キリンバズウカ「マチワビ」

3.「おんなじ」になりたかった少女へ(仲野マリ)

 東京からちょっと離れた田舎町。鳴り物入りで開園した遊園地があったが、今はさびれ、閉鎖されている。この町に住むミエダ家の3人姉妹が物語の中心だ。

 次女マイコは、かつて超能力少女としてマスコミをにぎわせ一世を風靡したものの、人気が翳ると捨てられ忘れられ、傷ついて戻ってきた。三女チエは姉マイコにライバル心を燃やし、東京に強い憧れを持ち、いつか自分もスターになることを夢見、スカウトされるため毎日のように数時間かけて東京にアルバイトしに行く。長女ユミコは両親の死後、妹たちを親代わりに育ててきた。田舎町けっこう、結婚しないでけっこう、と、自分の人生はとうにあきらめたごときオプティミズムで生きている。

 この三姉妹に、閉園した遊園地の前で財布と携帯を落としたという男マツウラ、マイコのことが昔から好きで、ずっとプロポーズのチャンスをうかがっている幼馴染の青年アキ、マイコを超能力少女として売り出した芸能事務所の男ムコウジマがからみ、三姉妹の秘密が明らかになっていく。

 遊園地前の夜のベンチで始まる場面は別役実ワールドを連想させたものの、その後の展開はどこにでもありそうな設定で、どこかで聞いたことのある会話とオチが満載の、いわば品のいいコントといった風情を感じるばかりだった。それは彼らのやりたいことなのではあるだろうが、新しいことではないと感じた。私はキリンバズウカという劇団の公演を初めて見るので、彼らの舞台は常にこういうテイストなのかどうかはわからないが、今回の公演「マチワビ」を、心から楽しむことはできなかった。

 自分が若い演劇人の注目作品を観るとき、当然のように「今までにない」「見たことのない」「常識を覆した」「今の若い人でなければ考えられない」ものを期待していたことを、今回改めて自覚させられたとも言える。もちろん、「若い人が作るなら斬新なものや、意表をついたものでなければ価値がない」と考えているわけではない。たとえ使い古された手法であっても、言わんとすることが今につながり、人の心理の奥底を深くえぐって描写されていれば、どんなに既視感におそわれようと心がざわつくものである。それがたった1つのセリフであっても。

 だから「マチワビ」の最大の弱点は、見せ方の古い新しいではないのではないか。最大の弱点は、登場人物があまりにステレオタイプに過ぎ、話の筋が見えてしまったところである。ナゾの男はやっぱり自殺志願だったし、次女はやっぱりそれを感知していたし、三女はやっぱり一番力が強かったし、東京からやってきた芸能事務所の人間は、やっぱり悪い人だった。

 もう一つ、登場人物への感情移入を阻んだものがある。それは私の道徳観だ。

 アキは「超能力が戻ってきた」という自信をマイコに取り戻してほしいがために、現金入りのバッグをわざと落としていろいろと画策する。ところがマイコと2人で見つけるはずだったそのバッグを、警官が先に発見してしまったことから始まるドタバタ。アキはマイコを傷つけないために本当のことを言わず、何度も警官にウソをつき、ニセの引き取り人まで仕立てる。こうしたアキの行動を、ここまで念入りに描写する理由が、私は腑に落ちなかった。

 「落し物」の現金入りバッグを他人に取りに行かせる、つまり落とし主だと偽って返却してもらうという部分をあそこまで念入りに描写する理由は何なのか。要はストーリー展開の次の布石として、マイコの超能力復活を世間に知れわたらせる必要があったわけなのだから、ここまで法律に反したことを意図的に登場人物にやらせなくても、もっと違う対処法が(演劇的に)あったのではないかと思う。

 そもそも、いくら好きな女の子を励まそうといっても、戻っていない力(とアキは思っているからこそヤラセをする)を戻っているように見せかけることは、かえってプライドを傷つけたり自信を喪失させたりするのではないか? そういう逆説的な見方一つ、物語の中に仕込んでいない点が非常に気になった。優等生的な答えにしろとか、単純な勧善懲悪が必要ということではない。一方的な意見しか引き受けられない物語は、表層的になると言っているのである。

 単なる「コント」であれば、警察官がどんなに間抜けでも、どんなに法律をないがしろにしても、人が消えていなくなっても、笑って拍手して見ていられるかもしれない。しかし、この舞台は基本的に「リアリズム」で作られている。お笑いコントにしては風刺が効いていないし、演劇にしては、底が浅い。芸能界の光と影、若者の自殺問題、地方都市の過疎問題、超能力、家族のあつれき、職場にはびこる暴力、と現代的な問題をたくさん入れ込んでいても、その一つひとつと徹底的に向き合っては作られていないのだ。

 特に、超能力を持つ人間であることへの掘り下げが不十分であると感じた。マイコの話は「超能力者」としてではなく、「タレント」や「人気者」として賞味期限切れで捨てられる辛さに終始してしまったきらいがある。つまり「超能力がなくなる」寂しさは描いても、「超能力を持つ」つらさが描けていないのだ。

 「田舎町」の描写もしかり。一般に閉鎖的といわれる田舎で、父親が突然失踪し、二女は超能力者だというミエダ家を、周囲の人々はどんなふうに見ていたのか。友人たちは優しかったとしても、「田舎町」全体ではどうか。純朴な人々が、両親を亡くした三姉妹を温かく見守るという設定が一面的すぎる。だから長女ユミコが三女マイコにつぶやく「あんたはフツウだから」というセリフも、いろいろに解釈できるセリフのはずなのに、ただ流れて過ぎていってしまう。

 対外的な部分だけにとどまらない。ユミコはマイコだけでなく自分にも超能力があることを自覚していた。失踪の瞬間はわからなくても、長じてから「(父親が消えたのは)もしや自分のせいでは?」あるいは「妹のせいでは?」といぶかる気持ちはみじんもなかったのだろうか。チエも、自分が「フツウ」どころか尋常ではない超能力を有することを自覚したとき、その重さを重さとして引き受けるシーンが欲しかった。

 結果的に、ムコウジマは元気で樹海で発見され、父親はただ単に女をつくって出て行っただけとわかるオチになっているが、このあっけらかんさで全部帳消しにできるというメンタリティーに、私はついていけない。

 チエはもう小学生ではないのだ。自分に人を瞬間移動させてしまう超能力があるとわかったとき、考えることが「よかった、私もおねえちゃんとおんなじだった!」だけでは済まされないのではないか。

 チエはまだ、自分の能力をコントロールできない。超能力を持ちながら、日常生活をいかに「フツウ」に生きていくか。これまで見えない疎外感に苦しんでいた末っ子に、今こそ長女や次女がこれまでの人生を振り返って伝えられる。超能力者の先輩として、アドバイスができるはずだ。そこまでしっかりと「フツウじゃない三姉妹」の光と影を描ききっていれば、「ふつう」の「人のよい」「田舎の」男たちの良さが、もっと引き立ったのではないだろうかと思う。

 私が唯一この舞台で感心したのは、三女が「幼い私」を人形でのパフォーマンスで表現した部分だ。数日前に文楽人形を触らせてもらった直後の観劇だったこともあり、左手を人形の背中に入れて遣う正当なやり方に、日本の舞台芸能の伝統のDNAを感じた。
(2013年9月20日19:30の回観劇)

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