劇団オルケーニ「ショックヘッド・ピーター」

1.よいこへの処方箋
  平林正男

 「黒い箱で色々なことができるびっくり箱」という元々のコンセプトに忠実に見直された(『東京芸術劇場リニューアルオープン特別号外』)のがシアターイーストのこのたびの改装だ。そのこけら落としとなる作品が今回の『ジャンク・オペラ ショックヘッド・ピーター』(劇団オルケーニ/ハンガリー)である。びっくり箱の意図を汲んで改装された劇場は、今回はやや傾斜のきつい客席の配置のためでもあるか、こぢんまりと感じた会場に入るとぴりっと凝縮された空気を感じた。ブラックボックスの空間の中で、どんなものが始まるのかと開演までの時間が待ち遠しく思われた。

 開幕したびっくり箱から飛び出す役者たちはみな色鮮やかな衣装を身にまとい、独特なメイクを施した12人。ピアノ・アコーディオン・ドラム・アコースティックベースの4名の生演奏と呼吸を合わせながらの100分間だった。

 子どもたちの興味を引きつける仕掛けがあちこちに設えられている。まず「よいこのえほん」と強調されている副題がこじゃれている。「よいこ」が読む(観る)ものかと思いきや、えほんである舞台に出て来る子どもたちはみなとても「よいこ」と言えるものではなく、筋金入りの「わるいこ」ばかり。お話もやんわりと〈よい〉行いを教唆されるようなものではなく、むしろ反道徳的な例がいくつも挙げられており、すこぶる破壊的だ。

 引き割りの緞帳の向こうからロボズ先生がすっと現れる幕開きが、これから始まる物語への興味をそそる。幕の向こうには何があるんだろう、そんな思いが湧いたところで勢揃いする「わるいこ」8人が緞帳の下から顔だけのぞかせる。うつぶせで顔だけを上げ、フットライトに下から照らされる顔が不気味で、しでかした出来事をこれから問い詰められる罪人を思わせる。しかしその表情はあどけなく、瞼をぱちくりさせながら観客席をのぞき込む姿はどことなく可愛らしい。

 そして出てくる「わるいこ」は子どもたちの憧れのキャラクターだらけ。だらしなさ天下一の「もじゃもじゃペーター」、スープが大嫌いな「アウグスタ」、いつも上の空の「夢見がちなジョニー」、乱暴者の「いじわるなフレデリック」、火遊びを始めた「ハリエット」、指しゃぶりをやめない赤ちゃん「コンラッド」、近所の人をからかって笑う「いじわる3人組」、ディナーの席で座っていられない「落ち着きのないフィリップ」、大嵐に浮かれて家を出てつむじ風にさらわれる「空とぶロバート」と、親や先生に叱られるようなことばかりやっているような子どもたちばかり。けれど見方を変えれば大人たちの制止を振り切って自由に生きる魅力的な悪童だらけだとも言えるだろう。

 仕事で〈芸術鑑賞教室〉の演目の選定に携わることがある。学校などの場で強制的に子どもに見せる鑑賞教室での演目選びにあたっては、いわゆる教育的配慮を尊重して暴力や性の表現についてはたいへん過敏になる。実際に家庭内暴力を間近に感じてる子どもが見たらどう思うか、離婚した家庭の子どもへの配慮が必要なのではないか、などなど様々を慮り、結果としていわば当たり障りのない作品を選ぶこととなりがちである。

 この『ショックヘッド・ペーター』はこのような配慮が行われる鑑賞教室では選ばれることが難しい作品だろう。この作品は表現を規制することよりもむしろあえて暴力的で刺激的な表し方をする。指が10本無くなり血まみれになる赤ちゃん、頭の皮が剥がされる悪戯小僧など、フライヤーに注意書きがあったとおり、「過激な表現の場面」がいくつもある作品だ。ただ、この過激な場面はみなメイクや衣装や所作によって戯画化されていて、「お話」であることのわかる子どもたちには、単に過激な表現として拒否されるものではなく、心に染みこみ印象深く残るものとなるのではないだろうか。

 しつけの厳しい親が言うことを聞かない子どもの手足をもぎ取り投げ捨てる、という場面が劇中にある。実際に「もぎ取られる」という有形力を行使される子どもはまずいないだろうが、心理的には親から厳しく叱られた時、身体の一部をもぎ取られるような感覚を味わう子どもは多くいるだろう。そのような痛みを伴う心の場面を、現実とは違う戯画化された形で見ることによって昇華させる、そんな演劇の仕掛けを目の当たりにすることのできるのがこの作品なのだろう。

 「お話」であることの分かる子どもたちは、こんな暴力的な仕掛けを存分に楽しむ。一方、「子どもに見せるべき作品」を選ぶ側の大人は、その仕掛けを子どもたちが理解できることが信じられずに、物語の仕掛けそのものを見せようとしない。物語は隠蔽され、自主規制される。これは見方を変えれば、劇の力のもつ強大さを大人たちが分かっていることの証左にほかならない。

 テレビや映画などの暴力表現が実際的な暴力行為を引き出すきっかけとなっている、と言われることがあった。その真偽のほどはよくわからない。ただ、舞台上で、実際に激しい痛みを負わせる行為が生身の役者になされることがあるだろうか。 演劇の場で暴力行為が表現として継続的に行われることは想定しにくい。テレビや映画などの映像表現に比すれば、より〈安全〉に暴力行為のありようについてを考えさせられる仕掛けが演劇なのかもしれない。

 暴力表現と表記すると抵抗が生まれるが、アクションドラマや活劇をワクワクと楽しむ気持ちは大人も子どもも持っている。「えほん」という仕掛けのもとで繰り広げられる、子どものしつけについての活劇がこの作品なのだ。暴力行為と表記すればすなわち悪いこととして排斥されるが、正義を担う暴力行為は一転してヒーローものとして歓迎されてしまう。正義を振りかざした時代劇が一頃より見られなくなってきているが、アクションドラマや冒険活劇を子どもとともに楽しめるような気持ちのゆとりを大人たち(芸術鑑賞教室の選定者たち)が持てるようになるとよいのだけれど。

 副題「よいこのえほん」の「よいこ」とは、大人から見た「よいこ」のように思わせておいて、じつは悪いことを楽しみたい、ふだん「よいこ」を演じている子どもたちのことを指すのかもしれない。そんな今の「よいこ」、かつての「よいこ」たちのための絵本がこの『ショックヘッド・ピーター』なのだろう。劇薬としての劇の持つ力を改めて思わされた「泣く子もよろこぶ」作品だった。

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