#7 生田萬(キラリ☆ふじみ芸術監督)

劇場-カラダの記憶の貯蔵庫

生田萬さん-難民の子どもたちの「春の祭典」のおもしろさって、どんなところにあったんですか。ダンス自体のすばらしさですか、あるいは地域の子どもたちと作品を作り上げるプロセスそのものがおもしろかったんでしょうか。

生田 両方なんですけど、さっき言った「必要かどうか」の物差しにあてると、これは絶対必要だと。決して芸術を有用性で語るつもりはないんですが、少し離れて地域絡みの話をしますと、劇団活動を休んでテレビの仕事をするようになって、調べもののために地域の図書館通いが日常になったんです。それで、生まれてはじめて「図書館て必要なんだなあ」と(笑)。人間のありとあらゆる営みを保存する記憶の貯蔵庫。でも、劇場もそうだよなと。いまここで生きている人々が、多種多様なシチュエーションのもとで抱いた思いや感情をどう身体的に表現するか。身振りや所作を定着したりため込んだりするカラダの記憶の貯蔵庫が劇場だと。ぼくが図書館を再発見したように、劇場だってそういう機能を備えているはずなんですね。いまの時代をそのまま身体を通して映していく、そういう場所として劇場が機能している素敵さを子どもたちのダンスに観たわけです。いいなあ、おれもやってみたいなあと思いました。

あと記憶つながりで言いますと、まあ、若い演劇人に感じることで、みんなぼくなんかよりはるかに器用に世の中を渡っている一方で、ぼくなんかがくりかえしたのと同じ地点で失敗を反復してるように見えるところもある。演劇の裏方というかスタッフの間ではさまざまな演劇上の記憶が受け渡され技術的に実を結んでいる実感があるけれど、俳優や演出家の間ではそういうドラマツルギーの部分がうまく継承され蓄積するシステムがない。最近の「劇団離れ」というか過剰なユニット志向がさらにそれに拍車をかけている。だからこのホールが記憶の受け渡しの場所のひとつとして機能すればいいなあと、これは応募するときに考えたことですけど。

-身振りを通した「いまここ」の記憶と、ドラマツルギーの定着と保存という二つが劇場を拠点として展開される活動の軸になるということですね。

生田 そうですね。その場合に問題となる日本の特殊事情に関して言いますと、俳優と劇作家ばかりがごまんといる異常事態が日本にはあって(笑)、演出家が圧倒的に少ない。もっと演出家が出てこないとドラマツルギーを云々する土壌も育たないんじゃないか。だからこのホールがそのための環境をつくる役にたつといいなと。これから演劇の未来を発明する演出家がここを拠点に表現を鍛える。そんな夢はあるんですけど、でも、それだけじゃいけない。なぜ演出家が少ないかは考えるとオモシロいテーマなんですけど、それは言っちゃえば演劇内部の問題ですよね。もう少し見晴らしのいい場所で考えて、地域と公共ホールの新しい機能のさせ方とか、芸術監督制のあり方とかを語る必要がある。指定管理者制度に移行してホールを取り巻く環境もかなり流動的だし、芸術監督制も日本に根付くかどうかの瀬戸際の時期に差し掛かっているとも思うし。ローバジェットな小さなホールであることを逆手にとって、フットワーク軽くいろんなサプライズに挑戦して、ヘエエ、芸術監督がいると便利だね、おもしろいね、と言われるようになったらたのしいなあと、いまはそんな気持ちでいます。

-日本の劇場の芸術監督というと、欧米と比べて権限が小さかったり曖昧だったり、いろんな問題点を指摘する声もあります。しかも専属の劇団を抱えているところは限られています。キラリ☆ふじみの芸術監督はどんなことができるのでしょう。

生田 いやーここだけの話、職掌がどうとか、まだあまりきちんと把握してないんです(笑)。ただここは最初から芸術監督を置いたわけではなくて、平田オリザさんがプロデューサーからはじめて、それこそ必要性を周囲に説得する形で芸術監督に持ち上がったという経緯がある。劇場を差別化するための「看板」として導入したわけじゃなく、地道に一歩ずついまの体制になっていった。だから、斯界の巨匠の大物監督が看板に見合った大きなことをやるというんじゃない新しいイメージというか、ぼくみたいな人間がこまめに駆けずり回って、ユニークかつ目配りの利いた事業をコツコツ積みあげて新しい芸術監督制のパターンをつくりたいですね。

-キラリ☆ふじみのwebサイトをみると、市民参加の運営組織があるようです。生田さんはそこに企画を提出したり、実行するときリーダー役を務めるという理解でいいのでしょうか。

生田 どこの公共ホールにもだいたい市民参加の運営組織があって、ここはサポート委員会という名称です。でも、企画段階でどうこうするという組織じゃなく、主に実施した事業についての評価をいただくといったものですが、ぼくは企画に関わりたいという情熱がある方にはどんどん入ってもらいたい。いまはその委員のみなさんとしっかりしたパイプをつくるのが最初の仕事だなと思ってます。ただどこもきっとそうですが、そうした方々は地域の文化人とか趣味や余暇に時間を割く余裕のある人、早い話が年齢の高い人たちなわけです。それがいけないというんじゃないし、ぼくとしては昨今話題の団塊の世代? (笑)ぼく自身そうなんですけど、ベビーブーマーにもどんどん参加してもらってセカンドライフを磨いてもらいたい。でも、本音は若い人にも入ってほしい(笑)。そのためには動機が必要なんで、それを考えてるとこです。

といっても、まあ、そのへんはいろいろ年齢に関係なく難しい問題がある。たとえば、「市民のための公共ホール」などといいますが、その場合の「市民」というのは引っ越したら都民や府民になる人々なのか、市民運動なんていうときの人々なのか。日本ではロジカルな位相のちがう二通りの「市民」という言葉が混同されて使われてる。そもそも「市民」という考えは絶対王権確立以前の中世のヨーロッパで生まれたものだと思いますけど、商業のルネサンスなんていう動きのなかで新興階級として台頭した商人や手工業者が、自分の町のまわりを城壁で囲って「ここはおれたちが全部やるから」と領主から自由と自治を獲得した。なにがいいたいか(笑)。つまり、「市民」というのは自分で進んで手に入れた権利なんですよね。だから、たとえばここに市民ホールがあるとすると、それはおれたちがおれたちのためにおれたちの金でつくったと。日本人の多くは、公共ホールといっても「お上」が勝手につくったと。公共事業とかいって裏で利権がからんでんじゃないの、なんてね。だから、芸術監督を公募するといっても実は話題づくりで、最初から上の方で決まってたんじゃないのなんて思ってる人もいるかもしれない。どっちにしても関係ないやってね。そのへんから少しずつ壊さないと、何事も動かないだろうなと思います。それにはとにかく、市民と一緒にいろんなこと出し合って具体的に活動するしかないでしょうね。>>