ハイバイ「て」

18.両手の指と、同じ山(山本愛弓)

 いつの間にか、体をぶつけて、アザが出来ていて、それが思いのほか真紫色になって、なんだか痛みが増したような気持ちになる。「ああ、ケガをしたんだ。」とそのアザを見て思う。色が濃くなった時には、すでにそんなに痛くはないのに、押してみて痛みを確認したり、時々撫でてみたりする。

 ハイバイの「て」を観た。一度目の出来事には、痛みを感じた。兄の言葉、態度、すべてがイライラさせる。言い争いをする時のつじつまの合わなさ、心のかき乱され方に、正視できなくなる。
 なぜ、おばあちゃんの部屋に、兄は自分の趣味の部品を置くのか。その頑さや偏屈さを理解出来ず、許せなくなる。普通に考えて、おかしいではないか。自分は間違ったことは言っていない、おかしいのは兄だ。と言わんばかりの弟の心情に同調する。

 寄り集まった家族の宴は散々なことになり、おばあちゃんのことは、いつのまにか目に入らなくなっていく。「リバーサイドホテル」の歌が、不気味に響く。

 兄は、葬儀場につく前から泣いていたよね。泣いてなかったの? 泣いてたよね? どっちだっけ、どっちだっけ…

 リフレイン。二度目の出来事は、体に出来たアザを眺めるようだった。兄の言葉、態度、見ていた部分以外が映る。言い争いをする前に誰と何を話していたのか、気持ちの揺れに、触れる。
 なぜ、おばあちゃんは、ボケていくのか。繰り返し同じ話を聞いていると、うっとおしくて、否定したくなる。どうして自分ばかりがこんな思いをしなければならないのか。近くにいるから、冷たくしてしまうのだ。と兄の心情を推測する。

 散々なことになった家族の宴の外側で、起きていたことを知る。おばあちゃんは、きっと皆を見ていた。「リバーサイドホテル」の歌が、待ち遠しくなる。

 だんだんとわかってくる。妹が頑として歌を歌わない気持ちも、姉が執拗なまでに家族団らんの時間を作ろうとする強引さも、兄がマイクを奪い返した苛立ちも、そして、席を外した母が長いこと戻らなかったわけも。

 それから、ふと気づく。中央のステージにつり下げられた、木枠の傾きが変わっていることに。それは、反対側にぐるりと回って、同じ山を眺めることと似ている。同じ山のはずなのに、どこから眺めているのかで、まるで違う景色が見える。

 舞台を見終えて、岩井秀人さんのアフタートークがあった。会場の人の記した質問に答える形式だった。「岩井さんにとって、自分の表と裏とは例えば何でしょうか。」と書いたら、「ひきこもり時代に、エロい彼女がいた。」と彼はこたえた。

 見終えてすぐには、一つの出来事の“表と裏”と感じていたけれど、舞台を振り返るほどに、悲と喜、怒と楽、涙と笑、そんな単純なものではなかったと感じ出す。
もっともっと多様な面で出来ている。
 自分の目、兄の目、姉の目、妹の目、そして、母の目。姉の夫の目、友人の目、葬儀会社の人の目、牧師の目。それから、父の目。
 あの日、居合わせ、同じ山を眺めた人が、両手の指の数ほどいた。山はそれぞれの目に、異なる景色を映していたのだろう。

 棺を火葬場に入れる共同作業で、家族は歌いながら、もめる。本当はこんなに近づきたくもなかろう距離にまとまって、入棺することだけに集中するわずかの時間。
おばあちゃんを通して、家族が否が応でもつながっている。ひりひりした。暗くなり、耳に歌だけが沁み込んできて、それは耳から目に移り、涙が溢れた。

 正しいとか正しくないとか、そういうものではない。理解出来ようが出来まいが、「家族」なのだ。食卓を囲んで、たわいもない話で笑いあうだけが、家族ではない。

 せっかくくつろぎたい場所で、何の前触れもなく、苛立たせ心をかき乱されたり、それでも、毎日同じ場所でご飯を噛み砕くのが、家族だ。
 頭に落ちてきた鳥の糞を拭き取るのに、おばあちゃんの口元を拭ったちり紙を使えるのが家族だ。
 ふざけるな、もう出て行けと言い争い、クリームパンを顔面に投げつけられても、同じ湯船につかっているのが家族だ。
 姿を見るのも嫌で、出来るだけ顔を合わさないように避けているのに、下着が一緒にからまって洗濯機に回っているのが家族だ。
 ともに過ごす時間がそうさせる。恨もうが、憎もうが、自分の意思とは関係なく「家族」なのだ。

 オオカミに育てられたら、オオカミを自分の親だと思う。育てられた覚えはないと言ったとしても、歩けるようになるまでに、自分の手で食べ物をつかむ事が出来るようになるまでに、誰かが口にものを運んでくれていなければ、今生きているはずがない。

 真紫色したアザが、だんだん薄くなって、茶色く濁って、黄色くなって、消えていく。「ああ、ケガをして、時間が経ったんだな。」と、思う。そのうち、アザがどこに出来ていたのかもわからなくなる。そしてまた、忘れた頃になって新しいアザが出来たりする。そういうことの繰り返し。

 痛んだり、ふと痛みを思い出したり、忘れたり、よくわからなくなったり。そうやって人は、何度も、何度も、同じ山の周りを回っているのかもしれない。
(2013年5月25日18:00の回観劇)

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