東京芸術劇場「マシーン日記」

08. 研ぎ澄まされた戯曲そのものが選び集めたキャスト(小泉うめ)

 2012年夏、シアターコクーンの客席で「ふくすけ」を観ながら考えていた。
「オクイシュージで『マシーン日記』が観たい!」
 歪んだ愛情を持って盲目の妻と暮らしている怪しい警備員の男「コオロギ」を演じる彼を観ながら、そんなことを想っていた。

 そして、2013年春、その思いが叶ったかのように、東京芸術劇場のリニューアルプログラムの中で、オクイシュージが歪んだ家族・ツジヨシ家の長男アキトシ演じる「マシーン日記」が実現した。それは奇跡というよりは、むしろ必然だったのかもしれない。

 「男らしく生きようとしているが、いつもどこかだらしなくて酷い男。けれどもその性根に優しさがあり、つい女性もその行いを許してしまうようなヤサ男」。
 実際の彼については存じ上げないが、少なくとも役柄でそういう役を演じさせると物凄くハマる。そして飛び抜けた存在感がある。
 昨年立ち上げた「国産第1号」の「ラブストーリー~don’t let me down」や、その前に出演した「プロペラ犬」の「ネガヒーロー」といった作品で演じてきた役柄にも通じるものを感じている。

 「ふくすけ」の「コオロギ」という役柄は初演、再演では両作品の作・演出の松尾スズキが演じていた役柄である。いわば、松尾の化身、その物語の中での松尾である。
 「ふくすけ」も「マシーン日記」も、再演のをくり返す中で極めて高い完成度に達している作品であると言えるだろう。今回そんな「マシーン日記」の再演に当たり、松尾は自分の化身役に再びオクイを指名した。
 両作品を書いた頃からの時間経過を考慮すれば、最も理想的な配役を検討しての結果であろう。いやひょっとすると、今のオクイは、当時の松尾以上に「その時の松尾」を体現できる存在だと松尾も考えているのかもしれない。
 演劇界における、このオクイの存在が、松尾も前回で完成したと語っている「マシーン日記」の12年ぶりの再演の原動力ではないだろうか。

「マシーン日記」は1996年、下北沢スズナリでの公演が初演されている。その好評を得て、1997年~1998年 国内ツアー公演が行われた。そして、松尾は1997年に「ファンキー! 宇宙は見える所までしかない」で第41回岸田國士戯曲賞を受賞している。
 私は、福岡のももちパレスで、この国内ツアー公演も観ている。北九州市出身、九州産業大学芸術学部卒業の彼にとって、この公演は凱旋公演のような勢いを感じさせるものであった。そしてその時、この物語と役者たちに完全に圧倒されたことは、今でも昨日のことのように鮮明に覚えている。

 またこの作品は、松尾が主宰する大人計画の作品ではない。片桐はいり主演のトム・プロジェクト公演のために書き下ろされたものである。そこで魅せた片桐の唯一無二の絶対的な存在感、圧倒的な表現力、それらが話題を呼び、再演を重ねて作品としての完成度を高めて来た。

 そのため、この舞台には、片桐はマスト・ピースである。彼女無くしては、本来成立しない作品である。これまで他の3人に関しては、再演の中で役者を入れ替えてきたが、ケイコだけは一貫して片桐が演じてきた。
 あんな女優は他にはいない。そんな背景の中で、今回片桐がついに降板するに当たり、白羽の矢が当たったのがナイロン100℃の峯村リエである。
 個人的には、もっと「峯村色の3号機」が観たかった。ナイロン100℃を中心とする彼女の舞台での活躍と表現を考えれば、もっともっと色々な引き出しを彼女は持っている。
 だが、峯村の演技は極めて戯曲と松尾の演出に忠実だった。だから、そこに「片桐の3号機」が見えた。予備知識なしに今回の「マシーン日記」を観た方も、「峯村リエは、片桐はいりに似ている」と感じたのではないだろうか。そういった意味では、今回の公演も充分に「マシーン日記」の世界を伝えることが出来るものだったと感じている。

 開演前、「Blue Velvet」のメロディが流れる。これから始まる物語について知識があったとしても、自然と穏やかな気持ちになってしまう旋律だ。だが同時にこの曲は、デヴィット・リンチの映画「Blue Velvet」も想い出させる。その作品の中で重要なカギとなり繰り返し流されたこの曲は、それを知る者には、どことなく焦燥や不安な感情も煽って来る。
 そして、激しいロックのビートが、その空気をつんざいて物語は始まる。女が慌ててブラジャーを着ける。男が握り飯を持って必死で逃げようとする。それを、別のもう一人の男が追い詰めていく。

 物語については、もう説明の必要はないかもしれない。それは極めて完成度の高い四人芝居である。
 アキトシ(オクイシュージ)は小さな町工場をせっせと営んでいる。だが、彼の精神は、極度のバイポーラーである。ひとたびアガってしまうと、もう家族も手をつけられない。、
 アキトシの弟ミチオ(少路勇介)は、ある女を強姦したことを契機に、アキトシから片足を鎖で繋がれて監禁されている。、
 その時、強姦された女サチコ(鈴木杏)は、現在、その責任を取ると言ったアキトシの嫁になっている。
 だが、アキトシは、その精神の不安定から、ミチオが自分の妻を強姦したのだと、現在はその順序を逆転させて記憶に刻んでいる。
 そんな工場に、サチコの元担任教師の女ケイコ(峯村リエ)が、パートとして採用されてやって来る。
 サチコは身長176cm(峯村は公表174cm)の大女で、それに高下駄を履いて現れる。舞台は既に奇妙な三人家族が怪しい世界を築いているが、ケイコはこの登場で舞台の空気を一気に自分に引き寄せる、そういう女でなければならない。
 そんなケイコがツジヨシ家にやって来たことにより、それまでなんとか維持されていた家族のバランスが揺らぎ、そして崩壊して行く。

 四人が四人とも、言わば社会不適合者である。彼らは、社会に受け入れられなかったのか、それとも、社会と交わることを拒絶したのだろうか。
 そんな社会の意識の外側にいた四人が、閉ざされた世界で接触することによって起こした化学反応が、ついに彼らの町へ引火して行く。

 初演の頃は、「全員が狂っている」という印象が強かった。そういう演出であったのか、私の観劇力がその程度だったのか、それは今となっては定かではない。
 だが、前回の公演でアキトシを松尾本人が演じたあたりから印象はかなり変わってきている。つまり、「これは松尾の中に在るアキトシを中心とする物語だ」という印象が強くなってきている。
 アキトシが舞台から姿を消している時間が、それを一層強く伝える演出になっている。他の三人も明らかに社会から逸脱した存在なのだが、彼らもアキトシは特別に異常な存在として恐れており、気付かれないように向精神薬を飲ませている。そして、なんとかアキトシから逃げ出す方法はないものかとチャンスを狙っている。
 そして、その後舞台に現れて、振り切れた精神不安定を魅せるオクイも、しっかりとそれに応えている。

 また、サチコについては、「この清純派の役者がここまでやるの」というくらいの裏切りのキャスティングが期待される。今回選ばれた鈴木は、既に数々の舞台で名演技を披露し続けているが、ここまで汚れた役柄に当たるのは、おそらく初めてだろう。「強姦された男の兄に、責任を取るから結婚しようと言われて、結婚してしまう女」、これも決して普通の感性ではない。役者の殻を破らせて、大きく成長させるきっかけになる役でもある。今後のますますの活躍に期待したい。

 鎖に繋がれているミチオは、本当は逃げようと思えば、逃げ出すチャンスはたくさんありそうである。だが、一応は兄アキトシに守られて、またその妻になったサチコが色々と世話をしてくれるその環境に、実は結構安住を感じているのかもしれない。
 有薗芳記が演じたころは、もっと人格の崩壊感が強かったが、再演の度にミチオの意外な思慮深さが見えるような演出になって来ており、今回の少路の演技でも更にそれが進んでいた。そして、それが前述の通り、アキトシの異常の存在を浮き上がらせていた。

 こんなとんでもない人たちいるのだろうかと考える。だが、いないとは言い切れない。いや、むしろこの社会のどこかにきっといるような気がする。初演の時から、そんなことを感じながらその舞台を眺めていた。
 そして、その思いは歳月を経て、再演を重ねても色褪せない。やはり、「ツジヨシ家のような人々は日本のどこかにきっといる」という思いが強まってくる。
 その存在は、ある時代の産物というよりは、常に、この日本の社会に内在していて、これからも在り続ける普遍的なものだと言えるだろう。この戯曲が描いているものは、そういうものであると考えている。

 そして今回の公演は、国内ツアーのあとパリでの上演が決まっている。このような人々は、フランスにもいるのだろうか。フランスの人々の目には、どのように映るのだろうか。
 「マシーン日記」」東京芸術劇場ヴァージョン、この日本の奇妙な家族が、初の海外でどのような反響を受けるのか、とても楽しみである。そして、その公演によりこの戯曲は更なる進化を遂げるのであろう。
 まだ決まっていない、パリからの凱旋公演をまた楽しみに待ちたいと思う。
(3月24日14:00の回 観劇)

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