マームとジプシー「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと———-」

7.セピア色の食卓(鈴木七奈子)

 先日、マームとジプシーの「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと———-」を観劇した。劇場に入ってまず目に入るのは、前方に丸く張り出した舞台とスクリーン。前回劇評セミナーの課題になっていた「うまれてないからまだしねない」と同じように、映像を使うようだ。最後列からの観劇。

 「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと———-」は、ある家族とその周囲の人々の一日、そしてそこから見えてくる過去の情景を舞台の中央に置かれた食卓を中心として描く作品だ。家族構成は長女のりり、長男のかえで、末の妹のすいれん。ここにりりの娘・さとこと、すいれんの娘たち・ゆりとかなが連なる。取り壊しが決まった古い家に普段から住んでいるのはかえでだけだが、舞台となっているこの日は家族集合の日。久しぶりに集まる家族たちを迎えるように、いとこや近所に住んでいる人たちも家へと集まってくる。頻繁に出入りを繰り返す人々の朝から夜までを描き、その合間に過去の情景が挟み込まれる。

 過去に戻るシーンで使われていたのが、印象的な台詞の反復だ。同じ台詞を、同じ調子で何度も繰り返すそれは、冒頭スクリーンに登場した終わりのない鉄道模型のように、作品の各所でぐるぐると回る。些細なことをきっかけとして立ち現れる回想は、誰かの記憶の反芻だろう。一向に前に進んでいかない、しかし何度も何度も思い起こされる記憶。久々に目にした古い家と降り続く雨に呼び起されて、それらはやってくる。父の死、りりの旅立ち、すいれんの家族に対する葛藤と妊娠。

 様々な記憶が登場するが、特に印象に残っているシーンがある。父の死の報せを病院から受け取った時のこと。「お父さん亡くなったって」という台詞を繰り返すりりの声が、徐々に湿っぽくなっていったのだ。この声音の変化は、記憶のベールを剥いでいった先にある過去の悲しみへの到達とも取れるし、思い返すことで悲しみが追いついてきた結果とも取れる。思い返されているりりが悲しんでいるのか、思い返しているりりが悲しんでいるのか。両論あるだろうが、私は思い返しているりりが悲しんでいるように思えた。私自身、最近父方の祖母を亡くし、そういった思いを味わったからだ。連絡を受けた直後よりも、それから少しして猛烈な悲しみが襲ってくる感覚。ショッキングな出来事に直面した時、すぐには感情が表れてこない方が私にとってのリアルだったのだ。

 ところでこの回想シーン。場面の中心にいたのはりりとすいれんの姉妹だったように思える。長男のかえでも場面に登場はしているのだが、それはあくまで姉妹の記憶の中に存在するいわば「思い返される対象」であり、「思い返す主体」ではないのだ。記憶に伴う独白が存在するりりと、主体となる記憶の多いすいれんに比べると、かえでの影は薄い。このかえでの影の薄さは、父性の欠如とも取ることができるだろう。かえでだけではない、この舞台には圧倒的に父性というものが欠けているのだ。りりとすいれんにはそれぞれ娘たちがいるが、この三人の父親は舞台に登場しない。すいれんの子供たちに関しては、それぞれの父親が違うという告白もあり、生活状況から見るにすいれんがシングルマザーである可能性もある。りり、かえで、すいれんの父も既に亡くなっている。姉兄妹の母も既に亡くなっているようだったが、りりや近所のふみちゃんが家族の母親代わりとなっているため、母性が欠如しているとは言えない。父親だけが徹底的にその存在を抹消されている。

 だが、この存在を抹消されていた父性が息を吹き返す瞬間がある。それは家が取り壊され、すいれんが「あの食卓は私たちを待ってくれているかな」と未来への不安を口にした時にかえでが発した「いつか絶対に帰ってこられるから、俺が待ってるから」という言葉だ。この時のかえでは一家の大黒柱として、皆をまとめようとしているように見えた。根拠も確証もない、それでも必死に「待っているから」と口にするかえでの姿は、抹消された父性がようやっと発露し始めた瞬間だったのだろう。

 このかえでという登場人物、今回観劇した「ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと———-」の前作に当たる物語から、大きく変貌を遂げた登場人物なのだそうだ。
 前作に登場するかえでは、今作に登場する彼よりも生々しい感情を持ち、父の死に対しても、家の取り壊しに対しても、りりやすいれんと同じように悲しみや抵抗感を持っていたのだという。それに比べると今作のかえでは、自分の感情をあまり出さず、へらへらとした態度で周囲の人物の感情を受け止め、流してやる役割を持っている。受動的で、ある意味での包容力があり、まるで作品に登場する海のような存在だ。そんなかえでがラストシーンで初めて自分の感情を剥き出しにし、目の前にいるりりとすいれんに対してぶつけていく。それまでが受動的だっただけに、この変化は特に印象に残る。私はそこに、母性から父性への転換の美しさを見たような気がした。

 拠り所とする家がなくなっても、家族は家族たり得るのだろうか。この舞台を見ていると思う。取り壊された古い家は道路になり、かえでは新しい家を持つだろう。だがそこは、もう一度家族の集まることができる家なのだろうか。家族は再び家族として再会できるのだろうか。私はそれに対する答えをまだ持たない。高校三年生の時に引っ越しをした。母方の祖母との同居で家族の形は確実に変わり、私は新しい家に慣れる前にそこを出た。もう四年になる。

 しかし今でも夢に見るのは古い家の方で、間取りも部屋の様子も、それこそ劇中のりりのように克明に思い出すことができるのだ。狭くて古い家だったけれど、それでもあそこが実家だったのだと痛感することは多い。家族を包む箱が変わり、そこにいる人たちの姿も変わる。そのことに私が慣れることができるのかどうかは、まだ分からない。あの場所に帰る前に、私はまた新たな出発をしなくてはならないからだ。

 それまでに何人もの人が繰り返してきた営みを私も辿る。しかし、それでも実際にその日が来るとうろたえてしまう。家族から離れ、一人で生きていかなければならない。ふっつりとそれまでの当たり前から切り離されてしまう感覚は、覚悟していても尚、私の心を揺さぶる。思えば祖母が亡くなった時も、実家が他の人の手に渡った時もそうだった。登場人物たちもまたそんな思いを抱えていたのではないのか。彼らを取り巻くのは特別不幸な出来事でもない、ありふれた出来事だ。彼らだって、誰もがいずれ通る道を歩んでいることを知っている。それでもふとした瞬間に思ってしまう。自分は何て遠い場所まで来てしまったのだろう、と。自分の選択に後悔をしている訳ではない、今の生活に満足していない訳ではない。けれど、憧れにも似た切なさで、彼らは記憶を呼び起こす。「振り返ったらいけないのかな」そうつぶやくりりの言葉が響く。

 ここまできて、ふっと浮かんできたイメージがある。沖から遠ざかっていく船だ。母胎という陸から出発し、美しくも危険の多い大海原を進む船は、船員である家族たちを雨風や動物たちから守ってくれる。しかし、その船にも変化は訪れる。搭乗している乗組員が変わっただけではない。大黒柱だった父がいなくなった。やがて船=家そのものも失われてしまった。大海原に放り出された彼らはまた新しい船を作り出すのか、それとも別々に海原を漂い続けるのか。分かっているのは、陸には戻れないということだけだ。然るべき時が来るまで、陸には到着できない。後戻りできない道を彼らは進む。今がその岐路だ。
(2014年6月17日19:30の回観劇)

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