ハイバイ「て」

12.てとてを繋ぐために(中村直樹)

 「あぁ、なんていうものを観てしまったのだろう」
 劇場の中央に据えられた舞台上では、親子喧嘩に兄弟喧嘩に夫婦喧嘩が繰り広げられる。そこで発散される感情はとても身近なもので、容赦なく突き刺さってくる。
「痛い、痛すぎる」
 私の神経が毛羽立っている。劇場の外へ出ても収まらない。
「あぁ、なんていうものを観てしまったのだろう」
 そのように改めて思うのだ。

 この舞台は、葬式から始まる。喪服を着た家族の前で神父が立っている。教会での葬儀のようだ。亡くなったのは、祖母である。神父はお悔やみの言葉を話すがどこかおかしい。祖母の出身地である函館とは、神父の友達が以前泊まったことがあるぐらいの深い縁があるという。
「あの神父、おかしいよ」
次男がそのように言う。そして喪服を脱ぎ始めた。どうやら葬式も終わった家族の時間に移ったようだ。喪服を脱いだ子供達は和気あいあいとしている。葬儀に同席した前田も落ち着いている。しかし、父親だけは不機嫌だ。そして時間は祖母の亡くなる前夜に時間が戻り、物語が動き始めるのである。

 これは多摩地方に住むある家族の物語である。母屋に住む父と母、離れに暮らす祖母と長男、嫁ぎ先から夫を伴って帰ってきた長女、次女、そして友達の前田を伴った次男が祖母の住む離れに集まってくる。それは家族の絆をより深めようという長女の提案により、家族パーティを行うためだった。

 久しぶりに祖母の家にやってきた次男は、応接間の様子に愕然とする。そこは長男の車の部品でいっぱいだったのだ。祖母の部屋で長男と出会った次男は、そのことをやんわり注意する。しかし、長男は聞く耳を持たない。
「だから?」
そう言う長男に次男は返す言葉もなく、押し黙るのだ。言葉の通じないディスコミュニケーション。緊張状態が起きるが、長男は仕事のために席を外すことになった。

 その家族パーティが始まるが、それは惨憺たるもの。次男と長女とその夫のグループ。次女と前田のグループ。その中で父は一人でリバーサイドホテルを歌っている。それを誰も聞いていない。遅れてやってきた長男の到着に、次男は歌を歌う父を邪魔をするように、こう宣言する。
「ようやく家族が揃いました」
それに対して腹を立てたのか、長男は次男を引き倒す。キナ臭い雰囲気が漂う中、父が歌い終える。
「おれは寂しいんだ」
白けた雰囲気の中、父親がこのようなことを告げる。それに対して次男は烈火の如く激怒するのだ。
「僕たちのことを理解しようとしているのか?」
 結局は家族はまとまることもなく、余計事態が混乱するだけだった。

 そして、物語は逆戻りする。そして視点が次男から母に変わる。

 祖母の部屋で次男と出会った長男は、普段は祖母のことなど全く考えていないのに、帰ってきて言いたい放題の次男に苛立ち、冷静に問いつめる。
「だから?」
そう言う長男に次男は返す言葉もなく、押し黙るのだ。言葉の通じないディスコミュニケーション。

 カラオケのシーンも、また変わってくる。次男を押し倒したのも、母に言われていた父の歌い方の癖を聞くためだったのだ。そして次男が父を侮辱した際、
「いくら言っても無駄だ」
と次男に言った言葉は仲裁でもあったのである。

 「て」とは、切りたくても切れない間柄を表すために選び出された言葉だという。お父さん指、お母さん指、お兄さん指、お姉さん指、赤ちゃん指の計五本。そしてお父さん指だけが離れている。父親というものは、家族から一定の距離を置かれるのかもしれない。それを象徴する手の模型を祖母が持っているのである。家族は祖母によって守られているという象徴なのかもしれない。

 そして、その晩に祖母が亡くなる。それで家族がバラバラになるのかというとそうでもない。ものすごく浅い?がりであるのに、それを多生の縁だという神父の導きにより、祖母は家族の手によって運ばれて、家族で賛美歌を歌うのだ。それにより、バラバラだった家族は一つとなって行くのである。言い合いする言葉が最後には賛美歌で統一されて行く。この家族も一つにまとまっていくのでという希望が見えて作品が終了する。

 なんてわかりやすいんだろう。これほど分かりやすい演劇を観たことがない。次男と母親の視点に変換して長男の人物像を多面的に描くことで、いかに人間はその人間の一面しかみていないと言うことを突きつけてくる。そのことに神経を毛羽立たせられたのだ。

 それをどうして可能にしているのか、それは、この舞台で語られている家族が特別でないからである。そして、一人一人の人物の内面や関係性まで含めてものの見事に表現されているからである。だから、舞台上にいる家族の誰かに感情移入できるのである。

 次男は自分がいつも正しいと思っている。だから、自分の意に沿わないものに対して不平不満を漏らす。それは冒頭の葬式のシーンしかり、そしてパーティが始まる時に長男がいないときに漏らすシーンもしかり。だから、自分の思った通りでない家族が大嫌いなのである。長男が父親に木刀で殴られたこと、長女が父親にゴルフクラブで殴られたことを前田に語る。家族同様の付き合いがある前田がそれを知らないわけがないのだ。つまり、これは長男、長女への嫌がらせなのである。そして、前田が次女とも仲がいいのを知っているはずなのだ。父親を孤立させるためにわざわざ前田を連れてきたとも思えるほどなのである。

 長女は自分が正しいと思いたがっている。そのため、正しいと思うことをやろうとするのである。そのための家族パーティなのだ。そして、その家族パーティは父、母、長男、長女、次男、次女の6人で行われることを想定していた。祖母の家で家族パーティを行うことになったのも、次男の一言で決まったことであり、カラオケも祖母の家にたまたまカラオケがあったからに過ぎない。そして、その裏には夫の実家でうまくいっていないことからの逃げが含まれている。つまり行動を正当化しているに過ぎないのだ。そのためには、自分の思い描いたことが行われ、自分の思い描いた結果が得られる必要があるのである。だから、自分が正しいと思って行動する次男が苦手なのではないだろうか。北海道土産で次男のものだけが微妙だったのは、それだけ距離を置いているからかもしれない。

 そして父親は相当努力している。長男、長女、次男、次女と育て方が全然違うのである。試行錯誤の結果であろう。次女は父親のことを嫌いではないというほどである。そして、次女が長女に歌うように強要されているときも、
「父さんと一緒に歌うか?」
とサポートするほどの理解を示しているのである。

 そもそも家族をどうにかしようと思わなければ、家族パーティに参加するはずがない。その上、子供達に向けて、「おれは寂しい」と内面まで語って「俺」を理解してもらおうとしているのである。そして、「俺」をどのように理解しているのかを言葉で伝えてくれたことが「嬉しい」のである。母が離婚を切り出した時に、そのことを了承するのも、家族のためには「俺」がここにいない方がいいと「男らしく」判断したからのように思われる。そして、その後の母の激高も、言葉通りに受け取ってしまうのである。

 次男の視点のパートは、次男だけでなく、長女、父親の主観的なものまでが表現されている。相手のことを理解できない人物達のパートだったのである。そして、母の視点は相手のことを理解できる人物のパートである。そこで語られるのは、母、そして長男の話である。

 長男は長女と次男を完全に見透かしている。だからこそ、次男や長女に対して効果的な言葉を使うのである。
「だから?」
 という言葉は、次男が何故そう思っているのかを説明させるための言葉である。つまり、次男の正しさを否定する言葉なのである。だから、次男は言葉に詰まる。

 そして、長女の地元に帰ってくるという言葉に対して、
「この老人を利用している」
 という強い言葉を用いて追いつめるのである。それは長女の本質を突く言葉だ。それに追いつめられて、長女は自分の内面を吐露せざるを得なくなるのである。

 父親にも同じことを言っていたのだろう。しかし、全く通じないのだ。だからこそ、
「何を言っても無駄だ」
 と諦めて、距離を置くことにしたのである。

 母も同じように理解している。長男とは違い、受け入れているのである。このような母、長男を育てたのは祖母である。彼ら家族は祖母の手のひらの上なのである。

 そして母は父を愛している。父への激高は抑圧からの恨み言ではなく、愛の言葉なのである。あなたの数十年間は、簡単に捨てられるほどに軽いものだったのかと怒っているのだ。そうでなければ、リバーサイドホテルの歌い方の細かい癖まで知っているわけがないのである。
「部屋にこもって、誰だか分からなくなって、死ね」
 という言葉は、この家で大往生を遂げてくださいという言葉に他ならない。母をたまに溜まらなくするのは、潔い男らしさのような気がしてならない。

 彼ら家族は、お互いに歩み寄ろうとしている。解決する糸口はありそうなのである。

 私の父も、作中の父親ほどではないが、似たような雰囲気を持っている。それに対し、私は次男のような態度を取っていた。だからこそ次男の視点では相当イライラさせられた。それほど感情移入させられた。だから、母の視点に変わった時、そのイライラが見事に突き刺さってきたのだ。そして、父にも私の知らない面があるのではないかと思わされた。

 観劇日の翌日、父方の祖母が他界した。すぐに葬式となった。そして伯父達兄弟の中の父、親戚の中の父を目の当たりにさせられた。それは私の知らない父の姿だったのだ。「て」を見なければ、ここまで父のことを考えなかっただろう。もっと父のことを理解しようと思わされた。その結果、今までより父親を身近に感じるようになった。そのように思わせる作品と出会ったのだ。
「あぁ、なんていうものを観てしまったのだろう」
そのように改めて思うのだ。
(2013年6月1日18:00の回 観劇)

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