインなんですよね。そこで、じゃあ作家じゃないぼくがこだわれる文体って何だろうと。でも、ぼくが稽古で何にいちばん時間を割くかというと、やっぱり身体なんです。身体というより、もっと所作といった方がいいのかな。だから表現ではないですね。お客さんの意識が身体に向かわない動きをしてくれ、とよく言います。ちょっと動きに癖があったり死んだ動きだったりすると、お客さんは例えばストーリーに集中できない。あの役者なんか変だなあと、ストーリーを見失っちゃう。やっぱりお客さんにそのガイドラインをはずされるとつらい。だから、とにかくきれいにいすに座って、きれいに立ってとか、きれいに振り向いてとか、きれいに握手して、しかもきれいだなあというところに意識が行かないところで止めて、みたいな。そういうことにすごく時間を掛けますね。

柳沢 そうしないと演劇が立ってこない?

中野 立ってこない。まずことばが前に出てこない。音楽で言うなら、リズム隊がボロボロで歌詞が聞こえないという感じ。それってつまんないことだと思う。もちろん歌詞が聞こえればいいというわけでもないですが。

柳沢 そこが理解されないのがいまの日本の演劇状況かもしれませんね。うん、演劇じゃないとできないことをやってくれそうな数少ない人だと思います。

中野 ぼくも演劇でなきゃできないことをやりたい。このインタビューを読んだ方も、それぞれ演劇でしかできないことのイメージがあると思う。ぜひ一度、そのイメージを持ってフランケンズの公演をみに来てほしい。おそらくフランケンズがやっていることは、そのイメージとは違っていると思う。演劇でしかできないことをやっているんだけど、そう聞いてパッと思い浮かぶことじゃないことをやってます。でもおそらくそれは、演劇でしかできないことだと思います。

柳沢 翻訳劇として輸入しようとしたヨーロッパの「演劇」というものを、日本の近代の演劇運動は結局輸入し切れなかった、そういう問題意識が中野さんにはあるのではないかと思います。日本では、逆に演劇ということばのイメージだけが肥大化して、輸入しようとしたはずの「演劇」の概念を覆い隠してしまったのではないでしょうか。中野さんにはその輸入しきれなかった演劇を探求するという姿勢を貫いてもらいたいと思います。

(2006年1月9日、新宿で)

注11)『中野成樹(POOL‐5)+フランケンズと演出コースの後輩』公演
2005年10月26日-30日、STスポット。『サマーキャンプ』のほか、『宿無し男』(原作=J.M.シング『谷の影』より 脚色&演出=田中麻衣子)『私たちがまばたきしたときいったい何をみているのでしょうとボブはその男に答えた』(原作=Harold Pinter『Silence』『Night』より 訳&構成&演出=桐山知也)。(注12)かもめ
水戸芸術館ACM劇場のプロデュース公演「すべてはシェイクスピアから2 『かもめ』」(演出・美術:桐山 知也、2006年1月20日-2月 5日)(注13)吾妻橋
吾妻橋ダンスクロッシング。ダンス評論家、作曲家の桜井圭介氏がプロデュースする企画で、2004年から東京・浅草のアサヒ・アートスクエアで開かれてきた。ダンスグループが10分ほどの短時間で次々にパフォーマンスする。


インタビューを終えて

中野成樹
手当り次第に好き勝手なこといってます。まったく理論武装されてません。つじつまもいまいちあってません。つっこみどころ満載。でもどこか、ひとつかふたつくらいは問題提起ができてるかな?
なにはともあれ、まったく無名なぼくにこんな機会をあたえてくださった方々に感謝しています。久々に自分の考えを整理できそうです。このインタビュー記事をもとに、ひとつひとつていねいにやっていきたいです。全部クリアできたら、きっとどうにかなってるでしょう。そのくらい広くほどよい深さの内容だと思いますので。そしてお読みくださった方にも、もちろんお礼を。長々とおつきあいありがとうございました。いわゆる2万字インタビュー(笑) これからは「JAPAN」じゃなくて「wondreland」で。いろいろご意見ください、ほんとうに。
言い忘れたことがひとつ。ぼくはSTスポットの契約アーティストなのですが、アーティストということば、じつは嫌いです。以上。

柳沢望
私はインタビューの中で「異化効果とか…」と言いかけて中野さんに流されちゃってますが、そのとき言いかけたことを書いておこうかと思います。
中野さんの舞台を見ていて、しばしば、いま目にしているのはどこまでも演劇にほかならない、と思わされることがあります。
演技が何かの場面を表現しているということでは一切無く、臨場感があってその場に立ち会っているかのように思ってしまうということとも無縁であって、演技はどこまでも演技に他ならないという感覚。それは、どこまでも醒めた視線で舞台を見つめざるを得なくなるような経験です。
なんとなく、そういう感覚は、観客が舞台に対して醒めた視線を向けるように仕向けたというブレヒトの手法というか、思想というか、に近いのかなあなどと思っていたのでした。私もブレヒトのことはあんまり知らないんですが。

【参考】  本文に注記したほか、中野成樹さんに関する主な記録、レビューなどは以下の通りです。