ハイバイ「て」

4.バルバロイな家族たち(仲野マリ)

 岩井秀人の作・演出・出演である『て』は、初演の2008年以来評判を呼び、何度も再演されている。ハイバイのキャッチフレーズは、「笑えるトラウマ」。16歳から20歳までいわゆるひきこもり状態を体験した岩井は、自分の体験にかなり忠実に作品をつくってきたという。この『て』も「実際に過ごした何ヶ月の間の祖母の死を中心とした家族のバリバリ伝説」を自分で「再検証する」あるいは、「オモシロ話として報告しておきたいという思い」で作品化したそうだ。

 祖母のキリスト教式葬儀から始まるこの話は、突如場面が変わり、その祖母が亡くなるちょっと前、久しぶりに家族が集まった日のスケッチへとワープする。父と母、二人の息子と二人の娘、そして離れに住む認知症の祖母。そこに長女の夫と次男の友人が居合わせる。幼少時、理不尽な暴力を受けた父親への嫌悪から、成人すると実家を離れて暮らしてきた子どもたちが、長女の提案で久しぶりに一堂に会したのだ。

 子どもたちはこのひとときを穏やかに、にこやかに過ごそうと努力するが、それぞれの心に深く刻まれた傷は、ちょっとしたコトバのやりとりに引っかかって血を流し、どす黒い膿を出しながら言い争いを始める。家族を崩壊させた張本人の父親は、罪悪感のひとかけらもない能天気ぶりでカラオケに興じて火に油を注ぎ、すべてをやり過ごして生きてきた母も、ついには本音の叫びを上げ、夫と対峙する。

 そんな中で祖母の容体が急変し、最初の葬儀の場面へとつながっていく。最後家族は穏やかな微笑を浮かべ、口々に、「(葬儀で)お兄ちゃんがあんなに泣くとはね」「(彼は葬儀に)行く前から泣いてたよ」「え、そうだった?」みたいに語らう。長男は集まった家族の中でもっとも苛立ちが大きく、他人につっかかって孤立し、皆とぶつかってばかりいたというのに、そんな修羅場はまるでなかったような雰囲気だ。

 岩井氏の言葉を借りれば、『て』は「仲の悪い家族が仲良くなろうと思って集まって、もっと仲が悪くなっちゃった」という話らしいが、このオチからすると、「やっぱり家族はいいね」「いろいろあっても、最後は家族だから」がテーマのように感じる人のほうが多いかもしれない。

現代の「家族のリアル」を切り取る

 家族の話は昔からいくらでもあった。しかし、身近なテーマだけに陳腐になりやすい。その陳腐さ、ありきたりさを避けるため、設定をよりドラマチックに、エキセントリックなものにする傾向もある。そういうものに比べると、『て』は、本当に何気ない家族の一風景を切り取ったものにすぎない。「演劇」というより、ほとんど「ドキュメンタリー」に近い。

 セリフも、多くは「普通の喋り方」であって、時に、聞こえても聞こえてなくてもいいかのようだ。舞台の右隅で、左隅で、そして中央で、複数の会話が同時進行することさえある。本当に「演じて」いるのか? ときに、観客をおきざりにしてくつろいでいるだけにさえ感じられるくらいだ。

 そんな「ゆるい」舞台を見ながら、私の隣の席の女性は、途中から嗚咽を押さえられぬほど、泣き続けていた。公演のたびに、多くの人が終演後「実は私の家族にも○○な人がいて」と声をかけてくるとも聞く。ということは、『て』こそ、現代の家族のリアルな肖像なのである。そしてここに、今の演劇に求められている新しい「真実らしさ」の一つの形があるのではないだろうか。

バルバロイな現代人

 今回、私が衝撃を受けた場面は、祖母の離れの居間に長男の趣味である自動車のタイヤが、ところ狭しと置かれていることに、次男が苦言を呈するくだりである。

 「あそこはおばあちゃんの居間でしょ?」と次男は言う。
 「そうだよ。だから?」
 「だから、あそこはおばあちゃんの居間だから」
 「だから何?」

 こんなふうに、互いの意を汲まない一方通行の言い合いが、延々と続く。最初、長男は次男の言いたいことをわかっていながら、意識的に意を「汲まない」ようにしているのではないかと思っていた。しかし途中から、私は「この2人はコトバが通じないんだ」と感じるようになった。

 最近、同じ日本語を使っていても、コトバが通じない人がいる、と感じることが多い。電車の中で化粧をしている女性に「ここは電車の中だから」と言ったら「そうですよ。だから?」と切り返されるだろう。「今は授業中だから」「宿題だから」「夜だから」と言っても、キョトンとされるだけである。「だから」の先を口に出しても、テキは全然ひるまない。「化粧してますが、なにか?」である。「授業中だから私語は慎む」「宿題だから提出する」「約束だから守る」「夜だから静かにする」の「だから」が、機能しないのである。

 しかし、人によって価値観が違うというだけなら、昔からあった。問題はここからだ。私たちは、コトバの通じない人たちと、それ以上コトバを重ね、コトバによって分かり合おうとする意欲を失いつつある。日本語のわからない人に、日本語で説明しても無駄だという空気が、世の中に蔓延している。

 古代ギリシャ人は、ギリシャ語以外を話す周辺民族のことを、バルバロイ(バルバルと、なんだかわからないことを話す人)と称したそうである。同じ日本人であっても、同じ家族であっても、バルバロイな人とはコトバが通じない。コトバを介して気持ちを通じ合わせることができないのである。

 もう一つ、コトバに関することで驚いたのは、この芝居のセリフが「収斂」されずに提供されていることだった。登場人物たちは、「あれ」とか「うーんと、えっと」とか「ほら」とか、そういう言葉を多用する。それらは自分の胸の内を表現しようとして、絞り出されるのだが、では最終的に最適な表現をみつけるかというと、「あれ」のままで平気で終わってしまう。あるいは、同じコトバを繰り返すばかりで、他の表現をして理解してもらおうという力に乏しい。

 こういうことは、実生活ではまま起きる。しかし、これまでの演劇あるいは文学は、そうした自分たちの胸のうちにあってなかなか外に出てこない感情を、最終的にはコトバで、それも詩的表現で、あるいは比喩を使って表してくれるものだった。「そうそう、そういうことが言いたかった」というコトバを、登場人物は観客の代わりに話してくれる。それが小説であり、演劇であり、ドラマであった。私たちの代わりに、彼らは「愛している」と言い、「バカ野郎」と言い、「ごめんなさい」と言う。あるいはその理由をちゃんと相手に伝えてくれる。そのセリフを聞きながら「私が言いたかったのはまさにそれ!」と思える作品に、私たちは惚れ込んだものだ。

 ところが、『て』は違う。「言えない自分」「コトバがみつからない自分」がそのまま舞台上に出現する。そして観客は、「答えをみつけられない自分」「理解されない状況を打破できない自分」つまり「ありのままの自分」が、認識され、「そのままでいい」とお墨付きをもらうように表現されていることにこそ、カタルシスを覚えるのである。

「2周目」で見えてくるもの

 岩井はこの話を「同じ時間を異なる視点で2周する」という構成に仕上げた。わかりやすく言えば、芥川龍之介の「藪の中」形式である。それを支えるのが、舞台のしつらえだ。客席が四方を囲む、いわばガラス張りの部屋を全方位から観察するような空間。そこが祖母の住む離れの、ベッドのある一室に設定されている。

 この舞台の上で、この「家族の話」は進行するが、「2周目」は、最小限に抑えられた舞台装置を対称的に置き換え、ぐるっと180度回したように逆方向から眺めるという仕掛けになっている。つまり観客は、物理的に異なる「2つの視点」を与えられるのだ。俳優たちの立ち位置も、顔の向きも逆になるから、1回目は自分の席からではよく見えなかった部分も、2回目はじっくり見ることができる。

 それだけではない。2周目は「流れる時間」は同じでも、切り取られる「事象」は少しずつずれている。1周目で何かと対立する長男と次男は、短い、ぶっきらぼうなやりとりを繰り返す。次女は兄や姉の古傷を思いやるあまり本音で語れない。母はみんなが集まったことだけで幸せで、その幸せを壊さないことだけで精いっぱい。そこが「リアル」だ。家族だから、兄弟だから言わなくてもわかること、あるいは知りたくもないことは、みなコトバにしないのである。それらがどんなに観客にとって知りたいバックグラウンドであっても。

 岩井は「言わなくてもわかる関係」という家族のありようを「リアル」に表現しつつ、この家族が抱えた問題を立体的に積み上げていく。そのときに機能するのが「2周目」の描き方だ。同じ話題ではあっても会話する人の組み合わせを変えることで、観客の疑問とそれに対する答えをうまく浮かび上がらせている。

 もう一つの特徴は、「小ネタ」のいじり方である。1周目は非常に緊迫した場面の連続でありながら、あちらこちらに、どこかちぐはぐな小ネタが仕組まれている。たとえば、長男が持って現れたペナントは何の意味があるのか。母親はなぜ、もらった箱に固執するのか。その母の髪の毛についた白いものは? 手に持った中途半端なティッシュは?

 見逃してしまうかもしれないようなたわいもない小ネタの「出どころ」を示すことで、観客はほっとする。「ここで笑っても不謹慎じゃない」お墨付きとして、小ネタは仕込まれているのだ。「笑い」は、シリアスなテーマを「笑い飛ばす」小道具として、ハイバイの作品には「観客が笑う」という反応が不可欠といえよう。

 だがもっとも本質的な1周目と2周目の違い、「2周目」に課せられたもっとも重要な使命は、多面性の顕示である。

 1周目、観客は短時間で登場人物を判断せんがために、「いらだつ長男」「やさしい次男」「しっかりした長女」「トラウマのない次女」など、どうしても彼らを単純化して判断しがちだ。しかし2周目、観客は知る。どの人物にも、もっとほかの面があるということを。強い人間にも弱さはあり、逆に弱い人間も譲れない思いが胸の奥底でたぎっている。きつい言い方しかできない人間の心の中にも、優しさは詰まっている。年月が家族の立場を変え、形を変えるということも含めて、たった一言でくくれる家族など、この世に存在しないのである。

 つまり観客は1周目、登場人物たちを個々の人間として追っていたが、2周目になると、彼らを一つの「家族」として、その関係性において改めてとらえ直す。どんなにバルバロイな家族であろうが、人間関係が崩壊していようが、「家族」という不可思議な有機体にあっては、DVを繰り返してきた父親も含め、彼ら一人一人が「愛すべき」存在に思える瞬間があることを体感するのである。

 繰り返されることで「馴れ」が発生することにも注目したい。観客は最初、あまりにディープな一家族の問題の目撃者に強制的にさせられて、身の置き場にも困るほど戸惑っていたはずだ。ところがそんな不安感は、「繰り返される」という魔法によって、見事に解消されていく。舞台上の出来事が「一期一会」でなくなる瞬間だ。「また始まった」という感覚。それは、「家族」の感覚だ。

 目も耳もふさぎたくなるような辛い場面も、その「辛さ」の記憶を共有したという事実の力によって、体に馴染んでいく。赦せていく。そして、いつしか自分自身の家族に対するやるせない感情を想起させ、いつしかその感情も一緒になって鎮まっていくのである。

「話せばわかる」は死語なのか

 家族は、おそらく誰にとってももっとも身近なバルバロイである。「親の心子知らず」であり、「孝行したいときに親はなし」なのだ。親の価値観は常に子の前に大きな壁として立ちはだかり、子はそれを乗り越えて自我を獲得し、一人前の「大人」に育っていく。
 「乗り越える」ために、あるときは「力」が、あるときは「コトバ」が、問題解決のために使われた。20世紀は「話せばわかる」という言葉が巷に流行した時代でもあった。
 しかし今や、時代はバルバロイである。話しても、わかりあえない。話して、わかりあおうとしない。

 私は中学生の息子と大喧嘩をしたことがある。親子喧嘩の末に自分の部屋にたてこもった息子は、「ちゃんと話しなさいよ。自分の言いたいことを言えなくてどうするの」と言う私に対し、ドア越しに「誰も彼もがお母さんのように、自分の気持ちを説明できるわけじゃない。言いたいことを言えない人だっているんだ!」と叫んだ。

 コトバが通じなくて、どうやって分かり合えるというのか? その答えの一つが、『て』なのかもしれない。大喧嘩した次の朝も、ケロっとして「おはよう」とあいさつし、一緒に朝ごはんを食べる。そんな、愛憎を超えた家族の普遍の力を、この物語は何気ない描写の積み重ねで示している。

 だから『て』は、闘えない人々、争えない人々、コトバによる説得工作に不向きな人々に対する実録応援歌である。わかってもらえない今の苦しみは「大変だよね」と認めてくれた上で、「コトバなんか通じなくても、何の説明もしなくても、一緒にいることが力となって、いつかわかり合える。いや、わかり合えなくても愛することはできる。愛せなくても、きっと赦せる日がくる」と言って、無条件に包んでくれるのだ。なんと優しいまなざしを、この作品は客席に投げかけていることだろう。

 だからこそ、隣の女性は涙を流した。多くの人が『て』の再演を願うゆえんである。
(2013年5月31日19:30の回 観劇)

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