劇団、本谷有希子 「遭難、」

1.あえて拭わない「ズレ」
  舘 巴絵

 本谷有希子の造る作品には、「違和感」が常に付きまとう。それを「何かがおかしい」と感じながらも、それが心地よい人もいれば、「違和」を「感」じたまま、消化できずに排出できない人もいるのだろう。ただ、勝手な推測だけれど、そんな違和感をそのままのみこんで排出できない人こそ、本谷有希子という人にとっては愛しいのではないだろうか。ちゃんとしていなくたっていいじゃない。だめなものはだめなの。と、いうラブリーな奔放さがない作品を本谷は作らないだろう。遭難、も例にもれず、「チャーミング」という枠をキャラクター達が踏み外していくさまがたまらなく可愛い。

 自殺未遂を起こした生徒の母親(片桐はいり)が、原因はおまえじゃないかと担任(美波)の元に訪れ、いびっているシーンから始まる。母親は息子から自殺未遂前に担任に手紙が届いたはず、と詰め寄るのだが、担任は泣いて否定する。実は本当に手紙をもらったのは担任を慰めていた女教師(菅原永二)の方だということが、同僚の教師(佐津川愛美)にだけバレていた、というところから物語は動いていく。

 人格者と慕われてきて、それを繕えていたと思っていた女教師が、同僚の女教師に弱味を握られた途端、「サイテー」な裏面をのぞかせる。「もー、ムカツクわ、あの女。死ねばいいのに。」という、言葉が響いた瞬間の、化けの皮がはがれる瞬間の爽快さといったら、切実な、「みっともなさ」を目の当たりにさせてくれた。その瞬間、「あ、今、チャーミングの枠から出たな。」という感覚に気付く。

 その女教師が菅原永二という「男優」が紛していることも切実さと無関係ではないだろう。唇をワナワナと震わせて怒りと焦りと戦う表情は、この物語が、血が通った闘いであることを示してくれる、鬼気迫るものを感じた。ここの瞬間は「かわいい」という響きとは無縁で、あれ、今までのラブリーさはどこだ?と、私の中でズレが起きた。そこであっ、と気付いた。これこそが本谷作品で私がもっとも本谷らしさだと思う、「ズレ」なのだ、と。まさかこの人はこんな一面持ってないだろう、と思わせるギャップが起こすズレだ。例えば、強面のおじさんが実はとても人懐こい笑顔を持っていて、それに思わずドキッとしたり、上品そうな女の人に舌打ちされてビビったり、日常の中での予想外な人間の一面を見てしまったとき、その時は驚いたり、何それ、となるけれども、そうだよね、人間てそんな面もあるよね、という一見違和感があるのに、心には馴染みがよいので「かわいいところもあるんだね、」だとか、「こんな怖い人だったんだ」と、受け入れることができる。「女装」という、限りなく纏いつく違和感を、菅原永二はきっちりと身に着け、淑女の装いのまま、闊歩する。いつのまにか、観客も、これが女装だということを「忘れる」のではなく、知らず知らずのうちに「ズレ」を受け入れているから恐るべし、なのだ。

 「いじめ」や「自殺」、「トラウマ」というモチーフがところどころで当たり前に使われてしまっている今日、この遭難、のストーリーで扱われる「自殺」も「トラウマ」も新しいものでは全くない。喜劇の一端も担っている。でもだからこそ、誰にも笑われたくない人の持つ傷を、私達観客は、今笑っているのだ、という自覚を持って観ていた。誰しもトラウマには、「原因」があるからこそ、トラウマになった、という「結果」がある。「心を開かなくちゃ開いてもらえないよ。」「あなた、本当に死ぬつもりなんかなかったんでしょう。」と、相談された大人が使う常套句のようだが、学生時代に同級生と馴染めなかったり、人間関係の形成がうまくいかないなど、ちょっとしたことであったとしても死を選びたくなる瞬間があるのは珍しいことではない。自分を認めてもらえないコンプレックスの強い時期には、痛く突き刺さる言葉だ。勇気を持って打ち明けたにも関わらずそのような扱いを受け、自分自身を否定されたと思い込んでしまったら、その言葉を放った大人を絶対に許すことはできないし、忘れることはできない。女教師がそうであったように、「理由」を掲げ、その時つけられた心の傷を自分の人格形成を乱した「原因」として、隠しながらも、心の中で振りかざして生きてしまう。このような人間になったのは「自分のせいではない」と、納得させながら生きてしまう。「二階から飛び降りた、なんてそもそも死ぬ気なんかなかったんじゃないですか!」という言葉にはとどめを刺された。二階からだって飛び降りるのは勇気がいることじゃないんだろうか。立派な自殺未遂だ。これにも自殺への認識のズレを感じたが、2階から飛び降りるなんてことが自殺なんて笑わせる!という人から見れば私がズレているわけだ。

 このように引きずった問題を抱えた女性が主人公なのにもかかわらず、この作品はコミカルさを失うことなく、かつ、不敵な笑みを交えた、クライマックスへと進んでいく。松井周、片桐はいりといった、脳天気さと深刻さの扱いが秀逸な俳優達が作る、グルーヴ感さえ感じさせる奇妙さが(この二人の表情は是非前方の席でまじまじと見てほしい)、スッと体に馴染んで心地よいものだった。

 私は今回、2回公演を観た。1回目ではズレは感じても、それを自分の中で噛み砕けなかったからだ。それは席も関係しているかもしれない。最初に観た時、私は1番後ろの席だった。手元に光はまず、ない、という程、舞台とは遠く、暗い。それもあってか、一回目を観終った時、女教師の「トラウマ」という部分にやたら目が行ってしまい、この女教師は救われない遭難者だ、という感想を持った。もう一回観てみようと当日券に並んだら、二回目はなんと一番前の席。その舞台と近距離で、表情をよく見るうちに、ようやっと女教師の「トラウマ」な部分をキャラクターとしてとらえることができたのだ。だから「こんなに誰も救われないものなんて二度も見たくない」と思った人こそもう一回観てほしい。二回目で、この遭難は困難でも、迷宮ではない。山を降りることは可能だ、と感じた。ズレを持ってたっていい、人間だもの、という風に前向きに肯定したくなった。

 当たり前に、人は頑張っても立派になれない。努力で変われる人はいるけれど、根っこの部分に住んでるダメな人間、の部分は、治す必要はなくって、時に人をキュートに演出してくれることだってあるものだ。立派な人なんて描かないよ、という本谷の姿勢に、「可愛い。」とこれから先も言い続けようと誓う。
(2012年10月10日、17日いずれも19:00の回観劇)

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