マームとジプシー「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと———-」

◎劇評を書くセミナー 東京芸術劇場コース2014第2回 報告と課題劇評

チラシ画像 劇評を書くセミナー2014第2回を7月5日に行いました。対象とした公演は、マームとジプシー「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと—–」、講師は徳永京子さんでした。レクチャーは「劇評とは?」に始まり「『見ていない人にも伝わるように書く』ことがまず最初に意識すべきこと」など全般的なアドバイスから、当日までに集まった劇評16本に対する具体的な指摘と助言へと続きました。筆者の了解を得られた劇評を掲載します。(編集部)
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Company SJ and Barabbas『芝居 下書きI』『言葉なき行為II』

◎言葉と身体――路上からベケットへ
藤原麻優子

 アイルランドの劇団Company SJ and Barabbasによるサミュエル・ベケット『芝居 下書きI』『言葉なき行為II』の公演が早稲田大学演劇博物館前で行われた。同博物館では『サミュエル・ベケット展―ドアはわからないくらいに開いている』が開催されており(註1)、今回の公演はこの展示の一環として企画された。Company SJ and Barabbasはベケットやウィリアム・B・イエイツの作品を屋外で上演する劇団で、アイルランドでは高い評価を得ているという。これまでにアイルランドのほかイギリス、アメリカでも上演を行い、今回の招聘公演が日本での初上演となる。演目は『芝居 下書きI』『言葉なき行為II』の二作品であった。
この公演の特徴は、なんといってもベケットの演劇作品を野外で上演する点にある。ベケットの演劇作品のト書きは非常に緻密なもので、秒数まで指定しているものもある。また、常に自身の書くメディアについて先鋭な意識をもつ彼のテキストは、劇場という空間で上演されることに自覚的なものも多い。つまり「ベケットの野外上演」というのはそれだけで大胆な試みなのだ。次に、上演場所と取り結ぶ固有の関係もこの公演の特徴である。いわゆる「site-specific」(特定の場所で上演されるために制作される作品)とは少し異なるかもしれないが、単に屋外で上演するというだけでなく、上演される場所その一点から世界を何層にも照らしかえす批評性を探る点でも意欲的な試みだったといえる。さらに、演出家のサラ‐ジェーン・スケイフは二作品の登場人物をホームレスとして想像した。「不条理演劇」と称され難解さで知られるベケットの登場人物に現実と地続きの実在性を取りだしてみせる明確なビジョンもこの公演の大きな特徴であった。
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文学座アトリエの会「信じる機械-The Faith Machine-」

◎人間はどのような機械なのか。
 北野雅弘

「信じる機械」公演チラシ
「信じる機械」公演チラシ

 『信じる機械』の作者アレクシ・ケイ・キャンベルはゲイであることをオープンにしている劇作家で、TPTが2011年に上演したデビュー作の『プライド』も、現在と50年前を対比することで、社会的偏見がどれほどゲイのアイデンティティを歪め苦しめていたのかを描いていた。今回は、ゲイ排斥を確認したイギリス聖公会のランベス主教会議が話題に出てくるし、魅力的なゲイが描かれるのだけれど、この作品の「人間とは何か?」というテーマは社会的というよりはむしろ哲学的だ。

 冒頭の場面は2001年9月11日のニューヨーク。911の直前の設定である。床一面に雑誌などのページが隙間なくまき散らされ、奥には戸口を塞ぐようにうずたかく積み上げられた舞台(美術:乗峯雅寛)が印象的だ。場面が変わってもこの印刷物のセットは変わらないので、それが登場人物には見えないことが分かる。そこに諍いのただ中にあるソフィとトムのカップルと、ソフィの父親エドワードが登場する。エドワードも、まき散らされた雑誌と同様、ソフィたちには見えていない。もう死んでいるのだから。
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蓮沼執太フィル 「音楽からとんでみる4」全方位型フィル

◎「ステレオ」のパフォーマンス空間
 ラモーナ・ツァラヌ/井関大介/廣澤梓

「音楽からとんでみる4」公演チラシ
「音楽からとんでみる4」公演チラシ

 TPAMへの2度にわたる招聘や快快への楽曲提供など、舞台芸術との関わりも深い音楽家・蓮沼執太。彼による15人編成のオーケストラ「蓮沼執太フィル」は2010年の結成以来、ライブベースの活動を行ってきました。そこでは集団性や観客を含めた場の創造という観点において、今日の演劇を考える上でのヒントを与えてくれるように思います。この度、4月27日(日)の「全方位型フィル」と題されたライブに立ち会った3名によるライブ評を掲載します。(編集部)

解放感のサウンドスケープ—蓮沼執太フィル公演『音楽からとんでみる』
 ラモーナ・ツァラヌ
作者をこれ聖と謂ふ—音楽共同体への憧れと蓮沼フィル—
 井関大介
もう一度、集まることをめぐって
 廣澤梓

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Bunkamura「殺風景」

◎「わたしたち」を構成しえない狂った家族の空間は、「わたしたち」の空間と位相同型か?
 高橋 英之

 実話がある。

 2004年9月、福岡県大牟田市で暴力団幹部の男とその妻、長男、次男の4人が共謀して、家族同士で親交のあった女性とその息子2人および息子の友人の計4人を殺害し、金品等を強奪し、死体を遺棄した事件。福岡地裁久留米支部は、求刑通り4人全員に死刑を判決。福岡高等裁判所は、判決文に「非情かつ残酷」「凶悪」「極端な粗暴性」「冷酷」「深刻な反社会性」といった言葉を並べ、被告人の控訴を退けた。そして、2011年10月、最高裁判所第1小法廷は、被告である家族4人に死刑の確定を告げている[注1]。

 この事件の犯人に、同情や憐憫の感情が沸き起こる人は少ないだろう。むしろこれは、わたしたちの生きている空間とは全くの別空間の出来事だとしか思えない[注2]。そんなどうしようもない事件を、作者・赤堀雅秋[注3]は『殺風景』という作品として舞台に上げてきた。いったいどういう意図をもって?観客に何を届けようとして?
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山口情報芸術センター[YCAM]「とくいの銀行 山口」

◎わたしたちの劇を押し広げるかすかな野蛮さと、生まれたての公共という劇中劇〜深澤孝史『とくいの銀行 山口』を演劇から読み直す
 谷竜一

【「とくいの銀行 山口」ななつぼし商店街MAP】
【「とくいの銀行 山口」ななつぼし商店街MAP】

 昨年度、10周年を迎えた山口情報芸術センター(以下YCAM)では『山口情報芸術センター[YCAM]10周年記念祭』として多様な企画が実施された。中でも独特の動きを見せていたのが、初の公募展として行われた『LIFE by MEDIA』の作品群である。本展では『PUBROBE』(西尾美也)、『スポーツタイムマシン』(犬飼博士+安藤僚子)、『とくいの銀行 山口』(深澤孝史)の3件が採択され、2013年7月6日から9月1日、11月1日から12月1日の二期に渡って山口市中心商店街において展開された。
 『LIFE By MEDIA』は「メディアによるこれからの生き方/暮らし方の提案」を募集テーマとしている。募集要項に「メディアといっても、メディアテクノロジーに限らず、賑わいやコミュニケーションを生み出すことをここでは指しています(*1)」とあるように、特にこれまで一般に理解されているメディアアートをより拡張する試みが注視され、採択されたと言ってよいだろう。
 さて、本稿において筆者は、深澤孝史『とくいの銀行 山口』を取り上げ、その劇評を書く。しかしそもそもこの作品はいわゆる演劇作品ではなく、強いて分類するならばリレーショナルアートに属する作品である。こうしたあらかじめ劇ではないものの「劇評」を書くことは可能だろうか? もし書けるとしたら、それはどのように書かれうるのだろうか?
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彩の国さいたま芸術劇場/ホリプロ「わたしを離さないで」

◎大きな芝居を小さな劇場で上演したら、小さな劇場で上演された芝居を大きな劇場で上演したらと妄想しながら
 大和田龍夫

never_let_me_go0a 彩の国さいたま芸術劇場は開館して20年。新国立劇場中劇場、神奈川芸術劇場より長い歴史を持つ有数の大劇場だということに少し驚きをもって会場に向かった。実はこの演劇チケットを買ったのは「農業少女」で好演した多部未華子が脳裏から離れなかったからと、倉持裕脚本であることがその理由。蜷川演出、カズオ・イシグロ原作にはあまり惹かれてはいなかった(というよりはその事実をヒシヒシと感じたのは会場に着いてからだった)。
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連載「もう一度見たい舞台」第6回

◎燔犠大踏鑑「すさめ玉」
 大泉尚子

 その日は深夜、高い熱を出した。一緒に下宿暮らしをしていた姉によると、気持ち悪い、気持ち悪いと譫言のように言っていたそうだ。1972年、地方から東京の大学に入って間もない頃、情報通のクラスメートに連れられて、土方巽が演出・振付をした「すさめ玉」を見に行ったのだった。

 今はない、池袋西武百貨店ファウンテンホールでのその舞台は、芦川羊子、小林嵯峨など女の踊り手がメインだった。結い上げた髪に全身白塗り、思いっきり口角を引き下げたへの字の口に、目は半眼で時に白目を剥いたりギュッと真ん中に寄り目にしたりする。背を丸め、がに股でお尻を落とししゃがみこんだ姿勢で蟹歩きに這う。手首や足首は不自然に内側に曲がり、痙攣めいたギクシャクとした動き。
 「いざり」「足萎え」「不具」とか、口に出すのを憚られる言葉が頻々と頭を掠める。いや、言葉ではなくそういう身体そのものが目の前で蠢く。
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KAAT×五大路子「ニッポニアニッポン~横浜・長谷川伸・瞼の母~」

◎悲しみへの愛着
 岡野宏文

kaat_hasegawa0a 私は子供の頃、たいした映画少年だった。生家の向こう三軒あたりに小さな映画館があって、日曜日になると、守をするのも邪魔くさかったのか、十円玉を三つほど握らされては、追い出されるようにして、スクリーンばかりが明滅する心地よい暗闇の中へ潜り込んだ。
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