キリンバズウカ「マチワビ」

1.「水戸黄門」の魅力と限界(米川青馬)

 今回、キリンバズウカ『マチワビ』を観て真っ先に思い出したのは、子ども時代によく観た『水戸黄門』だった。特に終幕、悪い人が退治され、良い人たちが皆、収まるべきところにきちんと収まった結末に『水戸黄門』を久々に味わった。

 子どもの頃、なぜか『水戸黄門』が大好きだった。思い返すと、「型通り」に進むことがとにかく魅力的だったらしい。序盤にどんな事件が起こっても、決まった時間に必ず印籠が出され、最後には悪人が退治される。そしてまた次の旅へと出かけていく。そのお決まりの展開がただただ気持ちよかったのである。

「物語の型」には、子どもの頃の僕だけでなく、人を惹きつけて止まない力がある。古今東西、多数の人が熱狂してきた物語は、ほとんどが何らかの「型」に則って書かれている。(それを解明してきたのは有名な「英雄伝説の型」を解き明かしたジョセフ・キャンベルをはじめとする神話学や物語学の人々、それにハリウッドなどだが、その詳細はここでは措いておく。)

 『水戸黄門』はもちろんのこと、その後に夢中になる『キン肉マン』も『キャプテン翼』も、さらに例を挙げれば『ガラスの仮面』も『男はつらいよ』も『あまちゃん』も『半沢直樹』も、ほとんどの物語は何らかの「型」を使っている。どんな前衛作品であっても、型から外れるのは難しいだろう。

 その点、『マチワビ』は、かなり綺麗に型に則っていた。

 ごく大雑把にストーリーを追うと、『マチワビ』の三姉妹は事件に巻き込まれ、苦労して解決し、新たな関係のもとで日常に戻っていった。それは典型的な「英雄伝説の型」であり、そこには関係の緊張が徐々に強まって、最後に緊張から解放されることによるカタルシスが確かにあった。型をきちんと守っているという点では、『マチワビ』はかなり安心して観ていられた。仕事帰りなどに来て、ちょっと良い気分になって帰って行くにはほどよいお芝居ではないかと思う。

 しかし逆に言えば、まったくと言っていいほど「逸脱」がないお芝居でもあった。「型に対する疑い」などは何ら感じられなかった。それどころか、型への意識があまり高くなかった。正直に言って、その点には物足りなさも覚えている。

 現代の物語の要諦は、「型の利用」と「型からの逸脱」にあるように思う。型通りの物語などすでに世の中に溢れているわけだから、新たにつくっても、よほど何か特徴があるとか、タイミングがよくない限り、世間に埋没するだけだ。しかしだからといって、型に則らずに物語をつくるのは難しい。それほどに物語の型の力は強靭である。そこで、いかに型を利用するか。いかに型から逸脱するか。そして、その利用や逸脱にどのような意志と意味を込めるかが、現代の脚本家や作家の腕の見せどころとなっている。

 その点、『半沢直樹』は本来埋没してもおかしくないような物語だが、役者の力が素晴らしかった上に、恐ろしいほどタイミングが的を射ていたように思う。対して、『あまちゃん』は型の利用と型からの逸脱という意味でかなり前衛的だった。

 また、時代としてはもうとっくに古典なのに、いまだに人気が高く、舞台でもときおり取り上げられるカフカの作品は、型の利用と逸脱を重ねている点に特徴がある。

 『変身』では、主人公がある朝、虫になる。それはある意味でとても「メルヘンチック」である。人が動物などに変身するというのは童話や寓話の典型的なやり方だ。しかし、その童話の方法を現実的なお話に適用して、しかも気持ちの悪い虫にしてしまったことで、表現が際立った。この見事な「型の利用」から見えてくるのは、「ある朝、突然病気になったり、犯罪者になったりしているかもしれない」という現代人の決して拭いきれない不安である。カフカはそこを極めて方法的に表現した。

 その意味で、観劇後、個人的に『マチワビ』と比較してしまったのは、その1週間前に観た松尾スズキ作/演出の『悪霊—下女の恋—である。このお芝居では最終的に(おそらく)4人の登場人物が残るのだが、全員が「まったく救いのない状況」に陥る。どう考えても、各々、これから生きていくのが辛いだろうなとしか思えない終わり方なのである。あれほど恐ろしい物語は他になかなかないと思うが、その怖さの出所は「型からの逸脱」にある。

 喜劇はもちろん悲劇であっても、物語は収まるべきところに収まって終わるのが基本で、 たとえば『ロミオとジュリエット』なら2人の死で「収まって」おり、そこには悲劇ならではのカタルシスがあるが、『悪霊』は4人の生がどこにも「収まっていない」のだ。この「型からの逸脱」は心底怖いことである。なぜなら、現実の人生には「収まらない悲劇」こそが無数にあり、カタルシスなどは滅多にない。本当は、きちんと収まるよりも、ほとんど収まらないほうが現実的なのである。そして、収まらない悲劇こそ、本当の悲劇である。松尾は『悪霊』でその点に迫った。この「型からの逸脱」には、松尾の明確な意志と意味を感じることができる。

 翻ってみると、『マチワビ』には型を利用しようとする意志や型を逸脱する意図は特に感じられなかった。型を疑うことなく、型に沿って書かれ、型に沿って演じられているように見えた。意図が感じられないため、物語のメッセージも特段読み取れなかった。それどころか、型自体もぼんやりとしか意識されていなかったように思えた。ファンタジーの舞台なのか、現実的な舞台なのか、どっちつかずで曖昧模糊としていた。

 型に対する疑いのなさ、意識のなさは、細かいところにも見られた。たとえば、三姉妹はそれぞれ「超能力」を使えるが、その超能力は「物を曲げる」「予知する」「テレポーテーション」とごくごく型通りだった。超能力というのは「ないもの」なのだから勝手に創造してもよく、そのような細部に意味や意志や遊びを入れるのが今の多くの脚本家の方法だと思うが、そういったところもごくごく常識的で穏やかだった。

 無論、『水戸黄門』のような舞台が観たいと劇場に足を運ぶ人も多くいるわけで、それを否定するつもりは毛頭ない。先にも言ったように、何かちょっと良い気分になって帰るにはほどよい舞台だと思う。僕自身も懐かしい気分で観劇した面もある。ただ、『水戸黄門』が大好きだった頃は遥か遠くなり、多種多様な物語に耽溺してきてしまった者としては、物語の型をそのままぼんやりと見せられただけでは物足りないのである。舞台の前まで来た以上、できることなら考え込ませるような何かを持ち帰りたいのである。
(2013年9月24日 19:30の回 観劇)

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