東京芸術劇場「ポリグラフ~嘘発見器~」

7.ソノホント、ホント?(中村直樹)

 「ポリグラフ」とは嘘発見器である。被験者の心拍数などの変化を調べることによって、被験者が嘘をついているかどうかを知ることができる。この装置の前では「ホント」のみが浮かび上がると言われている。

 開演を座席に座って待っていると、舞台上に太田緑ロランスが現れた。そしてなにかフランス語で話しだした。
「ケイタイデンワヲ、オキリクダサイ」
そのようなメッセージを言っていると分かると、客席から笑い声が漏れてくる。そして吹越満と森山開次も舞台上に現れた。
「お客さん、この舞台の一番面白いところを見逃しましたね」
吹越満は場内スタッフに導かれてやってくるお客にこう話しかけた。ふたたび客席から笑い声があげる。
「全編フランス語でやろうとしたら、東京芸術劇場のスタッフにやめてくれと言われて。僕と森山くんも助かりましたけど」
またもや客席からどっと笑い声があがる。吹越満の軽妙な語り口に観客はどんどんリラックスしていく。
「それでは、はじめます」
吹越満がこう宣言し、演目が始まる

 カナダのケベックシティのある部屋でマリ=クロード・レガレ(太田緑ロランス)が殺された。酸素を含んだ血が心臓に逆流して流れ込んでいる。それはあり得ないことだ。ベルリンでは東西を分断する壁があった。西から東への流れは存在しているが、崩れ去ることにより、東から西への流れが生まれている。本来ではあり得ないことだ。

 それから数年が経った。しかしマリ=クロード・レガレを殺した犯人は未だに捕まっていない。

 男(森山開次)は舞台中央に立っている。そしてもう一人の男(吹越満)はカメラを構え、写真を撮る。そうすると舞台上に存在しないマリ=クロード・レガレの惨殺死体の一部分が白い壁に映し出される。その前を白いローブを着たマリ=クロード・レガレが現れた。そのローブにはkeep outの黄色いテープが映し出された。マリ=クロード・レガレが軽やかに舞台を上手から下手へ渡っていくと、黄色いテープが舞台上に張り巡らされている印象を観客に与えるのだ。その印象は彼女が居なくなった後でも頭に残り続ける。その場所で殺人が行われたことを認識させている。
マリ=クロード・レガレが再び現れ、白いローブを脱ぎ捨てた。白い肌が晒され、その肌に映像が投影されていく。まずは筋肉繊維が、そして骨格が白い肌が投影される。それが生から死へと向かうものを表現しているようでとても面白い。

 フランソワ(森山開次)はレストランでウェイターをしている。一つ一つの動作や台詞が次の動作や台詞にどんどんと繋がっていき、ちゃかちゃかとスピーディーに動いている。ウェイターの一日を早送りしているようだ。そこに黒い服を着た女、ルーシー(太田緑ロランス)が現れる。彼女は彼の隣人だ。彼女は代役で黒い服を着てハムレットを演じていた話を彼としている。そして彼女のセリフからデイビッドという第三者がいることが語られる。デイビッドはルーシーの恋人で、フランソワとルーシーの間を訝しんでいるということだ。それに対し、フランソワはそんなことはあり得ないというのである。

 フランソワは椅子に座る。その横に男(吹越満)が立っている。脇に立つ男の質問に一つ一つの応えて行く。質問が終わる頃、男はしゃがみ込んで舞台の小さな隙間からするっと消えてしまった。そしてライトが点灯し、次のシーンへと進んでしまう。一瞬の出来事に本当にそこに男はいたのかという印象を与える。

 ルーシーは映画のヒロイン役のオーディションを受けている。自分の役者歴を聞かれると「嘘泣き」、「死んだふり」という子供時代のものを語り、「嘘つき」だから役者をやっていると言う。そして、映画監督から追い詰められた恐怖を演じてくれと指示される。ルーシーは恐怖に怯え出す。それは真に迫り、本当の恐怖に取り憑かれているのではないかと思うほどだ。そこに男(吹越満)が現れる。列車事故を目の当たりにしたルーシーを宥め、彼女を家まで送り届ける。その男がデイビッドである。

 シーンとシーンがぶつ切りである。そしてシーン同士の繋がりも曖昧だ。そのためシーンの行間を観客が補完する。シーンAとシーンBの繋がりからシーンCの行間を想像するのだ。しかし、そのシーンCがシーンDと繋がる時、シーンCで想像した行間は覆されてしまう。前後関係なく現れるシーンのパッチワークはとても刺激的だ。そのうえプロジェクションマッピングによる視覚的な仕掛けや現実離れした役者の動きによって表現されるものはとても映像的なのである。現実感がまったく感じられない。

 酒を飲んで髪を振り乱した男(森山開次)は、SMクラブへなだれ込む。鎖で鞭打たれる姿は悦楽というよりは贖罪のようで痛々しい。何かから逃げようとしているようである。

 ルーシーとデイビットはフランソワの働く店で食事を取る。ケベック人であるルーシーと東ドイツ人であるデイビットは育った文化が違うため、スマートに物事が進められない。

 帰り道、デイビットはルーシーにフランソワがマリ=クロード・レガレの死体の第一発見者であったことを告げる。ルーシーは自分の友達が巻き込まれた事件を元にした映画に出演していることを知り、驚愕する。さらにデイビットはフランソワのポリグラフテストを担当したこと、そしてこのようなことを告げる。
「彼は無実であることは明白だが、犯人が見つかっていないので、その事実を伝えていない」

 「ポリグラフ」とは嘘発見器である。被験者の心拍数などの変化を調べることによって、被験者が嘘をついているかどうかを知ることができる。しかし被験者が嘘をついているかを決めているのはポリグラフを扱う人間なのだ。もしその人間が嘘をついているとしたら、果たして何が本当なのだろうか?

 フランソワは潔白であると信じて疑わなかったが、ポリグラフテストの結果は白だと伝えられなかった。そのため彼は自身が潔白であることを疑い始める。その結果、彼は殺人犯である自分を探し始めてしまった。犯人像に合うような退廃的な行動に出るのである。麻薬を吸うシーンがあり、SMであり、鎖で首を締めながら行うマゾヒスティックな自慰行為に繋がっているのだろう。

 青く照らされた舞台の中で、森山開次、太田緑ロランス、吹越満は裸で登場する。彼らは影をまとって今までのシーンやこれからのシーンを繰り返す。森山開次はフランソワを演じている。吹越満もデイビットを演じている。他の男と思われるようなシーンでも、森山開次はフランソワであり、吹越満はデイビットである。しかし太田緑ロランスは、ルーシーを演じているのだろうか、マリ=クロード・レガレを演じているのだろうか。

 ルーシーから本当なことを伝えられたフランソワは自分自身を失ってしまった。何を拠り所にしていいのか分からなくなってしまった。ルーシーも映画の撮影をボイコットして、フランソワと一緒に籠っている。フランソワを労わるために寝てしまったルーシーに対してデイビットは何も反応することができない。マリ=クロード・レガレは道化のように三人の人生を引っ掻き回す。

 フランソワは駅のホームから身を投げるような仕草をするのである。姿勢を変えずに、ストップモーションのようにゆっくり、ゆっくりと傾いていく。その姿も映像的でとても綺麗だ。フランソワを演じるには身体能力をものすごく問われる。

 黒い服を着たルーシーはドクロを抱えてハムレットの墓のシーンを演じる。このドクロはマリ=クロード・レガレなのか、フランソワのものなのか。

 「終わりです」
吹越満のこの宣言によって演目は終了する。吹越満、森山開次、太田緑ロランスは舞台に立って挨拶する。フランソワ、ルーシー、デイビッドはすでに存在しないのだ。舞台上の出来事なんてまるでなかったように劇場内は日常に立ち返っている。

 私はなぜかぐったりしていた。そしてびっくりするほど印象が残っていない。「ポリグラフ」とはなんだったのか。シーン毎の印象は残っているのに、全体として考えると「?」としか言えないのである。シーンとシーンを思い出していると、なんとラストのフランソワがホームから飛び込むシーンが中盤のルーシーとデイヴィットが初めて出会うシーンと繋がってしまった。それによりシーンとシーンがメビウスの輪のようにつながしまった。完全に惑わされてしまったのだ。その印象は「ポリグラフ」を観劇することで積み上げていた私なりの真実を打ち壊すには十分だった。

 なので、新聞に載っている劇評を少し読んでみた。しかしそこに書かれているのは映像的な事実のみ。私が知りたい真実は一切語られていなかった。そして、いろんな人の評を聞いてみた。そこには私とは違う真実があった。

 「フランソワはゲイである」という人がいる。
冒頭のフランソワの「そんなことはあり得ない」という台詞からそう判断したのだろう。しかし、これは殺人犯かもしれないと思い込んでいるフランソワが過ちを起こさない為に踏みとどまっているからかもしれない。

 「デイビットが真犯人である」という人がいる。
デイビットとルーシーの会話の中で、撮影中の映画の結末で真犯人が警察官であることが語られる。デイビットはそれに対して「よくある話だ」というのである。もしデイビットがマリ=クロード・レガレを殺した犯人ならなら、一夜を明かしたデイビットと白いローブを着たルーシーのシーンはデイビットとマリ=クロード・レガレのシーンなのかもしれない。

 新たな可能性は新たな矛盾を生み出す。そして矛盾から生まれた新たな可能性は新たな矛盾をまたもや生み出していく。私はさらに混乱することになってしまった。フランソワのように真実を見失い、フランソワのように真実を求める羽目に陥っている。

 私たちはルパージュによって「ポリグラフ」を受けさせられていたのではないだろうか。

 体験していないことを見聞きした時、私たちは自分たちの体験から真実を導き出す。しかし私たちの体験は一人一人違う。だから導き出された真実は当然異なる。世の中の真実は人々の最大公約数でしかないのだ。自分の真実を「ウソ」と突きつけられた時、フランソワと同じように真実を見失う可能性を誰もが持っている。そして自分に嘘を「ホント」と突きつけられた時、フランソワが殺人を犯した事を受け入れようとしたように嘘を真実として受け入れる可能性を誰もが持っている。

 世の中に「ホント」は本当に存在するのだろうか
 世の中は「ウソ」で溢れているだけなのだろうか
 そもそも「ホント」も「ウソ」もないのだろうか

 この問いこそが、私が「ポリグラフ」という演目から導き出した唯一の真実である。

 「ポリグラフ」とは嘘発見器である。その演目を見ることで観客はいろいろな真実を思い浮かべる。しかしそれらは曖昧で、すぐに覆されてしまう。最後には観客自身の真実すらも見失う。この演目の前では「ホント」の脆さが浮かび上がてくると思われる。
(2012年12月22日 ソワレ)

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