東京芸術劇場「ポリグラフ~嘘発見器~」

9.嘘を発見できない「嘘発見器」(でんない いっこう)

 すう~っと光がはいって舞台装置が目に入る。中心位に幅50㎝程に見える細い本立て
風のものが前面を仕切っている。生活を表すもの。(後によじ登る壁にもなる。本立ての左戸が開けば男の部屋の入り口となり、右戸が開けば女の部屋の入り口・通路ともなる)
 他に仕切り板風が2枚、出入り口を3つにしたのかなと思っていると、太田緑ロランスが出てきてフランス語のような……あれれ、何だろう、と、純日本語が入って、劇場の注意アナウンスになる。うふふと和らいだところで、吹越満、森山開次と三人が並ぶ。吹越の地声ふうな声で、「これから始めます」となった。

 あっそうですかと了解したとたん、いつのまにか机と椅子が一つ、そこに森山がこしかけ、すばやい調子で場所設定の説明が入る。もうひとつの椅子は倒れた状態で在り、吹越がカメラを持ち、太田が床に横たわっている。殺人事件であることはカメラのシャツター音と写された血のついた女体が壁面に映像として出てくることでわかる。ことばと動作と映像とを一度に理解しようと一生懸命になるので引きつける導入部分は成功している。

 三人の男と女の出逢いがある。鉄道自殺に遭遇したルーシー(太田)を介抱するデイビッド(吹越)、そして恋愛関係になっていく二人。そのルーシーのアパートの隣人がフランソワ(森山)。三人の日常生活、過去などがめまぐるしく無言で表されていく。

 接客態度の良い気の付くウェイターのフランソワを森山が流れる曲線のような身体で表している。これは脚本の時からダンサー指定だったのかと思う程である。私が森山との初対面(?)は『スケリグ~肩甲骨は翼のなごり~』という演劇だった。“からだ”つて何と美しい芝居の表現なのだろうと注目していた。極限までの関節の動きをいつも試しているそうだ。
 又、ペン画のような絵を描いていて、血管や神経の末端までの流れのように見えておもしろい。その森山の身体だけでなく今回は髪型の変化、髪の流れをより計算し、すさまじさを増幅させているのも見ていてたのしい。

 ルーシーは女優をめざして地道に練習をし、公演している。そして映画に出演するアルバイトもしている。太田は出自からして目鼻立ちの整った美しい顔と肢体で、当然、男(デイビッド)が近づいていく自然の男女の流れを作り出している。その長身は実に美しい。吹越のキャストの決め手として森山と太田の必然性ははっきり分かっていい。

 カナダへ移住して犯罪学者として勤務するデイビッドは東ベルリンから親、妻子を棄て、
自分だけが壁を乗り越えて逃げることのできた男。この吹越の壁をよじ登る様は、すごい柔軟さでとても驚いた。フランソワの役も演じられると思った。
 三人の日常の場面の転換を三人のみで行う。パネルや机や椅子や床面をすべりやすく音の出ないような方法で、そしてなめらかなゆっくりとした動きで転換を意識させないようにしている。人を乗せた机と床材を持って動かすには相当な力もいるであろうに、二人の
身体性もすばらしいが、演出としても美しいと感じた。

 三人の出逢いは、フランソワがある女性殺人事件の被疑者として、嘘発見器にかけられた事のある人物で、又、その嘘発見器の操作人がデイビッドであった事から微妙にズレて行く。ルーシーの映画出演とその内容をデイビッドと話しているうちにフランソワとの関連も出てくるのである。<実は何の嫌疑もかけられてはいない。しかし、それはあえてフランソワには伝えていない>とデイビッドは言うのである。<意外とね、警察の人間が犯人だったりするんだよね>ともサラリと言う。

 嘘発見器という信頼に値すると思われている機械を一個の人間の恣意的な思惑で操作したら、かける方の優位とかけられる方の不安と立場の差が真実をゆがめてしまうのか。
 ≪殺ってない≫これは確実なことなのに、嘘発見器にかけられて、まるで疑惑があるような提示をうけると、その暗示の中に嵌まり込んでしまう人間の弱さ、<殺ってない> <殺ってない>と声高に言い続けることは難しいのだろうか、虚しさか。
 それともホモである事を知られたくないためか。麻薬をしていると自信を持てなくなるのか。自分の知らない自分が行動して、もしかしたら≪殺ってしまったのか≫と、迷路につき進んだのだろうか。

 生活の乱れの過程を森山の身体が表して行く。ホモっぷりはすごみがあつた。うめき声と髪の流れと指先。麻薬、酒、セックスと生活が乱れていく過程の科白のない身体だけの表現が“ことば”が無いのに“ことば”が聞こえてくるのである。そうか、そうか、そうだったのかと協調したくなる。この芝居の一番に印象に残る部分は、ひとつのことばに縛られたくない、ひとつのことばの一般的な意味合いに深く傷つきたくない、ことばにしたくない、=ことばとして出してしまいたくない= 静かな胸の内を身体が表現してそして目が認めていることのように思う。激しい動きだが“ことば”の無い静けさを。

 ルーシーはフランソワに嫌疑がないとわかってから、三角関係が生まれてくる。ルーシーの母性本能だろうか。この三人の日常を三人とも裸体で白黒のシルエツトのように光の当て具合で表していて、ひとりひとりのお尻の形が違っていて、すごく新鮮な方法だなあと思った。ここでも“ことば”は無い。

 そしてとうとうルーシーはフランソワに<嫌疑はかけられていないのよ>と伝えてしまう。しかし彼女に本当の事を知らされても、もう取り返しのつかない精神状態で、フランソワは確実に死ねる方法で鉄道の線路に飛び込んでいく。ここが森山のダンサーとしての醍醐味。目を瞠るスローモーション。いつ膝が床面に着くかと見ていたが、着かなかった。重力に抵抗する力は並大抵ではない。なんとすばらしいことか!!

 “ことば”のない身体表現。衣装はルーシーの生活感を肌色などで、あとは白、黒、赤と冴えた色彩でまとめてあるのがよかつた。又、最初の殺人事件や舞台上の人物に斜めの照明を当てて過去を表す方法も“ことば”でなく写しだされる映像で納得がいってしまうのも新鮮な演出方法だった。

 女を殺したのはデイビッドか。まつたく別の男か。
 芝居小屋の楽屋にルーシーを訪ねてくるデイビッドは、すでに次の標的にするつもりだったのではないか。

 壁はもう保つ事の出来ない三人の関係になってフランソワによって壊されていった。そして、東に行ってくると言うデイビッドは妻子と再会を果たし、一見平和な男を演じるだろう。たぶん、ルーシーは彼を告訴しないだろうから。
 そして、又、嘘発見器が使われてゆくのかもしれない。
(2012年12月20日(木)19:30観劇)

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