ハイバイ「て」

6.「そうそう、家族ってそんな感じ」の2時間弱(米川青馬)

 観劇中、前に座っている女性が、大きく笑ったと思ったら数分後には涙を流し、とにかく忙しそうだった。ハイバイ『て』の感想は、一言にまとめればそれに尽きるかもしれない。

 ある家族の話である。長男は口ベタで冷めていて、次男はお調子者。長女は仕切り役で、次女はマイペース。父親はどうしようもないDV男で、母親はその負を受け止めて我慢する。祖母は痴ほうが進んでいて、全員が集まればもめごとが起きる。性格も考えていることもバラバラで、わかり合っているとは到底思えないが、お互いに理解を深めようと冷静に話し合うことは少ない。冷静に話し合おうとしても、どうしてもヒートアップしてしまう。

 それにも関わらず、つながっている。機会があれば、一つ屋根の下に集う。そして、お互いにお互いを何かしら大事にしたいとは思っている。そう思っているからいいわけでもない。むしろ、悪い方向に働くことも多い。きっと、似たような家族は今の日本にけっこうあるだろう。家族って、そういうものだ。うんうんわかる、その感じ。

 ハイバイ『て』の舞台上で表現されていた「現代日本の家族らしさ」に深く共感した。それ以上ではない。それ以下でもない。役者全員が「家族って、こんな感じですよね」と伝えることに集中していた。「もっと家族の絆を大切にしよう」とか、「家族って良いよね」とか、「家族のこういうところをどうにかしたほうがいいのでは」といったメッセージは言葉からも態度からも、一つも読み取れなかった。素晴らしいことだと思う。そんなことはどうでもよいのである。家族という何とも不思議なシステムをそのまま再現すれば観客は各々泣き笑い思い出すのだから、そこに取ってつけたようなメッセージなど要らない。「家族らしさ」さえあれば、それで良いのだ。それが良いのだ。

 舞台は、おばあちゃんの家の寝室だ。葬儀のシーンを挟んで、おばあちゃんの家の寝室での夜の数時間と翌朝の出来事が2回繰り返される。この繰り返しが、『て』の構造の特徴である。もちろん、まったく同じことが行われるのではない。一度目と二度目は、有名な錯視画「ルビンの壺」の壺と顔のような関係で、一度目には演じられなかった箇所が二度目に演じられ、2回を合わせて、ようやく全貌が見える仕組みになっている。たとえば、一度目は母・通子が途中で部屋を出て行った後、部屋の中のストーリーが続くのだが、二度目は部屋を出て行った通子のストーリーが展開される。

 なお、一度目は次男・次郎の目線、二度目は通子の目線なのだが、僕は台本を読むまでそのことに気がつかなかった。伏せられていた箇所にいったいどんな秘密が隠されているのか。そのことに夢中で、目線のことにまで気が回らなかったのだ。この2回繰り返し構造は、そのくらい人を惹きつけることに成功していたと個人的に思う。

 さて、本題はここからである。普通、伏せられたプロットが開けられる時は、そこには意外な事実があるものだ。予想もつかないどんでん返しこそが観客の大好物で、脚本家はそれに応えようとするのがセオリーである。だから、多くの場合、脚本家はこういった2回の繰り返し構造にするとしたら、二度目には登場人物の誰かが一度目とはまったく違う顔を見せるとか、裏側ではまったく異なる話が進行していた、という風につくるだろう。

 だが今回、岩井秀人は異なる方針を取った。このお芝居では、二度目のストーリーで明らかになるのはたとえば次のようなことだ。

〈1〉一見、祖母・菊枝と一定の距離を取り、菊枝を利用しているようにも見える長男・太郎だが、実は菊枝のことが大好きだった。

〈2〉一見、無法者の夫に押さえ込まれっぱなしのように見える通子だが、実は最近は通子の立場が強くなってきており、2人きりになった時、通子はついに溜まりに溜まった思いをぶちまけていた。

〈3〉一見、長女・よしこは家族をまとめようと必死で頑張っている「よくできた娘」だが、実はその行為が家族の多くに迷惑がられている面もある。

 他にも、通子が家族全員仲良くなることを夢見ているとか、通子が夫の横暴に相当の恐怖を感じてきたことなどが語られていく。確かに、太郎の秘めた想いや、夫と通子の関係などは多少意外な一面ではあるけれど、「そんな秘密があったのか!」と思うほどではない。基本的にはいずれも、さもありなんということばかりだ。(唯一驚いたのは父=夫の「リバーサイドホテル」の歌い方が実はおかしかったということで、これは劇中最も笑えるポイントの一つだが、本筋ではないので説明は省く。)

 これは明らかに、観客を驚かそうとしていない台本だ。驚かせるのではなく、岩井は「ピントを合わせる」ことを狙っていると感じた。なぜなら、二度目で明らかになるのは、いずれも家族の複雑さや矛盾ばかりなのだ。観客の多くが「家族のエキスパート」として、家族の複雑さや矛盾を熟知しているわけだから、こんなことには驚かない。

 驚く代わりに「そうそう、家族ってそんな感じだよね」と思う。一度目にはまだボヤけていた物語は、二度目で明瞭になる。「家族らしさ」がくっきりと浮かび上がってくる。これはある家族の話であるとともに、ある部分では自分の家族の話だと、観客は思い始める。

 家族は皆、気持ちの向きは全然違うけれど、それぞれの形で祖母の菊枝を大事に思っている。もう、いつもは通子のことも判別がつかず、ベッドの上から動けない菊枝。最も弱い存在だからこそ、彼女は皆のつながりを強める。言うなれば、菊枝の「て」が、家族全員を呼び寄せたのだ。

 菊枝だけではない。本当は父=夫のことだって、ある面では皆、大事に思っているに違いない。いくら腐っても父=夫なのだ。憎しみやわだかまりがあっても、普段はまったく別々に暮らしていても、否応なく一つのくくりとしてつながっている。それが家族というシステムなのだ。その意味では、僕の家族もあなたの家族も、この家族と大して変わらないだろう。

 言い忘れていたが、葬儀を執り行う神父と葬儀屋を別とすると、このお芝居にはひとり、家族ではない人物が登場する。次郎の友達、前田君だ。前田君はほとんど何もしない。ただ、僕らとともにこの家族を見守っている。ほぼ観客といってもいいくらいの存在で、この舞台上にいる観客のおかげで、僕らはずいぶんこの家族を眺めやすくなっている。

 今、前田君とともにこの家族の物語を頭の中でもう一度観ながら、連想したのは自分の家族のことだ。数ヶ月前、僕の祖母が亡くなった。けっこう急なことだったのだけれど、上海で働いている従姉妹がちょうど帰省中だったこともあり、偶然に偶然が重なって、地元の北海道・釧路市に祖母の孫9人全員が揃った。今や誰一人、北海道にすら住んでいないのに、である。約20年ぶりのことだ。

 僕の祖母も菊枝と同じようにここ数年はボケていて、最期は母のことすらよくわからなくなっていた。だがやはり菊枝と同じように、祖母の「て」が僕らを呼び寄せたのだ。僕の家族も、こうしてつながっている。

 こういう「複眼的」なお芝居がもっと増えたらいい。というよりも、きっと増えるだろう。(僕が知らないだけで、もうとっくにたくさんあるのかもしれない。)複眼的な物語は、何かを決めつけたりしない。その代わりに、何かの実情を多くの視点から観客に提示する。観客は自分の身に置き換えて、いろいろと想いを巡らす。中には、何か行動を起こす人も出て来るだろう。『て』のような複眼的な物語は、優れたコミュニケーションツールであると思う。
(2013年6月1日14:00の回 観劇)

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