東京芸術劇場「ストリッパー物語」(作:つかこうへい 構成・演出:三浦大輔)

 どうしようもない孤独。
幼い時分、バレエで才能を輝かせた明美がなぜストリッパーにならなければならなかったのか。それが語られることはない。明美が体現するのは痛ましいまでの気丈さ、己の運命を引き受ける凄み。

 盛りを過ぎたストリッパー明美とそのヒモ、シゲ。旅の一座を率いる明美は自分が踊り子として魅力を失っていることを知っている。彼女の周りには幾人もの男が登場する。明美に想いを寄せる法学生、照明方の正輝。明美を欲望の対象とする男も数限りなく現れる。彼らを差し向けたのは誰あろう、シゲ。

 明美の稼ぎで暮らし、何をするでもなくブラブラしているシゲ。彼には「ヒモ道」があるという。それが何なのか、一座の他のヒモには分からない。一見それは、ひたすら情婦にすがり、言いなりになって甘い言葉をささやくことのようである。事実、シゲ以外のヒモはストリッパーに寄生し、足蹴にされながら楽屋で情婦への愚痴を言い合って暮らしている。

 しかし、シゲの「ヒモ道」は常軌を逸している。不可解なほど凄惨に人間を抉る。

 シゲは明美をありとあらゆる手段で絶望へと追いやる。明美に想いを寄せる若い男を差し向け、夢も希望もないストリップの生活から救済される夢を見せる。しかしすべては惨めに裏切られる。シゲは欲情にまみれた男を誘い、明美に相手をさせる。最大の裏切りは明美に子供を生むことを阻みながら、自分には娘がいたということ。明美はそれでも「シゲさんは私にとってかけがえのない人なの」と言う。惨めな自分を必ず受け入れてくれる、どこにも逃げていかない、と。

 バタイユによれば、人間は意識の目覚めによって個として確立し、それゆえ孤独を背負ってしまった。皮膚と意識とによって一人に分断されてしまった人格は、群れに回帰することを欲していると。個としての意識を超越し、他の意識と溶解したいという願い。より実感を伴う表現をするならば、人間は誰かに愛され、認知されることを求める。ホモ・サピエンス、社会的存在とはそのようなことになろうか。

 孤独な人間は、堪えかねて他者との溶解を求める。溶解の究極の形が死、つまり、精神も肉体も、世界の大きな物質のなかに溶けていくことである。それゆえ死は古来より、大きな誘惑なのだとバタイユは解く。自己の遍在、彼我の境の消失。それは梵我一如の思想に似ていて興味深いが、今回は深入りせずに置こう。

 溶解のプロセスにおいて、暴力は確固とした生の形態を破壊し、他との溶解を準備する。暴力は個と個を隔てる境界を曖昧にすることで、傷ついた者同士の溶解を可能にするのである。こうしてバタイユは人間の本来的孤独の暴力と性に対する親和性を明らかにする。両者はともに、本来的孤独からの脱出において決定的な役割を果たすことになる。

 生きて本来的孤独を脱出するには、別の固体と溶解し、ともに同一の感覚を共有することである。抱き合い、ふれあい、互いを感じて受け容れあうことは、他のどんなコミュニケーションよりも、存在の溶解に近しい。また生殖によって己と半分同じ存在を顕現させることは、一歩進んで孤独を薄める。

 シゲの「ヒモ道」とは、人格の溶解を目指した極端な暴力性である。明美を追いつめ、絶望させることがシゲのヒモ道。絶望し、正体もなくなるほど傷つき、それによって、尋常ではありえない度合いでシゲと溶け合う。暴力のプロセスを経て明美は、シゲとの人格の溶解を深め、孤独から救われている。シゲは明美の人格を包んでいる皮膚ををずたずたにしているが、それは彼女の自信であり、尊厳である。

 個として自立した精神の壁を壊すことで、人格同士の隔たりを超越可能な低さにしようという意思はまさにバタイユのいう暴力に等しい。バタイユの言葉を借りれば「二つの存在が混ざり合う融合を準備」している。

 それはただ、肉体感覚を通じてだけではない。

 明美がシゲの娘と出会い、彼女をアメリカへと送り出したシーン。ダンサーを目指す決意と明美への感謝をつづる手紙の朗読の中、暗闇の舞台では性行為が演じられる。それは明美と、おそらくはシゲの娘。

 明美はアメリカでダンス修行をするシゲの娘・美智子に仕送りを始める。最後には売春まで行い、その結果梅毒に精神が蝕まれても、美智子のことを叫んでいる。明美がここまで美智子に執着するのは彼女に自分を重ねているからである。踊りの才能がありながら、何らかの理由により挫折し、叶わなかった、転落するしかなかった自分の失われた将来を彼女に託している。

 こう見ると話は陳腐だ。しかしこのエピソードは人間の孤独と、性行為の本質を掘り下げるためにある。明美は娘に自分の果たしえぬ希望を重ね、シゲと明美はひたすら体を重ねる。一見、片方は希望に満ち、片方は退廃的なこの2つは、本質的には同じことである。存在の溶解を橋掛かりとして、明美の孤独は救済されているのだ。

 シゲは明美を利用し、苦しめ、破滅させるろくでなしである。しかし同時に、単なるろくでなしでもない。想いを寄せる正輝に対して明美は「一生、私と同じ地獄見る覚悟あるの。それがないのに愛してるなんて言わないの」と諭す。一座のヒモたちも、口ではいいことを言いながら、結局逃げてしまう。それぞれの情婦が抱えたどうしようもない生を、一緒に引き受けようとはしない。

 とんでもない男であっても、シゲは明美を捨てない。極悪非道のろくでなしと呼ばれながら、最後まで明美の元を去ることはないのだ。「一緒に地獄見るしかねえんだよ」冒頭につぶやかれる台詞が核心をにおわせ、異常な凄みをもってシゲと明美の関係は存在している。退廃的な快楽に溺れているようでいて、2人は極めてプラトニックである。それは純粋に精神的な側面を持っているから。

 愛することは溶解すること、存在として合一することである。合一すれば、相手の宿命は我がものとなり、そのくびきを自ら負わねばならぬ。ストリッパー物語において、性行為のモチーフは人格が溶解する契機として存在しており、先に述べた明美と美智子の描写はこの認識を踏まえている。そこから、二人がダンサーという存在において合一したことを象徴的に読み取ることができる。

 凱旋公演で帰国した美智子を幻に見て、明美は手を伸ばす。しかしはたと正気に返って「だめだよ、順番だよ」と言う。順番とは、何か。より高度な合一である死に向かいながら、明美は美智子を求める。しかし先に行かねばならないのだ。

 ここで明美は美智子に語りかけるように見えて、彼女と合一した自分に語りかけている。「だめだよ、順番だよ」とは、ダンサーとして合一した娘と己とを切り離し、孤独を経由して、太古からの人間存在の海へ一足先に還っていこうとする明美の別れの言葉である。いつか再び、同じ海で溶解できることを願いながら。
(2013年7月18日19:00の回観劇)


3.刹那さを消せやしない(槌谷昭人)

「東京芸術劇場「ストリッパー物語」(作:つかこうへい 構成・演出:三浦大輔)」への2件のフィードバック

    1. 早い話が、
      チケットを
      Getするには‼️
      どうしたら
      良い、
      ので、しょうか?
      ちなみにポストを、
      足蹴にした
      ポスターでした。
      が、
      間違いないですか?
      以上。

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