キリンバズウカ「マチワビ」

7.三姉妹ものにしてSFファンタジー(小泉うめ)

 どれくらいリスナーがいるのかよく分からないようなコミュニティFM、客が来ているのかどうかよく分からないような映画館、そんなものが並ぶ町。かつては賑わった遊園地は閉鎖されており、ひょっとすると町自体がなくなっても誰も気にも留めないような町。けれども住んでいる人々は意外と若くて、まだまだ未来の可能性のある人々が、未来の自分を描けないままに暮らしている町。

 キリンバズウカの2年ぶりの公演「マチワビ」はそんな町を舞台に描かれた。前作「MATCH UP POMP」の舞台も似たような町だった。作・演出の登米裕一は島根県の出身で、大阪で大学在学中にキリンバズウカを旗揚げして、その後東京に進出している。彼の作品に現れるこのような原風景は一体どこのものなのだろうか。それを特定することはできないが、今の日本に暮らす者ならば、誰もがなんとなくはイメージできるような、どこかにありそうな町である。
 そこで人々はそれぞれに懸命生きている。けれどもそれはなかなか報われない生活である。もう変わることもできないような、そんな侘しい町を変えるのは、奇跡なのか、それとも。

 この物語は、いわゆる三姉妹ものである。この構造を最初に発明したのは、「三人姉妹」のチェーホフだろうか。昨今ではケラリーノ・サンドロビッチがこれの名手であり、「祈りと怪物〜ウィルヴィルの三姉妹」や先日再演された「わが闇」を思い出す。その特徴を思い切って紐解いてしまうと、以下のようなものかと思う。

 三姉妹が何らかの理由で親をなくすか疎遠になって、自分達で助け合いながら暮らしている。自分のことを犠牲にしながらも家族を守るしっかりものの長女。才色を兼ね備え幸福そうに見えながらも何か心に影を抱えている次女。末っ子として可愛いがられて育てられ奔放でありながらも姉達にコンプレックスを抱えている三女。そして、つつましやかな三人の生活の中に、新しい部外者が入って来ることによって「事件」が起こる。一応の安定を保っていたそれぞれの心情が動き始め、その関係に影響を与えながら、抑制されていた内面が表出して、人間の心の奥底にあるものが観客に見えてくるという仕掛けである。

 観客はそれぞれの振る舞いに、共感や反発の感情を起こし、それを膨らませながら物語に引き込まれていく。
 またこの方法によって、1人で表現するには複雑すぎる「女性」そして「人間」という生き物を、分割して見せることで、その特性を多面的に見せることが可能になる。
 特に次女という位置付けは、厳しくされることも2番目、甘やかされることも2番目という処遇により、どうしても情緒を不安定に追いやられることになる。これは教育心理学の場面でもしばしばテーマにされる課題であるが、人間の心の葛藤を分析する上で重要な役割を果たし、ドラマの中に描けばとても興味深い存在となる。

 男三兄弟ものというのもあるにはあるが、やはり女三姉妹の物語の方が、かしましく華やかさにも事欠かない。大概にして悲しいエピソードを孕む物語になるのだが、この構造で展開していくことによって同時に女性の繊細さも強さも際立って見える。

 そして、もう一つの三姉妹ものの特徴は、三人芝居とは異なり、三人それぞれに別の人間関係が関わることにより、群像劇的に描かれていくことである。それによって、更にこの三人の存在が明確になり、最終的には物語の主題を浮かび上がらせる。

 さて、この三姉妹ものを実現するために重要なことは、個性的な演技と容姿の役者が舞台上にそろうことである。それがなければ、各登場人物の存在はぼやけてしまい、観客は複雑な人間関係に混乱するだけで上演時間が終わってしまうことにもなりかねない。
 しかし、その点で、キリンバズウカはとてもキャスティングが上手い。登米は外部団体への作品提供や演出も積極的に取り組んでおり、いつも広い範囲から役者を集めて来る。今回もクロムモリブデンから森下亮、柿喰う客から永島敬三、あひるなんちゃらからフリーになった黒岩美佳、国分寺大人倶楽部の後藤剛範らの好演が作品を支えた。
 劇中で、母親の声として池谷のぶえのナレーションが聞こえてきて驚いたが、そういう所からも登米の持つネットワークの広さと強さが感じられる。

 舞台装置は、中央に回転するセットを据えて遊園地のベンチや三姉妹のミエダ家のリビングを交互に見せながら、左右に路地や喫茶店それにDJブースなどを細かく区割りして配置して、観客に目で追わせながら演技する。小劇場界では比較的大きな装置を使うこともキリンバズウカの特徴で、かねてからシアターイーストで観てみたい団体の一つであった。芸劇eyesという企画は「今後の演劇・舞踊界をリードしていく、主として若手・中堅の劇団・カンパニーまたは演出家による作品」を取り上げていくとしているので、今後も客席数と観客動員の関係だけにとらわれることなく、彼らのようなそれに相応しい団体を紹介して欲しいと思う。

 また本公演から、こいけけいこと日栄洋祐がメンバーに加わり、団体も正式に劇団となった。作品を創って行く上で、核となるメンバーを持って、継続的に時間と場所を共有していけることは大きな強みになるので、これからの作品も一層に楽しみになっている。

 閉演された遊園地でベンチに三姉妹の次女マイコ(加藤理恵)が座っているところに、マツウラ(永島敬三)という男が現れる。彼が財布や携帯電話を入れた鞄を落としてしまったといって話しかけて来る場面から物語が始まる。

 結婚していながらも鬱々とした日々を過ごしている次女マーシャの前に、陸軍中佐ヴェルシーニンが現れ、二人は道ならぬ恋に落ちていく。そんなチェーホフの「三人姉妹」のシーンが重なって見えて、観劇中から三姉妹ものについて考えていた。

 マイコは15年前に予知能力者としてテレビでも人気者になったが、夢によるその予知能力は次第に世間が知りたい未来を知らせることが少なくなり、今はその能力もあるのかないのか分からなくなっている。
 パン屋で働いている幼なじみのアキ(上鶴徹)はマイコに思いを寄せているが、マイコの予知夢では「アキと一緒にいる未来が見えない」と言われている。そういうフラレ文句は時々あるが、予知能力者のそれは相手を絶望させる。
 そのような予知能力は信用したくなくなるところだが、アキにとってはマイコの存在は絶対であり、その超能力も本物だと信じ込んでいるので、その関係は更に可笑しくも悲しいものになっている。
 はたしてアキの愛情は、そのような壁を打ち破ることが出来るのか、そしてマイコの心に届くのだろうか。

 アキはマイコになんとか自信を取り戻してもらおうと、密かにファンレターを送り続けたりしながら努力していた。そして、それがエスカレートしてマイコの予知夢を正夢にしようとすることで「事件」は起こる。

 超能力は存在するのか。その根本をここで論じることは避けておくが、仮に超能力を「通常の人間にはない、非科学的な能力」とでも定義しておくと、この三姉妹はどうやらその能力を持っているらしい。
 マイコの予知能力を三女のチエ(松永渚)が羨ましく思っているのを知っているユミコ(黒岩美佳)は、実はスプーンを曲げる程度の念動力を持っていることは秘密にしてきた。だが実は、チエも瞬間移動をさせる能力を持っており、それが最後に彼女たちを救う。

 以前マイコが所属していた芸能事務所のムコウジマ(折原アキラ)が、金に困ってマイコを訪ねて来る。それを守ろうとしたマツウラやアキは、ムコウジマの返り討ちに会う。最後に抵抗したチエに、ムコウジマが鉄パイプを持って襲いかかった時、チエが大きな声でマイコを呼ぶと、閃光と共にムコウジマは消えてしまった。

 これによって彼らの平穏は守られ、それぞれの関係も一歩ずつ前進して行くラストを迎えるわけだが、これでこの物語には、もう一つSFファンタジーというカテゴリーが与えられる。登米の作品には、しばしばSF的な要素は盛り込まれており、それは彼の作風の一つでもあるが、本作では最後に彼らを救うものは明確に「超能力」ではない方が良かったような印象を持っている。

 現状のマイコの超能力はあるのかないのかよく分からないものとして展開しているし、ユミコの超能力は周りに大きな影響を与えるものではない程度に留めて表現しているので、そういった伏線も活かすことが出来る。
 かつて超能力でもてはやされたものの、今はそんな過去も忘れられて拠り所を失くしているマイコを救うものが、再び明確に超能力となるよりも、そこは曖昧にして、何か別の力を想像させてくれる方が、物語には現実感が伴い、観た者に実際に生きて行く上での力を教えてくれるような可能性を感じる。また結果的に、その方がファンタジー性も高いように思う。

 さて、ではこのような人々や町を救える力とは、一体どのような力なのであろうか。今改めてそれについて考えている。エスパーではなくても、きっと人間にはそういう状況を打開できるような力が秘められているのだと信じていたい。
(2013年9月21日14:00の回観劇)

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