ハイバイ「て」

9.説教:マーガレット・サッチャーに、岩井秀人を推薦する。(高橋英之)

 皆様…家族はありますか?
 家族は、どこにありますか?
 それはね、もう私にも分からない。これはね、こうしてお話させて頂いている私だけでなく、多くの社会学者たちにも分からない(注1)。そんな「家族」を素材にしたハイバイの作品『て』は、お聞きしたところによると、四度目の再演とのことですが、これは、もう名作ということですか? これはどれくらい名作ということですか?

 2009年に、私は初めて『て』を拝見しました。2度目の今回は、観劇の2日後に、北海道、それも小樽に出張したのです。これ、なんかワザとアレしてるんでしょうか? 小樽には、友人がおりまして、その友人の案内で、越中屋ホテルの前を通りました。作品の中で、井上菊枝さんのお家が経営していたというホテルは、小樽に実在していた。東北以北で初の鉄柱洋館ホテル、北海道初の外国人専用ホテルで、素泊まり1泊8円は当時の国鉄社員の初任給と同じ額であったと言われている超高級ホテル(注2)。かつてユリ・ゲラーが泊まったと言われている…あ、ヘレン・ケラーでしたか。そのホテルのことを、私の友人が…知っている。知っていた。これは、どういうことでしょうか?

 間違いなく言えることは、この作品に出てくる家族が極めて裕福であるということです。もちろん、舞台をご覧になった方には、明らかなことですが、この家族の家は敷地内に隣接する二つの住居からなっています。しかも、東京でも徒歩圏内に教会があるような地域です(注3)。そこで、認知症を患っている菊枝さんは、実の娘に介護してもらっています。介護労働の家族からの解放だの、社会化だのという議論とは無縁の環境です(注4)。そして、娘には、息子が2人、娘が2人もいる。大正時代に高等女学校を出ることができる家に生まれ(注5)、その地でとびきり繁盛していたホテル経営者の娘であった祖母。その孫たちは、余禄をうけてのお坊ちゃまとお嬢ちゃまであったといってもよいかもしれません。

 いえ、もちろん、オブロンスキー家は…あ、山田家でしたか(注6)。この家族は、崩壊しているといっていい。父親は、あるときから家にお金を入れていなかった。それでも、4人もの子供が無事に育っていったこと、そのことが、まさにこの家族の例外的な裕福さを象徴している。即ち、相互扶助機関としての「家族」、その「再分配」機能は見事に働いていた。「家族」が崩壊しているといっても、それは古典的な「再生産」の問題でも、「再配分」の機能の不全でもなく、ただ「承認」の調達困難に過ぎなかった…とりあえずは、そのように指摘してしまうことも可能かもしれません(注7)。

 舞台では、長女・よしこが、久しぶりに嫁ぎ先の静岡(注8)からこの実家に帰ってきます。家族全員で集まって、みんなでカラオケを歌おう。そのことによって、崩れていくものを形だけでも取り戻そうという努力をします。その密かなる暴力に、次女は純粋さという武器で抗ってみせ、この家族が内包する「承認」の危うさを表出します。一方、長女のそのような強引なやり方にニヒルな視点をもって接する太郎と、その諦観を冷たさとみなす凡庸なる存在である弟・次郎(注9)の間にも、緊張感ある対立がありました。兄弟は、ついさっきまで「おばあちゃん、父さん、ねえちゃん」とごく普通の家族の呼び名で呼んでいた人たちを、「この人、その人、あれ」と呼びだします。このような語法のもつ特殊なパワーについては、舞台の上でも、こっそりと葬儀屋が説明をしてくれていましたね。

 「その人ってあの人のこと決めちゃったら、あの人は俺たちにとって、「その人」になっちゃうんだよ。」

 そうなのです、人は指示代名詞で呼ばれた瞬間、突然、冷たい物質に変化してしまいます。そういえば、長女・よしこも、嫁ぎ先の姉、つまり小姑のことを、こっそり「あれと同じ敷地に住むのは、無理だわ」と吐き捨てていました。そして、このような物質化が極端に進んでしまったものが、菊枝さんが手に持つ木製の<て>だったのです。木製の<ゆび>を寄せ集めただけの<て>は、「手」のような形はしているのですが、もちろん「手」としての機能は果たさない。物質化した<ひと>を寄せ集めただけのものは、もちろん「家族」たり得ない…と、とりあえずはそのようなメッセージが発せられていた作品でした…よく、わかりませんが。

 いや、よくわかっております。優れたものは、誤解されやすいものなのです。4月に死去したサッチャー英国元首相も、また誤解されやすい人でした。1979年から11年以上にわたる異例の長期政権を築き、英国の歴代首相で初めて名前に「イズム(主義)」を献上されたのが彼女でした。ただ、その「サッチャリズム」は、常に誤解から逃れられなかった。典型的な例は、彼女が1989年にある雑誌のインタビュー(注10)で語った内容についてです。

 「社会など存在しない」

 日本でも、シャッター通りが増えたとか、無縁社会になってしまったことの元凶として、新自由主義が批判され、しばしば、元首相のこのセリフが引用されてきました(注11)。しかし、実際のコメントには、続きがあります。

 「社会など存在しない。あるのは個人としての男女とその家族だけだ」(注12)

 サッチャーは、むしろ人びとの相互扶助精神に期待していたのです。国家を最初の避難場所とみなす立場に対して、まずは「家族」という最小単位のコミュニティーの力があるハズではないかと。ベキではないかと。すなわち、市場だの貨幣だのの力によって、バラバラになってしまいがちな個人をすくいとる基本の集団。それは、国歌だの、歴史だの、ヴィジョンだの、つねになんらかの共同幻想を付与しなければならない人工物ではなく(注13)、現代社会においても唯一「運命」と呼ばれるようなもので束ねてしまうことが、とりあえずは可能な単位、「家族」。そこに、どうしようもなく弱い存在になるリスクを秘めている「個人としての男女」が、いざとなれば「再分配」だの「承認」だのを調達することができる基盤を期待していたのがサッチャーだったのです(注14)。

 無論、ハイバイの『て』は、元英国首相のそのような期待が幻想にすぎないことを指摘したのだともいえるでしょう。しかしです。それでは、あの、井上陽水の歌はなんだったのでしょうか? わざわざ、ひとつのストーリーを、2つの異なる視点から二度繰り返して舞台にあげてまで、見せようとしたものはなんだったのでしょうか?

 恥ずかしながら、私は、この作品に2009年に初めて出会ったとき、不覚にも大泣きしてしまったシーンがあります。いえ、私だけではありませんでした。今回の公演でも、客席では、少なからぬ人が、そのシーンでハンカチを取り出しておられました。それは、ストーリーが二巡して、父親がカラオケを歌い出すシーン。「聞いたことある? パパが『リバーサイドホテル』歌うの。「ホテルは」っていうところと、「リバーサイド」ってとこの間がすごく長いの」と母が笑いながら指摘したことが、本当かどうかを見つめる太郎。そして、外に出た母が、部屋の中では、家族全員が大きな声でその歌のサビの部分を盛り上がって歌っていると勘違いする…その幻のシーン。ここで泣いてしまった。

 岩井秀人がしかけたこの罠にはまってしまってはいけないと思っていたのですが、結局、また涙が出てしまった。人間というのは、実に弱いものです。いや、むしろ、ここでは、演劇というのは、かくも大きな力を持っているという言い方が適切なのかもしれません。

 あのシーンは、ウソなのです。崩壊した家族に、そのような瞬間はもはややってこない。この家族から、「承認」を調達しなおすことは、恐らくは無理なのです。ところが、演劇はスペクタクルとしての「家族」の幻想を立ち上げてしまえる。そのような演劇の力を、岩井秀人は、これでもかと見せつけてくれたのでした。

 歴史に名を刻むサッチャー元首相に対して、いま、英国では批判的なデモや抗議の運動が盛り上がっています(注15)。死後に至って非難をうける。このような苦難に遭遇してしまった元首相に必要だったもの、そして、新自由主義を本気で立ち上げる必要があったユニオンジャックの国に必要だったものは、まさにこうした幻想を作りだす作用をもつ演劇だったのではないかと思います。古典のシェイクスピアでもなく、ノーベル賞のハロルド・ピンター(注16)でもなく、ましてや、なんとなくスタイリッシュなサイモン・マクバーニー(注17)でもなく、岩井秀人だったのではないかと思うのです。

 皆様、改めて私たちは、演劇の力に遭遇しました。その力の発揮は、「美しい国」なるものを目指す人物を、うっかり二度も首相にしてしまった国の首都の公共劇場にとっても、見事に合目的だったということかもしれません。それでは、皆様で歌いましょう『讃美歌21』161番「見よ、主の家族が」(注18)。

見よ,主の家族が共に集まる。
    なんと大きなみ恵みよ。
    なんと大きな喜びよ。
    見よ、主の家族が共に集まる。

 いや、なんかこういう感じでは、なかなか心の奥までは響かないですねぇ。むしろ、民法第730条「親族間の扶け合い」。

 第730条 直系血族及び同居の親族は、互いに助け合わなければならない。(注19)

 この簡潔にして要をえた記述こそが、サッチャー元英国首相が自らの名を冠する「サチャリズム」を具現化するために必要な基礎であったのです。問題は、そのような理想なり幻想は、讃美歌だの、法律の条文ではとても人民の心には立ち上がらない。だからこそ、いま演劇が必要だ。岩井秀人は、それを、見事にやってみせた。「家族」って、ま、イロイロあるけど、イイ感じのときもあるよなぁ…と思ってしまったあなた。次にハイバイの『て』をご覧になるときには、是非、二巡目の『リバーサイドホテル』のサビで泣かないこと。これをちゃんと狙ってください。何回も観るうちに、そのようなアイロニカルな態度(注20)を養成する力をも秘めているからこそ、この『て』は名作なのですから。
(2013年5月21日19:30の回 観劇)

【注】以下の「注」は、筆者のあくまで補足的/備忘録的なノートであり、セミナーの評価・討議対象の原稿に含まれることは、想定致しておりません。(為念)

1. [社会学での家族論] 社会学者・山田正弘は、社会学において家族研究はとりわけ困難が多いことを指摘している(『家族の歴史は、家族論の歴史である』(2001年))。困難のひとつとして、同氏は「認識の問題」を上げており、研究といえども「家族はよいものであるはずだ」というイデオロギーの呪縛から逃れきれない傾向を指摘している。一方、いまひとつの家族研究の困難性として上げられているものは、近代の社会科学が主として依拠してきた「個人の選択の自由」という原則から、家族というものがほぼ対極の位置にあるということがある。親は子供を選べないし、子供は親を選択はできない。そこには、原則として契約の概念はなく、国家や市場のような外部装置の介入も容易ではない。さらにいえば、核家族化の進行というような古くからの問題だけでなく、昨今は、事実婚、同性愛から、家族としてのペットまで、家族として包含されるもののバリエーションは次々と拡大しており、家族の定義そのものがゆらいでいるという問題もある。

2. [越中屋ホテル] 富山県出身の夫婦が、明治元年に北前船で北海道に渡り、回船問屋として業を営むなかで、北海道開拓の重労働をする労働者の簡易宿泊所を供し始めたのが、小樽の老舗旅館・越中屋旅館の始まり。その後、小樽は日本で15番目に大きい大都市に成長し、昭和6年に、同旅館が別館の洋館ホテルを建設。これが、越中屋ホテルとなった。ベニヤ板の買い付けに来日した英国人が主に宿泊していたとされており、原則として外国人専用となっていた。順調に経営を続けていたが、太平洋戦争前後は、陸軍に接収されたり、米軍に接収されたりという波乱があった。戦後は、小樽経済も衰退し、ホテルは廃業され、北海製罐の独身寮、アドバンテスト社ゲストハウスと転じていったが、1993年からは小樽グランドホテルクラシックとして再び営業されている。(小樽市ホームページ/関西学院大学社会学部 島村恭則ゼミ/中村知希レポート『旅館からみた小樽―越中屋旅館を中心として』などによる)一般的な設定だけでも進行可能なように思われる「家族」テーマの作品の中で、このような複雑な歴史をもつ「越中屋ホテル」という実在の固有名詞が登場してくるのは、やや唐突な印象もある。逆にいえば、それだけ、この作品に登場する祖母なり家族なりの出自の特殊性を浮かび上がらせたいという気持ちが、作者・岩井秀人にあったのではないかと推察される。

3. [東京の教会] 東京23 区内の 689 教会のうち、区別では世田谷区が最も多く84教会がある。また、1平方キロメートルあたりの教会の数で比較すると、新宿区や渋谷区に教会が密集している。(東京工業大学大学院・社会工学専攻レポート(永井恵一)『東京 23区におけるキリスト教会の立地と地域活動に関する研究』)

4. [介護の社会化] 2000年4月に発足した「介護保険制度」は、それまで家族、なかんずく<嫁>が行うことが当然とされてきた介護労働を、家族から解放し社会化することを企図されたものであった。一方、現実の世界では、介護労働を適正価格で提供するサービス産業として拡大したい供給側の戦略と、介護労働を低廉で都合よく外部化したい需要側の意向がせめぎ合っている。法律施行後、10年以上がたったいまでも、当初の理念が十分に実現しているとはいえず、昨今は介護サービス供給者の貧困や、介護サービスの調達困難による失業などの問題も浮上している。しかしながら、社会学者・上野千鶴子のように、フェミニズムの立場に強く依拠する学者たちの中には、介護労働の脱家族化・社会化の方向そのものについては評価する声も多い(上野千鶴子『ケアの社会学』(2008年))。

5. [高等女学校] 明治32年(1899年)に高等女学校令が公布された後、各地に高等女学校が設立された。女子の尋常小学校進学率がほぼ100%となる大正元年(1910年)頃から高等女学校への進学率も徐々に高まり、大正9年(1920年)には9%となったが、大正時代の高等女学校は、まだまだ一握りの女子のみが取りうるコースであった。(稲垣恭子『女学校と女学生―教養・たしなみ・モダン文化』〈中公新書〉より)

6. [オブロンスキー家] トルストイ『アンナ・カレーニナ』の舞台となる家族。冒頭の書き出しは、不幸な家族の原因のバリエーションの多さを指摘する際に、しばしば引用される。「幸福な家庭はどれも似通ったものだが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である。オブロンスキー家では、なにもかもが無茶苦茶であった。…」

7. [家族の機能] 家族は、愛と伝統の集団というよりは、社会統制を有効に作用させるための機能をもった装置とみなされるという指摘が、多くの社会学者からなされている。タルコット・パーソンズなどが、その嚆矢であろう。パーソンズの時代には、「生殖」あるいは次世代の「再生産」は、まさに「家族」が担う機能として認識されていたようだが、時代は大きく変わってきている。その機能を重視しすぎて「産む機械」発言問題が引き起こされたり、昨今の「女性手帳」のような問題が惹起したりもする。また、近時は、子供を産まない選択肢をとる夫婦や、逆に「家族」に依らないで子供をもうけるケースも少なくなく、「再生産」という機能自体を、「家族」の機能とすることには抵抗感が大きい。一方、コミュニティー崩壊が叫ばれる中、「家族」という最小限のコミュニティーに対して、再び注目されている機能が「再配分」と「承認」である。この2つの用語は、どちらかというと「社会」に付されてきた傾向がつよいと思われるが、いまそうした機能を大きな集団に頼ること、なかんずく「国家」に頼りきることには大いなる困難が生じている。それゆえ、この「ひと」の集団として最小単位と目される「家族」の機能に期待する人たちも多い。

8. [静岡] 2009年に上演された『て』では、長女・よしこの嫁ぎ先は、「茨城」になっていた。それが、今回の公演では、ひっそりと「静岡」に変更されている。恐らくは、作者・岩井秀人が、よしこが嫁ぎ先から出戻って来る理由への誤解を避けるために、原発事故や震災被害の問題を想起させる地名を回避したかったのだと推察される。

9. [次郎] この作品で、もっとも鼻持ちならない存在は、恐らくこの次郎である。実家を離れて、祖母との交流も久しくしていないのに、帰ってきたときだけ祖母にはイイ顔を見せたい。兄が、祖母の側に静かに寄り添うために、自分の趣味の車の部品を応接に持ち込んでいる気持ちなども、全く理解しないまま暴言を吐く。その一方で、かつてまだ子供であったころに、兄が、「ロイヤルサルーン」と書かれたような自動車のプレートを盗んで集めていたことについて、父親がきつく叱責したことを、単純に「酷い」事件として記憶し、兄に同情する側面もみせる。次郎の単純で洞察力を欠いたリアクティブな態度を観察していると、かつてPTAで問題視されるような事件への父親の対応が本当にそこまで酷かったのかという疑問がわきおこる。この次郎の存在は、作者・岩井秀人が、観客ごとの状況と態度によって、観とるものが変化するように、わざとしかけたものかもしれない。

10. [インタビュー雑誌] 1987年10月31日付の“Women’s Own”のインタビュー。

11. [誤解ある引用] マーガレット・サッチャーのセリフの意図的な誤引用の例としては、例えば、評論家・中沢新一の次のような文章がある。
 「新自由主義の実現に向かって決定的な一歩を踏み出した政治指導者の一人であるマーガレット・サッチャーは、いみじくもあるインタビューで、「社会などというものは存在しない」と言い放った。」(『赤から緑へ』(第4回)/文芸誌『すばる』2013年4月号所収)

12. [サッチャーのコメント] 原文は “There is no such thing as society. There are individual men and women and there are families.”

13. [共同幻想] 集団が形成されるのには、ある種の想像や幻想が必要になるという指摘は、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』や吉本隆明の『共同幻想論』のような多くの古典的な言説で明らかになっている。ただ、このような考えそのものは、もっと古く、近代社会が始まった当初から存在している。例えば、森鴎外は、明治45年(1912年)に発表した短編『かのように』で、天皇という存在が、国家という本来不存在のものを存在させるための重要な装置であることをやんわりと表現している。「家族」は、国家よりもさらに運命的なつながりが大きな存在であると一般的には捉えられていると思われるが、岩井秀人の『て』では、そのような運命的な最小限の社会ユニットに対してまでも、幻想の力が必要であると主張をしているわけであり、国家論として展開されてきた言説が、家族にまで浸食するものであることを、舞台の上でまざまざと示してくれている。

14. [家族機能への期待] 社会統制のために、「家族」の機能に期待を寄せた政治家は、もちろんサッチャー元首相だけではない。例えば、米国で(父)ブッシュ大統領の時代の副大統領ダン・クエール。1992年に、当時人気のテレビドラマの主人公がシングル・マザーになってしまう状況を批判して、「貧乏から抜け出すには、結婚しろ」というような趣旨の発言をしたことが、社会問題にまで発展したことがある。この事件の後、米国ではクエールが指摘する”Family Value(家族の価値)”について、大論争が繰り広げられ、クエールはどちらかというと劣勢で、ときに嘲笑の対象になり下がっていたと記憶するが、自由を最善とするような米国で、「家族」という存在が政治の期待する「機能」として語られたことが、極めて印象に残っている。

15. [サッチャー批判] CNN記事(2013年6月8日)「故サッチャー元英首相 「負の遺産」に根強い批判も」などのほか、報道記事多数あり。元首相の死後、iTunesで、1939年のミュージカル映画「オズの魔法使い」の挿入歌「鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ」が、最近突如2万回以上ダウンロードされ、圏外から1位になったことも話題ともなった。

16. [ハロルド・ピンター](1930~2008)英国の劇作家。20世紀後半を代表する不条理演劇の大家と評され、説明的な台詞や行動の動機、さらには明快でリアリズム的な舞台設定を嫌い、観客はもちろん作中の登場人物に対しても状況が明示されぬまま物語が進行してゆく反=リアリズム的な戯曲を書いた。昨年新国立劇場で上演された『温室』など、日本でもしばしばその作品が上演されている。2005年にノーベル文学賞受賞。(Wikipediaほかより)

17. [サイモン・マクバーニー](1957~)英国の演出家。劇団「コンプリシテ」の創設者・芸術監督。村上春樹の短編小説を基にした舞台作品「The Elephant Vanishes」の演出を手掛けるなど、日本文化への造詣も深い。2008年に世田谷パブリックシアターで演出された『春琴』の成功で、日本での知名度を一気に高めた。(『春琴』は、今年8月再演予定)

18. [主の家族] 実は、聖書の中に理想的な家族像というものは、ほとんど記されていない。信仰の父アブラハムも、英雄ダビデも、決して理想的な家族であったわけではなく、大きな痛みを抱えていた。いわば、罪人の集まりなので、どの家庭にも、また神の家族である教会も、必ず何らかの軋轢や綻びが生じていく。しかし、キリスト教では、だから駄目なのではなく、またその破れや痛みを隠したり諦めてしまうのでもなく、そこにこそ救い主イエス・キリストを迎える意味があるのだと説く。(北見神愛キリスト教会のホームページ参照)

19. [民法] 法律の世界では、原則として家族内の関係を扱わない。家族法は、家族と市民社会との接点(結婚・離婚・相続)について定めているだけである。家族の秩序は、契約によって成り立つのではないことを前提にしているために、基本的には法律の関与外なのである。また、現行の家族法は、親子の「関係」を基本としており、必ずしも明治民法のように「家(イエ)」あるいは「家族」という「団体」を規定していない。さらには、家族法は、多くの事項を当事者の協議に委ねている。しかしながら、家族内の相互扶助の義務だけは、個別の関係ごとに、民法に複数の条文規定がある(夫婦間→752条、直系血族及び兄弟姉妹間の扶養→877条第1項、特別の事情ある場合の3親等以内の扶養義務→877条第2項)。これは、国家がいかに「家族」のもつ「再分配」機能に期待しているかということの証左である。ただ、こうした個別の条文の存在にも関わらず、別個に独立して存在している民法第730条が規定はさらに重い。なぜならば、法律的な常識からすると、個別規定されている扶養義務を超えた意味が、この条文には付与されていると解されるからである。『口語/親族・相続法』(自由国民社)の730条の解説には、「本条が助け合わなければならない、と規定しているのはたんに扶養だけのことではなく、それ以上のものを意味しているものといちおう考えられる」との指摘があり、「子が親に貸金があっても場合によっては裁判所に訴えることはできないことにもなる」といった例の説明が付されている。「家(イエ)」制度がなくなったハズの現代日本においても、「家族」の果たす機能への国家の期待は、まだまだかくも大きいのである。

20. [アイロニカルな態度] 今回の『て』の公演で、岩井秀人は、自らが携帯電話や飲食についての上演前の注意事項を観客に伝えながら、間断をおかずにそのまま舞台に役者を招き入れ、無邪気に「これから始めま~す」という宣言とともに上演を開始した。加えて、舞台上の役を演じた役者は、客席から丸見えになっている舞台横の袖の部分で待機しており、役者のオンとオフの状態が同時に眺められるしかけになっていた。これは、演劇の世界では、作品世界を異化する「ブレヒト的」な演出としておなじみのものだが、今回は、家族が一体となって盛り上がる幻想のカラオケシーンや、家族で棺を運ぶシーンでのふとしたイイ感じの刹那をちりばめながら、そうした場面の裏にある虚構性を強調することに成功していたように思う。つまり虚構であることを常に認識しながら、観客は、ついつい自らが涙を流してしまうしくみを明確に意識できる舞台になっていたといえる。社会学者・大澤真幸は、あることが虚構に過ぎないことを織り込み済みであえて没入することを「アイロニカルな没入」と呼び、そのような態度が、現代の社会にはやむを得ず必要であること指摘している。そうした「アイロニカルな没入」の対象としての「家族」というものの必要性と困難性を、同時に舞台に立ちあげ、観客に鋭く問うことができるという意味で、この『て』は、今後も、名作として再演され続けるに違いない。

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