ハイバイ「て」

8.業としての家族(鉢村優)

 物語は二度、視点を変えて描かれる。抜け落ちているストーリー、ひとつの事実に対して生まれた考え方や出来事が、異なる登場人物を通して少しずつ明らかにされる。
 輻輳する時間軸と場を暗示する装置として大道具は機能し、あるいはその最たるものは「おばあちゃん」井上菊枝なのかもしれない。菊枝のベッドは場に合わせて移動し、主となる視点が変わったことを知らせる。天井から吊るされた梁も場にあわせて様子を変える。諍いのシーンで傾いているそれは、家族の関係性の危うさを暗示するのだろうか。

 少しずつ明らかにされるエピソードは家族の衝突やすれちがいの核となる。観客はすべてのエピソードを経験し、ぶつかり合う家族それぞれの行動の背景を理解する。出来事は一つだ。しかし、当事者によって、見つめる横顔は異なる。そのいずれも真実である。

 父親の暴虐が諸悪の根源のように見えるが、それによって子が屈折してしまった、という筋は物語の横糸に過ぎない。コミカルな描写の救いを交えながら生々しく見つめられるのは、家族という関係がその本性として持っている業、そして人間のエゴイズムの哀れさである。家族は血として、環境として人間を大きく規定する。人格の構成要素を共有する家族は個人の、精神が健全に生き延びる上で最大の可能性を内包しており、その事実が人を凶暴化させる。

 家族は物理的に、あるいは制度的に離れても帳消しにできない関係である。通子は夫をなじる。「別れて、別々になったら、今までのそういうのは全部無くなったことになるの? 皆我慢したこととか、私が散々あなたにされたこととか」「これでもかってくらい独りぼっちになって、(中略)自分が誰だかも分からなくなって、最後に、死ね!」…これが通子から夫への最大の復讐として発されている。
 それが人間にとって根源的な願い、精神の生死に関わる願いの剥奪だからだ。自分という存在を受け止めてほしい、独りでは居たくない、共感してほしいという願い。

 家族という関係の特性として、社会的には長期にわたって同じ体験を共有する点があげられる。生物的にも、近似した要素から成り立っている。共にゼロからスタートした兄弟姉妹は、似通った生物的素養の上に同じような体験を重ねて成長することによって、似た価値観が形成される傾向にある。付き合いが長いために、相手の思考回路も帰納的に知っている。
 こうした性質を踏まえて家族は、とりわけ兄弟姉妹は、互いの存在を理解できると思っている。それだけに、相手の行動が理解できないとき、共感してくれないとき、その失望は深い。

 カラオケの場面。場を盛り上げようとマイクを握る次郎を太郎がねじ伏せ、黙らせる。次郎から見れば理不尽で、怒りを感じずにいられない行為である。しかし太郎の視点を経て明らかになるのは、この行動は父親の歌を聞きたいがためであった、ということである。

 「ホーテルはリバーサイ」の節を父親がどう歌うか知りたいという欲求。一見どうしようもない理由が次郎と太郎の間にわだかまりを生む。しかしその願いは切実なものだ。目を合わせるのも嫌な憎い父親。理解したくなどないはずなのに、知ろうとせずにはいられない。
 それは、自分がそこから生まれたから。自分が誰なのか、なぜこんなにわだかまりに満ちた家族なのか、なぜ家族は壊れてしまうのか。衝突の芽はどこから生まれたのか。痛めつけられた記憶は消えないし、「理解することなんてとうの昔に諦めた」と太郎は言う。それでも親を、家族を知りたいと思わずにはいられないのである。それは血と環境として原点である、家族という関係が背負った業。

 それは精神的に命がけの、残酷な姿である。父親の「俺は寂しいんだ」という台詞の連呼。共感者、精神的な同伴者を求めることは人間の素朴な欲求である。なぜ人間は理解者なくしては生きていけないのか…少なくとも、その願いは精神的な生死に関わるものであり、それゆえ激しい暴力性を持つ。それを具現化したのがこの父親である。

 理不尽に殴られたとなじる次郎に、父親は愛しているから殴ったのだと答える。それは自己から生まれた者への生物的な限りない愛着と、根源を同じくしている者に対して共感を強制する人間精神の、悲しい合一の形である。にわかには信じがたい愛と暴力の一致は、誰にも内在するエゴイズムである。構成要素を同じくする者は自分とほぼ同一で、だから自分を理解してくれるに違いない、という幻想。

 しかしその素朴で切実な願いを、誰が非難することができよう。固く閉ざされた扉を前に、そして無理解という精神の死を背後にして、扉の奥には共感があると信じ、相手の扉か、あるいは自分の拳が壊れるまで叩き続けるのだ。

 物語がループするたびに現れる、菊枝の葬儀で太郎が号泣したことを巡る会話。意味深にクローズアップされる四兄妹による出棺。終幕で描かれる一家全員での火葬場への送り出し。明朗な大団円になどなりようがない。なぜならこの戯曲で描かれるのは精神的な同伴者を求める、人間の生命をかけたエゴイズム、その暴力性、そしてそれを極大化する家族という関係の業だからだ。それでも、和解と共感の可能性が言葉少なに示唆される救いのいかに大きなことか。精神の孤独ほど深い残酷は、ない。
(2013年6月1日14:00の回 観劇)

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