#8 岸井大輔(ポタライブ「元」主宰)

「演劇の形式化」-現代芸術として演劇をつくるために

岸井 いろいろワークショップをやってみて、ぼくが、演技していると感じるのは、行為と行為の移動だ、と思いました。まず、人間は、行動するとなんらかの意識をします。しかし、意識のピークは持続できない。本当に一瞬でしかなくて、意識した直後には、もうその意識の残響で体が動いている。あとは、意識を続けようとしても、意識しているフリになってしまって演技としては見るに耐えない。この「意識があらわれる、意識の一瞬のピーク、意識の残響」は、せいぜい10秒くらいしかもたない行為の持続の最小単位です。そして、意識の残響がある間に、次の意識があらわれることで、行為がつながって見えるのではないか。実際ナチュラルな人間は、そうしているようにぼくには感じられます。その行為と行為の移動を正確に再現する技術が演技なのだと考えました。ならば、そのための方法を考えればいいだけです。そこで「P」を考えたわけです。

岸井大輔さん-これまで話されたことを整理すると、演劇はほかの芸術ジャンルに比べて方法論の面で遅れている。整備されていない。しかし、明確な「演劇」の概念が自分のなかにはあって、それを作品化する方法論があれば、その演劇の概念を実現できる。そういう確信が固まってきたのが95年前後だったと言っていいのでしょうか。

岸井 そうですね。現代美術や現代音楽はカッコいいと思った。でもぼくは演劇が一番好きで、それ以外をするつもりはない。ならば、カッコいい演劇をつくろう、と思ったんですね。

-どこがカッコ悪いんですか。

岸井 いろいろありましたが。当時のことを考えると、他ジャンルの現代芸術の友人と、野田秀樹さんや太田省吾さんや鈴木忠志さん、いわゆる80年代小劇場以前の成果を見に行くと、まあ、なんとか話ができるわけです。近代、たとえば「役作り」「才能」「伝統」に対する疑義が作品を見れば誰にでも分かる形式をとっていますよね。

ところが、そのころ、いわゆる「静かな演劇」が出てきて、平田オリザさん、岩松了さん、宮沢章夫さん、ですね、確かにおもしろいんだけれど、これは単にある作家からみている世界をコピーしているだけで、つまり近代的自我を前提にしたテーマ主義ではないか。さらに、物語に大きく依存した表現なのじゃないか、といわれると、当時のぼくはまったくその通りだと答えざるを得なかった。

あり得るだろう誤解をさけるためにいうと、ぼくは、太田さんの舞台を見ていたので、せりふが無いとか、静かであることは好きだったわけです。野田さんが、80年代末にエッセーで、「将来において、また、演劇は頭でっかちなやつらが語るものになるだろうが、自分は遊び続ける」という趣旨のことを書いていたんです。ぼくはそんなバカな、と内心思っていたのですが、予言が当たったと思いました。特に高校時代はポップスターだった宮沢さんが「静かな劇」化したのは予言の成就っぽくて衝撃的でした。

もちろん、宮沢さんについては「あえてする」態度だ、と思っていましたし、おそらく彼は現代において有意な「能」をめざしているんだろうと「ヒネミ」とか「砂漠監視隊」を見て感動したときには思ったんですけれど。でも、「あえて」近代そのものの努力を、今になってやらなければならないアート分野っていうのはカッコ悪いと感じたんですよ。

平田オリザさんも、自分が日本で初めて近代演劇をやっているんだと書いていたと記憶していますが、それこそが彼の一番の実績だと思いますよ。

近代演劇というのは、その時代の口語によって市民を主役として考えさせることを目的とする劇ということであって-「人形の家」がたとえばそうですよね(笑)-現代芸術にとっては相対化するべき土台の一つに過ぎない。でも、そのころ平田さんの劇を見ると、「あえて」ではなく「ベタに」彼の世界の再現をしているだけに感じられました。平田さんが現代芸術家と言えるのは、演出家としてだと思う。平田台本を近代的に上演することはできるけど、近代的な台本も平田さんが演出すれば現代演劇にできますよね。彼の演出術は、世界のコピーではない、今できあがりつつある演劇シーンに影響を与えたと思います。

でもこのことこそが、当時のぼくにとっては、演劇が現代芸術になっていないということの証明に過ぎない。とすれば、そのための努力をまずしてしまうべきではないか。後発であるということは、先人からいろいろ学べるはずで、だから、それほど苦労せずにすむのではないか、と思っていました。

そこで他のジャンルで現代芸術が誕生した経緯を勉強してみました。すると、たとえば美術ならバウハウスの活動が決定的なんじゃないかと思いました。特に、クレーの「教育スケッチブック」のような考え方やデザインという概念が作られたことなどです。ダンスならラバンやフォーサイスの活動、音楽ならシェーンベルクの12音技法のような活動です。

これらには、共通点があるように感じました。つまり、現代芸術の誕生のあたりで、それまで結果から定義されていたジャンルを、作品の作り方からの定義に変えるという作業を経ているんです。しかも、その創作方法というのは、ある作家個人がイメージする結果を作り出すための方法ではなくて、そのジャンルに属するものすべてが共通して使えるものです。その方法による作品創作の成果があって現代芸術は生まれましたが、演劇にはそれがないことが問題なのではないか。だから、現代的な作品が作り出されても、それは個人の才能によってしか維持されず、長い目で見ると近代の重力に負けて逆戻りしてしまうのではないだろうか。現代芸術誕生に共通する作業を捕まえようとしていたころ、柄谷行人を読んでいて、演劇に必要だとぼくが感じていることは彼の言う「形式化」だな、と思いました。正確に言うと「創作方法によるジャンルの形式化」ですね。演劇においてもそれはなされなければならないと考えた。それが95年なわけです。

-そういう理論的考察に沿って演劇ができるはずだ。やらなきゃいけない。それが次の「P」になるわけですね。

岸井 そうです。そう思っていました。

-「P」を始めたころ、大学はまだ卒業していませんよね。

岸井 まだ在学中です。

「P」の方法論-演技の形式化

-ところで、「P」って何の頭文字ですか。

岸井 あまり意味はなくて、PLAYの略、演劇ですね。

-演劇の本質、演劇そのものに仮に「P」という記号をつけておく、そういうことですか。

岸井 そうですね。では「P」という方法の説明をしますね。

「P」は、最初に文を準備します。この文は何でもよい。「才能」から演劇の創作方法を解放するために、図書館でサイコロを振って、テキストを選んだりしていました。サイコロは「P」の象徴となるアイテムですね。今仮に、準備した文を「最初に文を準備します。」だとします。この文をサイコロを振って、文字数で、いくつかの部分に分けます。たとえば

1 最初に
2 初に文を準
3 を準備
4 備します

の4つにわかれたとしましょう。この分けられた切片はそれぞれ少しずつ重なりあっていることが重要です。それぞれの切片ごとに、イメージを別々の人が作ります。まあ、なんでもいいのですが、たとえば

1 最初に  : 学術論文の前書き
2 初に文を準: 三国志で曹操が死ぬときに叫んでいる
3 を準備  : 幼稚園受験について噂をしている主婦達の会話
4 備します : 魚の名前

というイメージが集まったとします。で、ある人がそれぞれをイメージして動くと、4つの演技(行為の持続した身体)ができます。それぞれの部分ごとに、立っていることも座っていることも、現実的であることも幻想的であることもあります。あとは、これをつなげるだけですが、言葉が重なっている部分を、先に述べた「前の意識の残響が持続していて、次の意識があらわれようとしている」部分にあてるわけです。

-声に出される文章に対して、文章本来の意味からかけはなれた身体の動きが舞台で展開されるということですね。

岸井 動きは結果としてコンテンポラリーダンスっぽかったですね。ダンスをやっている人から「あなたはフォーサイスをやりたいんだね」と言われて考えてみると、作る前にフォーサイスのCD-ROMで散々遊んでいましたし。

-フォーサイスに通じるところは分節の細かさとスピードですか。

岸井 細かさではフォーサイスに負けません(笑)嘘です。ともかく原文を読み上げているスピードが落ちないまま、各単語程度のペースで原文とは関係のない演技をしているわけですから。

-イメージを結晶化して、シーンをテキストの中にはめ込む。それを役者が集中して身体に持続させる。次々に現れる演技が舞台の上に、めまぐるしく、きらきらと輝いている。それだけでもうたっぷり演劇じゃないか、という感じですね。

岸井 そうそう(笑)。部分に分けるとき、サイコロを使っていましたが、普通に演技を作るならば、表現したい目的に合わせて部分に分け、イメージを決め、演技し、つなげれば、あらゆる演劇に対応できる、とも考えていました。

「P」を思いついたときは、これでバニョレ国際振付賞を受賞できると思った(笑)。まだ稽古もしてないのに、コンセプトだけでハイになって2日眠れなかった(笑)。でも実際に2週間稽古したら、これは賞をもらうのに20年掛かると分かって落ち込んだ(笑)。半年稽古しても、ダンスとして見ると身体がダメ、演劇として見ると何のことか分からない。

俳優にも延々とコンセプトを説明するんだけど、まったく理解してもらえない。今、「P」でやっていた演技方法を「文(かきことば)」という活動で使って稽古、上演しているのですが、10年経ってみると、演劇をやっている人にも現代芸術がなじんできたのか、見せるだけで普通に伝わる人の方が多い。「P」の当時は、公演を開いても、演劇のお客さんは殆ど喜ばなかった。アーティストの友人だけが無闇に喜んでくれる。ああ、これはだめだな、と。まあ、知らない人が見てもおもしろくなるだけの稽古量ってあるんですよね。「P」も俳優が訓練すると、1年も経つとおもしろくなるんですが、それでも、俳優は自分が何をやっているのかほとんど理解できないままです。1年稽古した俳優5人と、築地本願寺のブディストホールで公演したときは、見せるに足るレベルだったと思います。あの時は、緞帳の上げ下げや客電の点灯消灯、音響から照明まで、すべてサイコロでやりましたから、ぼくは本気でした。おもしろかったな。

プロジェクトマネジメントを学ぶ

-ビジョンとしては世界的な演劇革新の旗頭になるような勢いですが、そのまま大学を中退して活動することにならなかったんですね。

岸井 きちんと勉強しようと思ったころから、中退は考えなくなりました。大学は役に立つと思い始めたのです。また、バブルが弾けて、90年代半ばは、友人たちがアートと社会の関係を考え始めていたころで、そのころから、社会と演劇の関係について考えるようになり、今のポタライブにつながるような、一般社会と接した作品を作り始めると、まあ、大学生は社会人扱いされないんですよ(笑)遊んでると思われてしまう。でも、職歴は割と実効がある。で、大学も自分に役に立つことを教えてくれるということに3年も気が付かなかったことに後悔をしていたときですから、これはひょっとして、会社に勤めないと必要な教育は身につかないシステムになっているんじゃないか、と、思いました。

就職活動は人並みにしましたよ。だから志望基準が、「将来演劇活動で役に立つスキルを身に着けられる会社」(笑)。もちろん演劇は続けるつもりで。面接でも演劇を続けるということはどこでも言って。たとえば、就職することになったベネッセで最終面接のとき、「演劇活動を続けるなら会社をすぐ辞めちゃうんじゃないの」と言われたので「いえ、そんなことはありません。5年は勤めます」と返事をした(笑)。そして約束通り5年で退社しました(笑)。いや、5年で辞めていいと思われたのだと本気で思っていましたからねえ。そんなわけあるか、と今では分かりますが。5年で辞めるというのは社内でも公言していましたから、まわりから退社まであと何年だね、なんて日常的に言われましたし。実際に退社するとき先輩たちからは「エーッ、本気だったの」なんて言われて「取締役に5年って言って入社したんです」なんて、ひどい言い草だったなと反省していますが。

でもその5年間はよかった。勤務ぶりはお世辞にも褒められたものじゃなかったけど、ぼくにとっては本当に勉強になった。ベネッセは当時、個別対応を徹底することで顧客満足を最大化する戦略でした。ぼくは演劇こそ、観客に個別対応するジャンルで、だからこそ儲からないと思っていたのですが、個別対応をちゃんとやっていて、しかも大もうけしている企業がある!これは勉強になるぞ、と。でも、中に入って分かりましたが、結局本質は、ただ「一生懸命がんばること」でした(笑)。当時の経験が今、そのまま役に立っています。

-具体的に言うと、演劇を続ける上で勤務から得られた役に立ったことって何ですか。

岸井 組織でお客さんと向き合うにはどうしたらいいか。そういう勉強をさせてもらった上で、実地に企画し、お客さんの反応を見ることができる。貴重な体験でした。ありがたかったです。会社の研修で、集団での企画や、組織維持のノウハウを勉強でき、それを実地で試せたのもありがたかった。研修で学ぶことって、たとえば、マネジメントだと、ドラッカーは役に立ちますよ(笑)。演劇をやる人は読むといいと思いますね。たとえば、「どんな組織にも社会に対する約束がありそれを果たすために存在する」という概念ですね。テニスサークルなら「テニスをする場の提供」、自動車メーカーなら「よい自動車を提供」という「約束」があり、その約束を果たすにはどうしたらよいかと考えると組織の運営は合理化されます。約束に意味がなくなったら組織はなくなってもいい。たとえばテニスをしたい人が誰もいなくなったらテニスサークルはいらない(笑)。金儲けも、組織にとっての食事であり、約束を果たすための手段である。こういう考え方を知るだけでも演劇活動に役立つんじゃないか。でも、それだけではなくて、学んだことを実地で試して、他人の金で失敗までできる!

-仕事の上では、とりわけプロジェクトマネジメントに興味を持っていたんですね。

岸井 1回しかない、繰り返しのない事業をプロジェクトというんですが、プロジェクトという概念を知ったときのぼくの喜びようはすごかったですよ。だって、演劇ってまさにプロジェクトじゃないですか。プロジェクトマネジメントの手法を使うことで、北海油田から、ピクニックまで(どちらも「繰り返しのない事業」ですからプロジェクトです)成功させることも出来る、と。実際、プロジェクトマネジメントの基本本である、PMBOK(「A Guide to the Project Management Body of Knowledge」)を読んでみると目から鱗がポロポロ落ちる。これなら演劇プロジェクトもうまくいくんじゃないか、と。国際資格を取るための研修にも行かせてもらいました。一通りの、プロジェクトマネジメントの知識はあるつもりです。

「演劇の素材は何か?」という問いとの出会い

-そんな会社員生活を送りながら、「P」は続けようと考えていたわけですか。

岸井 「P」は創作方法なので、一人歩きしてもらいたかったのです。創案者の手を離れて生きはじめねば、創作形式と呼ばれるに値しないと思っているので。新入社員のころは自分がどのくらい時間をさけるかも分からなかったので、他の人に頼んでやっていただいていて、「P」をやる団体が3つ活動していました。だから会社員時代になると、ぼくは「P」の活動にあまり関わっていません。結局、「P」は一人歩きしませんでしたけど。

-一人歩きしなかったのはなぜだと思いますか。

岸井 活動している側のモチベーションが保てなかったからでしょう。「P」のあと、創作形式には、それをやる人のモチベーションの維持まで含まれないといけないんだと気付きましたね。ポタライブは「P」の反省を踏まえた創作形式ですが、モチベーションのことをかなり考えている。「P」も、やっている実感が分かればもっと続いたのではないかと今にして反省します。

-「P」が社会の中で自律して生成するかと思っていたら、しぼんでしまったわけですね。

岸井 そうです。

-「P」の活動を共にしていた人たちとも理論的な議論をしていたのですか。

岸井 議論というより一方的に説明していたし、なかなか分かってもらえませんでしたね。

-当時から「演劇の形式化」というコンセプトを打ち出していたのですか。

岸井 95年からそれは明確でした。「演劇の形式化=P」だと主張して、それでいいと思っていた。これがトドメだ、ぐらいに思っていました。

-「P」時代はまだ、集団という概念を考えていなかったのですか。

岸井 ああ、演劇の素材=集団という概念をぼくが考え始めたのは多分、2002年ごろですね。うーん、そうですね。「P」を作って初めて、ぼくは他人に紹介できる作品を手に入れたわけです。それまでは「演劇の形式化」と言っているだけで、それを表す作品がなかった。なので、ぼくの考えを理解してくれそうな人に「P」を見せて話をしようと思ったわけです。

そのころ、音楽の五線譜やダンスの舞踊譜みたいに、演劇を記譜できないかと考えていて、P譜のようなものを作ろうと考えていた。それで、舞踊譜の研究者に会いに行くことにした。譲原晶子さんです。

-「踊る身体のディスクール」(春秋社)を書かれた譲原晶子先生ですね。かつて東大の学生さんがダンス記譜法の自主講座を開いていて、ぼくもその縁でお会いしたことがあります。

岸井 譲原先生に会いに行って、演劇の形式化の話をし、「P」を見てもらって、喜んでいただき、特にコンセプトの説明をしなくても、こちらが考えていることに対して適切な質問をしてくださいました。やっと、やりたいことを分かってくださる専門家に会えたと思いました。そこで譲原先生に、形式化を考えるなら、何をそのジャンルの素材と考えているかを決めねばならない、と言われた。つまり演劇の素材を何であると考えているか、ですね。それはそうですよね。同じジャンルを相手にしても、素材が違えば、違う形式化が生まれるだろう。そう言われて、ぼくは、シェーンベルクとケージの違いを考えました。五線譜に書きうるものを音楽と考えるならばシェーンベルクになる。でも音楽とは音であると考えれば、ケージやシェーファーになります。で、譲原さんに、あなたが考える劇の形式化するべき対象・素材は何なのと問われて、答えがない、答えられない。

-「P」ではだめだったんですか。

岸井 「P」で形式化されているのは演技ですよね。音楽における音のように、演技が演劇の素材かと考えると、簡単にはうなずけません。また、「P」で形式化している範囲が演技のすべてをフォローしているのかというと、そうでもない。射程としては、せいぜい現代口語演劇程度の小さいものだ、というのが、演劇の素材とは何かという問いをたてることで明確に分かりました。

-演劇の素材は何なのか、という問いへの答えは「P」のコンセプトでは出せなかったんですね。

岸井 「P」は戯曲を演技する過程を形式化しようとしていました。しかし、考えてみると戯曲と演技は演劇の全体ではないですよね。>>