柿喰う客「無差別」

6.切実でなさげな切実さ
  大泉尚子

「背にすばやく棒を隠して犬殺しはなにげなく近づいて来、…さっと棒を振りおろし、犬は高く啼いて倒れた…腰の革帯から抜きとった広い包丁を犬の喉にさしこみ、バケツへ血を流し出してから、あざやかな手なみで皮を剥ぎとる」
「まっ白く皮を剥がれた、こぢんまりしてつつましい犬の死体を僕は揃えた後足を持ちあげて囲いの外へ出て行く。犬は暖かい匂いをたて、犬の筋肉は僕の掌の中で、飛び込み台の上の水泳選手のそれのように勢いよく収縮した」
大江健三郎『奇妙な仕事』(※1)より

♪犬かと思えば今度は猫だ 因果な皮はぎ 南無八幡
 俺の長屋は 猫やしき 八軒長屋のそのすみに 住んでるものは 俺ばかり
 俺のにおいにたまりかね 月のない夜に 夜逃げした
唐十郎「犬殺しの唄」(※2)より

 『無差別』の主人公の家業は“犬殺し”。そのセリフを聞いた時、学生である「僕」が犬を殺す仕事を手伝うこの小説と、そのものズバリのタイトルのこの歌を思い出した。でも全然違う。引用部分だけからでも立ち上ってくる生々しい臭いや体温は舞台からは感じられないし、血や死骸から想起される禍々しさのかけらもない。そして、これっぽっちもやさぐれてなどいない。
 民話や伝奇ロマン的なテイストを堪えつつ、アップテンポな音楽とスタイリッシュなダンス、リズミカルな語りをも織り交ぜて、すべてはサクサクと実に滑らかに進行する。躍動感溢れる劇画、あるいはかなり手の込んだゲームを見るようでもあった。

 とある村に、犬を殺して肉を売るのを生業とする血筋に生まれた兄妹がいる。族谷狗吉(やからやいぬきち)と狗子(いぬこ)(※3)。村人は滋養のある赤犬の肉を好むが、彼らを犬殺しと蔑み、穢れている、仏罰が当たると村八分に扱う。狗吉は、妹を自分の稼ぎで育て、穢れることのないようにと仏像を彫らせている。時は戦争の最中であるらしい。

 村には長い歳月を経て大木となった楠があり、天神様と呼ばれるランクの高い神によって山の神にとりたてられていた。そんな時、モグラの一族には手のない娘が生まれ、もともと目が見えない上に「手無しの片輪」では生きられまいと、山の神への生贄に捧げられそうになる。だがこの雌モグラ、黙っておめおめと殺されるようなタマではない。木の根方に閉じ込められるが死にたくない一心で一計を案じ、言い寄る雄たちに、交わるごとに穴を広げてと頼む。情欲がらみの一掘りがやがて大穴となり、ついには大楠を倒してしまう。
 一方、楠の大枝を切り取ってきたら人と認めてやると村人から言われた狗吉は、それに乗じて目的を果たし、念願の兵士となって戦地に赴く。
 モグラの娘は楠にとって替わって山の神に任じられ、日不見(ヒミズ)姫と名乗る。倒れた大楠は、さらに天神に雷を落とされてキノコが生え放題、恨みを募らせていった。

 さて、残された狗子は、兄が殺した赤犬の胎児で一匹だけ生き残った子犬を人之子(ひとのこ)と名付けてかわいがっている。日不見姫が、これまでになかったような神楽の舞い方を探し求めようとする時、この人之子が使いとなって旅に出ることになった。そして、目が不自由な舞の名手・真徳丸を見出して連れ帰ると、日不見姫は真徳丸を自分だけのものにしようと囲い込む。

 そんな折、恨み骨髄の大楠の祟りか、空から巨大なキノコと黒い雨が降り、狗子はそれを浴びてひどい痕を負ってしまう。「穢れぬままに穢れた」狗子。その未曾有の天変地異に、姫は神からモグラに戻り、人々は神仏よりキノコを恐れるようになる。戦地から戻った犬吉はその様子を見て、世に何の理もないのだからと狗子と交わり、自ら神々となって新しい国を産むと宣言するのだった。古事記のイザナギ・イザナミの国産みさながらに―。

 舞台には、高々と立つポールを中心として、放射線状に据えられた高さの異なる高鉄棒のような装置。役者たちはひょいひょいとそこに上り、驚くべき自在さで演ずるのだが、その位置の高低が、身分や地位を表しているようでもある。また舞台全体を見ると、演技が行われるのは中央の丸い“島”のようなスペース。その周りを取り巻く一段低くなっている部分には、かなりの数の照明器具が裏返しにして置かれていた。衣装は、シャツとパンツありワンピースありスーツありとそれぞれなのだが、色は全員黒だ。

 ある公演日のポスト・パフォーマンス・トークで、作・演出の中屋敷法仁は、これはお神楽のように神に奉納される類の芝居で、衣装の色を黒に統一したのもそのためだと語ったという。なるほど~、舞台の”島”は神楽舞台であり、その周りの空間は俗世との隔たりを示す結界かぁ…。土俵にも似ていたけど、いうまでもなく相撲はもともと神事であり、土俵も神聖な場所として女人禁制論議を呼んだりもする。
 セリフの語呂・語調のよさはこの劇団の特徴のひとつだが、ラストにキャストを読み上げるというのは珍しく、もしかしたら祝詞的なものなのか。ダイナミックな身振りと合わせて、斬新な様式美を目指し新しい奉納芝居の形式を作るという試みだったのかもしれない。
 体臭や体温が皆無だと感じられたのもそのせいだろうか? 確かに神様の前にあんまり生臭いものは持ち出せない気がする。でも、神は死んじゃったんじゃあなかったっけ? 人が身内とつがってでも神になり代わるのじゃあ?…これは神なき時代の奉納芝居というパラドックスなのだろうか?

 考えるうち、こんな文章に出会った。

「展開の軸となるのは、境界線だろう。村人とイヌキチのあいだにあった人間/非人という境界線は、イヌコとヒトノコ(イヌ)のあいだにある非人/畜生へとずれ、畜生のあいだにも手のあるモグラ/手のないモグラという区別が生じる。ただし手のないモグラはヒミズ姫という神になる。虐げられてきたものが、虐げるものを超えた存在になる瞬間。差別する/差別されるという関係が決して一方的で固定的ではないことを、何度も何度も反復的に提示する。登場する神も、西洋的一神教の神ではなく、東洋的なアニミズムの神であり、クスノキからモグラ、そして最後にはキノコ(核の科学)へと変化する。」
「帰宅王子の感激日記」(http://d.hatena.ne.jp/kitakuohji/20120914/1347926993)より

 端的な指摘だと思う。そう、ここでは犬殺しという家業、被差別部落、身体の障碍、被爆などにかかわるさまざまな差別が取り上げられる。それは時に応じて逆転することもあり得、その構造もさらには神々の姿も、するりするりと横滑りしていくようだ。ひとつの差別が楔のように打ち込まれることはなく、言い換えれば差別を「無差別」に取り上げているともいえるだろう。それぞれの差別や神すらもが、まるでゲームのモチーフやキャラクターのようにお手軽に扱われている気もしないではない。

 ストーリーにも、少し引っ掛かるところがある。語り口やネーミングから昔話という設定かと見始めると、途中のセリフで時は太平洋戦争中と判明し「エッ?」と疑問符が浮かぶ。
 その辺は瑣末なことかもしれないが、“キノコ”についてはかなり気になる。空から降る巨大なキノコは、誰しも原爆の直喩的表現と思うだろうけれど、それは大楠の怨念が積もりに積もったもの、つまりは祟り・因果応報とされている。原爆といえば、今の日本人なら否応なく原発事故を連想してしまうのだが、いずれにしろ祟りとの組合せには、何とも違和感が残る。いかに寓話仕立てとはいうものの…である。原爆投下や原発事故には、歴史的経緯の中で、複雑に絡み合っているとはいえそれぞれに原因があり、多くの人が今そのことを反芻的に考え直そうとしているのだから。

 こんなふうに、言いたいことはいくつも出てくる。だがそれは、作者である中屋敷の想定外なのだろうか。
 私が観劇した日のトーク。こういう重く難しいテーマを選んだわけを聞かれてこんなふうに答えていた。高校演劇時代から賞をもらい、20歳で劇団を作り、28歳のこれまで反吐が出るくらいのヒットメーカーだった。笑えてちょっと泣けるものの作り方はよくわかっているが、今回はそうではないものを、ここでのみ語れる言葉を使い、自分が自分を苦しめる公演を打ちたかった。自分が二十代のうちにやらないといけないと考えたし、今や、こういった演劇が少なくなったこともあるから、と。
 ああ、この人“確信犯”なんだなぁと思う(昨年の新春公演は、同じ東京芸術劇場での「愉快犯」だったけど…)。この手の内容を扱えば、見る人によっては突っ込みどころ満載である。でも敢えて、エンタメ力全開でもある柿っぽさをも引っ提げて、それに挑んだのだろう。

 最初の引用に話を戻すと、「奇妙な仕事」には、プロ意識を持って着々と仕事をこなす“犬殺し”の男が出てくるのだが、その描写や存在感は衝撃的だった。「犬殺しの唄」では“犬殺し”に仮託して、世間に身の置き所のない心情を、コミカルかつ自嘲的に歌っている。これらは、その時点で有効な表現だったと思う。「無差別」には、かつて時代の緊張感の中から必然的に生まれたそんな生々しさや虚無感・荒廃感はない。
 だが昨今、鋭い刃のような差別感はやや息を潜めているのかもしれないけれど、差別そのものがなくなったかというと、そうではないだろう。目には見えにくいけれど柔らかくて粘着性のあるものに姿を変え、皮膜となって人々を覆い、知らず知らずのうちに息を苦しくさせる。あたかも放射能のごとく…。
 それと連動するかのような今作に感じられるのは、いわば切実な切実でなさ=切実でないという切実さである。全面的にシンパシーを抱けるかと問われれば、う~ん…と考え込みたくなるけれど、若い世代の空気感とのマッチングからしても目は離せない。加えて、仕組まれた確信犯的な多重性が目と耳と脳を刺激し、充分に楽しませてもくれる。

 帰りにロビーに立ち寄ると、DVDやTシャツなどのオリジナルグッズはもとより、キラキラしたラメ入りの男物・女物の服の販売もしている。過去作品の衣装の展示販売だったようだ。パンフレットは1000円とけっこう高価だが、アイドルやヴィジュアル系の写真集かと見紛うもので、ファンらしきお客が買い求めている姿もあった。そんな様子に、本番ではブラックスーツでキメキメだった中屋敷が、トークではジャージ姿で、お気に入りらしいクタッとしたピンクパンサーのぬいぐるみを抱えて現れた姿と合わせて、この劇団の独自の立ち位置としたたかともしなやかともいえる戦略を見せられた気がした。

(※1)「奇妙な仕事」は1957年『東京大学新聞』に掲載され、58年『死者の奢り』(文藝春秋)、74年『見るまえに跳べ』(新潮文庫)所収
(※2)「犬殺しの唄」は状況劇場の劇中歌で、いつ頃から歌われ始めたのかはわからないが、73年後楽園ホールでのリサイタルの実況録音盤に収められている。また83年、日本民間放送連盟(民放連)が出した要注意歌謡曲(放送禁止歌)一覧に入っている
(※3)役名の漢字と読み方は、柿喰う客「無差別」PV(http://www.hephall.com/20784/)による

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