はえぎわ「ハエのように舞い 牛は笑う」

11 蝿の明日(中村直樹)

「牛乳を飲めるようになる」
 ただそれだけがこんなに難しいなんて。成長するための小さな目標。それを一つずつクリアして、ついには大きな目標をクリアする。そして、世界に打って出るのだ。それなのに一つ目すらクリアできない。その足踏みが、地団駄が、それでも動き出せない焦燥が舞台上に溢れてる。

 はえぎわ15周年第27回公演「ハエのように舞い 牛はわらう」は、東京芸術劇場のシアターイーストで2014年8月23日から8月31日まで、計11回上演された。

 舞台装置はとても簡素である。まず目を引くのは左右には置かれた楽器達だ。舞台の奥には障子が配置されており、どこかお座敷のような、家の中にいるような、そんな印象を与えている。後で分かるが、舞台の手前には客席との断絶を示すような奈落が存在している。舞台上は広々としているのに、何処か窮屈な印象を醸し出しているのである。
 そこにゆたか(川上友里)が現れる。手に持っている牛乳を飲もうとする。それも仰々しく飲もうとしている。楽団もそれに合わせて軽快な音楽を奏でる。その『牛乳を飲む』という行為自体がショーであるように観客に見せつけるのだ。しかし飲むことができない。吐き出してしまう。そこに妹のりんか(橘花梨)が現れて、牛乳を難なく飲んでしまう。そして芝居がようやく始まる。

 ここは火山がよく噴火する桜ヶ島。そしてゾンビ映画の聖地である。それは島の住人がゾンビのエキストラをしてくれるので、映画業界がこぞってやってくるからだ。その結果、ゾンビ映画のエキストラだけで生活をできる程の収入を得ている。その島にはゆたかと母親のさきいか(井内ミワク)。離婚の結果、父親と東京で暮らしている妹のりんかがいる。地元のボーリング場を経営しているオーナーの更田知世(笠木泉)とその右腕のウワン(竹口龍茶)、ゾンビのバイトをしている鯉登(滝寛式)とボン(山口航太)、全てを忘れていく兄アキボク(河合克夫)とその兄を連れ戻そうとする弟ハルボク(富川一人)、ゾンビの仮面が脱げなくなった男(町田水城)に、ひたすら自動販売機に飲み物を補充する男(上原聡)、ひたすら悪事を働く女(踊り子あり)、旅行にやってきたカップル(鳥島明と鈴真紀史)、そして謎の生き物ムロタ(町田水城)。

 そのゾンビの聖地である桜ヶ島にゾンビのテーマパークの建設計画が動き出す。そのテーマパークにはボーリング場もできるらしい。更田は必死に対抗策を練ろうとする。ウワンも必死に対抗策を練ろうとしている。だけど、更田はうまい話に乗って流れ着いたウワンを信用できずに追い出してしまう。ウワンは天井から垂れるロープを登っていく。そして、登り着く。そして舞台に丸い穴が開き、そこからウワンが現れる。ウワンは結局堂々めぐりなのだ。

 飲み物を補充する男は誰にも見られていないことに嘆きながら、でも人とは関わらないように自動販売機を毎日巡っている。悪事を働く女は自分の存在をアピールするようにイタズラ書きをする。鯉登とボンはボンの抜けなくなったボーリング玉に翻弄される。たまたま観光にやって来たカップルは行き違いから喧嘩だらけ。何も上手く行っていない。
 ハルボクは行方不明だったアキボクを見つけ、連れて帰ろうとする。しかしアキボクは大切でないものを一つ一つ忘れていき、立ち去ってしまう。
 ハルボクはゾンビの仮面を脱げなくなった男の仮面を脱がそうとする。しかし仮面をかぶるのが楽な男は、脱げることに気がついても脱ごうとはしないのである。
 りんかは久しぶりに会った母親に徹底的に甘える。りんかのお腹には子供がおり、生まれてしまったら母親とならなければいけないからだ。

 彼らはただ目の前の現実に足掻いているだけである。明日が今日よりマシになるように、ただひたすら足掻いている。その状況がなんとも滑稽に描かれている。そんな彼らも意地があるのだ。来る明日がより良いものになるという希望にすがって生きていくのである。
 でも、ゆたかは最後まで牛乳を飲むことができない。結局は今日と変わらない明日がやってくるのである。

 簡素な舞台には障子があるだけである。その前で役者が演じたり、障子の裏で役者の影が演じたりしている。そのためお座敷芸を観ているような印象を受ける。そして火山島の存在だ。火山は年に何度も噴火し、火山灰を島に降らせている。そして島民はゾンビのエキストラを演じているのである。お座敷も、島も閉じた空間。その閉じた空間を火山灰が象徴するようなどんよりとした空気が覆っている。その中を生きているんだか生きていないんだか分からない存在が闊歩しているのだ。なんとも救いのない世界である。作品は生演奏に合わせてこんなに明るいのに、その明るさからは無理をしたもののようで痛々しい。

 ゆたかは自信をつけて東京に行き、大好きな父親に会おうとする。でも、自信をつけるための第一歩である「牛乳を飲むこと」すらできていない。東京で暮らす妹は島に帰ってきて母親に甘える。でも来年には彼女は母となってしまう。ハルボクはアキボクを連れ戻せない。テーマパーク内に最新のボーリング場ができて、皿田とウワンは二進も三進もいかない。行き場のない、重苦しい、どこか腐った臭いが漂っているのである。その中を役者たちがここにいるぞと五月蝿く騒いでいる。それはハエがブンブンと腐臭の周りを飛び回っているような煩わしさ。滑稽さ以上に物悲しさが迫ってくる。

 ハエはいる。では牛はどこだ。タイトルにハエと牛があるのに舞台上に牛がいない。だけど牛のものらしい笑い声が聞こえて来る。その笑い声は劇場の中に響いている。その笑い声はなんと客席にすわる観客から発せられているのである。笑うもの、笑われるもの。その図式を劇場内で見事に表現したと言えるかもしれない。舞台上のハエたちは客席にいる牛がいないものとして振る舞う。牛はそんなハエたちを上から見下ろしているのである。舞台と客席の間に越えられない奈落があるのも、そのためのように思えてくる。そう考えれば、ゆたかがなぜ牛乳を飲めず、飲めたことを想像しただけでもお腹を下してしまうのがわかるというものだ。牛乳は牛の乳。牛になるように育つために与えられるものである。つまり牛乳とは牛として生きていくためのルールそのものなのだ。それを飲み下し、自分の血肉として、ようやく牛として迎えられるのである。それができないものは、腹を下しながらハエにようにブンブン飛び回るしかないのだ。

 なんとも言えない毒を孕んだ作品である。安易に笑ってられない。どうやら私は牛ではなくハエのようだ。役者の演技を笑う他の観客の笑い声が自分にも向けられているようでムカムカする。でも、そんな牛たちへの反逆も示されている。ムロタだ。ゾンビの仮面を脱げなくなった男が演じるムロタ、そしてかつてアキボクだったムロタが牛を貪り食う。ハエでも牛でもない霞を食っているという仙人のようなムロタは、自分という枠から解き放たれた存在なのかもしれない。そういう存在だからこそ、牛をも食らうことができるのである。

「牛乳を飲めるようになる」
 ただそれだけがこんなに難しいなんて。成長するための小さな目標。それを一つづつクリアして、ついには大きな目標をクリアする。そして世界に打って出るのだ。それなのに一つ目すらクリアできない。その足踏みが、地団駄が、動き出せない焦燥が私の心を刺激する。諦めて目を背けていた行き場のなさを突きつけてくる。それは足踏みをし、地団駄を踏み、引きこもっている私自身の姿を鏡のように映し出す。

「なんてぇものを見せやがる」
 行き場のなさを少しでも忘れようと劇場に入ったのに、なんとも苦々しい思いをさせられた。その苦々しさは今だに抜けない。あたかもハエがブンブンと舞っているように煩わしい。
「ああ、なんて五月蝿い」
 焼肉屋にでも行って、美味い牛カルビでも喰ってやる。そのうえで行き場のない腐ったこの世界をブンブンと飛び回ってやるのだ。ハエにだって五分の魂があるのだからな!
(2014年8月30日19:00の回観劇)

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