マームとジプシー「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと———-」

1、喪失と反復、ちっこい、ちゃぶ台、このーーー(小池正之)

カナシサの表現として

 喪ったものは帰ってこない。喪うことはカナシイ。相手が時間を止めてしまったのに、自分たちはそのあともどんどん変化してしまう。これに勝るカナシサはない。前作、『モモのパノラマ』では、私と町の人の成長と変化を、何倍もの速さで年齢を重ねる猫を軸に描き、深い感動を与えてくれた。

 この作品で中心になるのは「家」である。結婚できない兄を残して家を出る姉と妹。父が亡くなり、姉と妹の子供達も成長したころ、道路を作るために家が立ち退きにあうということになった。私たちの家がなくなる、その知らせを聞いてみんなが集まった夏の日の暮れ方がこの作品の始まりである。
 「家」は単なる容れものではなく、いつどこで、どんな出来事があったかと言う記憶とともにある。最後から二つ目のシーンで、上物がなくなって土台だけになった家の各部屋をたどりながら、姉と弟は記憶を確かめていた。昔住んでいた場所は、思ったより小さかったという印象は多くの人にあるものだ。

「ちゃぶ台芝居」30年の変化

 80年代に四畳半にちゃぶ台ひとつ、という設定の作品がよくあった。その多くは四畳半でやさぐれて暮らしている主人公が妄想の中で、様々な経験をして成長してゆくというものであった。
 小劇場ブームという追い風の中、星の数ほどの同じような作品が生まれては消えていった。「ミニシアター」と言う言葉もなく、桟敷席とは名ばかりの、座布団をまき散らしたビルの一室に、ヨイショの掛け声で詰め込めるだけの客を詰め込んで汗と唾が飛び散る時間を共有した。これもまた喪われた時代だ。

 マームの作品は景色としてはこのころの作品たちに似ていると思った。そこにいくばくかのナツカシサさえ感じてしまった。
 ただ、マームの作品ではちゃぶ台は「帰りたい場所」である。かつての芝居はそこからどこかここではない場所へ行くための「出発点」であった。夢覚めて、そこが元の四畳半であったことに気づくところで芝居は終り、主人公のまだ描かれていない物語が始まるのだった。

 マームの作品の最終部分で、家は道路となりもう帰ることができないという事実がつきつけられる。しかしその事実を受け入れるためあえて家族が集まってくる。何もないことを確認することで、帰りたい場所はなくなり喪失が出発となる。懐かしさは家とともに消え旅立ちの時が来る。家は再建されても、もう前のようにみんなが集まることはないだろう。ここは80年代とは違う出発の形がある。
 なつかしさとは未来より過去に重きを置く考え方である。帰りたいのに帰ることができない。未来を信じることもできない。出発は今が嫌だからそうするのではない。今を失ったからに過ぎない。未来を信じるという能天気さはすでにここにはない。

 マームの場合は、15年、16年、20年と言う時間をさかのぼって、いやな現実をもう一度見つめたとしても帰りたいのである。しかしそれは不可能だ。
 一見ふつうに見える人々でも、その人は、自分に抱えることができる重さよりも少し大きな矛盾を抱えて生きている。セリフの多くはささいなことから発生する人と人とのぶつかり合いである。
 また、外見はなにかやさしい(みな、白いオーガニックコットンという、しゃれたパン屋のような格好である)、しかし、その外見とはうらはらに相手の深い部分を突くような執拗なことば満載である。激しい応酬もたくさんある。と、突然そのやり取りは途切れ、静かなやり取りとなる。また静けさから激昂への反復。

 役者にとっては非常にきついくりかえしだろう。見る側にとってはどうか。正視したくないような場面を繰り返し見てしまうことで、激している人物の悲しさ、孤独感が浮かび上がってくる。
 通常であれば時間がたって気持ちが落ち着いてきたときに感じるこれらの想いが、刺激に対する閾域を越え一種の空白ができたときに訪れるのである。父の死の電話を受けるところ、みんなでちゃぶ台を囲んでそうめんを食べるところに特にこのことを感じた。
 はじめ、くりかえしはキュビズムのように正面から見ているにもかかわらず、横顔を見せるための仕掛けではないかと思っていた。しかし、今回この作品を見て、くりかえしとは激昂しているのに悲しい、みんなといるのに孤独だという相反する感情を表すための仕掛けだと思うようになった。

Google Earthのような

 自分は、最初の街の情景を模型や、ハンディカメラで撮っている部分が楽しめなかった。また、そうめんが本物でなければいけないのは分かるが、それを舞台脇で作っているという姿を楽しむことができなかった。ちゃぶ台のシーンにきてようやく楽しむことができた。なぜだろう。

 ここ20年ほどで人間の見方が「目の高さから見る」ものから「鳥瞰図的な見方」に変わってきたということを聞いたことがある。Google Earthなどその典型であろう。緑の地球から我が家の駐車場までマウスひとつでズームできることに驚いたのはついこのあいだのことである。
 この作品はGoogle Earthのように遠景から近景にズームアップし、再び遠景へと引いてゆくということなのだろう。この構成はまさに現代なのだ。

 緑の地球のどこかに、喪われたカナシサを持ちながら生き続ける一族があったとさ…、そういうものさ。これも悪くない。かつてのちゃぶ台芝居との大きな違いは、この静かな諦観ともいえるものではないのか。「こんなやさぐれたどうしようもない世界なんかぶち壊してやる」から「こういうものさ」へという変化。
 あの世界に帰りたいとは思っているが、実はその確かさなど信じてはいない。未来の素晴らしさを信じることもできない。自分が感じたのはその不安に対する違和感かもしれない。

 ちゃぶ台が出てきたところで思わず楽しんでしまったけれど、今は、能天気なちゃぶ台芝居を繰り返すことより、2014年の孤独と諦観ときちんと向き合うことこそ大切かもしれない。まだこの道の行く先は見えてこない。Googleの創業経営者のポリシーはこの世界の変革だという。聞き方によっては傲慢な言葉だ。しかしこの傲慢さが新しい見方を作ってきたのも確かだ。
 2014年の孤独とカナシサを諦観を持って向き合うこと。マームはここに一回深く沈み込んで次に大きなドラマ作りを仕掛けてくるような予感がする。
(2014年6月13日19:30の回観劇)

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