東京芸術劇場「狂人なおもて往生をとぐ ~昔、僕達は愛した~」

3.意味を超えて、魅了されることの悦楽(酒井はる奈)

 家族崩壊が、こんなに甘美に描かれていいものか。
 今もこの芝居のことを振り返ると、媚薬をたっぷり盛られたような、なにかぼんやりと危険な気持ちになる。
 理屈抜きに、とにかく魅入られてしまう作品だった。

 「狂人とは誰なのか、家族って何なのか」
 本質はそのあたりにあるのではないかと、ストーリーやモチーフを整理して読み解こうとするのだが、どうにも家族がそろって皆、妖艶すぎる。官能的な刺激に満ちた2時間から解放されてぐにゃぐにゃになった頭の中は、命とエロスのイメージに埋め尽くされて焦点を結ばず、考えがまとまらない。
 6人の俳優が楽器のようにつむぐ言葉のイメージが何層にも重なり、軟体動物のようにうねりながら物語は進む。登場人物たちが互いの毛穴まで見えそうな近距離でまさぐりあい、からみあう。台詞のやりとりと同じくらいの頻度と熱量で、体が触れあう場面が多く、見ているこちらがドギマギしてしまうほど。
 ストーリーを夢中で追いかけたが、描かれたテーマが私には深遠すぎて難解すぎて、決して焦点を結んでくれない。ただただ、どこまでも甘い陶酔が残るのみだ。

 この作品の初演は、学生運動やアングラ演劇が隆盛を誇っていた1969年だという。しかも私ですら何度かは名前を聞いたことのある著名な劇作家、清水邦夫の作である。清水の戯曲一覧を見ると、昨年秋に再演された『火のようにさみしい姉がいて』をはじめ、読むだけでゾクゾクするようなタイトルの作品ばかり。こんなタイトルを生み出す人が、あの濃くて熱い時代に書いた台詞が、40年以上の時を経て私の耳にどう響くのだろう? と、大きな期待を抱いて観劇した。

 開演前のステージには、中央にシンプルな形状のペンダントライトが下がり、左奥に中に人が入れるほど大きな柱時計、その隣に女性の靴、舞台右手には2名程度が座れる長椅子があるのみ。古めかしくも洗練され、高価そうな調度品のデザインに、ここが名家の邸宅らしいことが想像できた。長椅子には鮮やかな赤や黄色の花らしきものが束ねられて置かれている。(美術:二村周作)

 そこへ中年の男女と若い男女がひと組ずつ、さらに目隠しされた青年が登場する。若い男女は長椅子に座り、目隠しされた青年は立ったまま柱時計の中に閉じ込められる。中年の男女はペンダントライトの光を妖しいピンク色に切り替え、謎めいたことを語り合う。
 あらすじによると、この2人は主人公の両親のはず。これから始まる物語について、柱時計に閉じ込められた息子について、いったい何を語りだすのだろう? 興味深く2人の動きを追いかけていたら、会話の合間に夫に肩先を触れられた瞬間、妻が急に色っぽい吐息をもらしてドキンとする。

 若くて美しい主人公やヒロインならともかく、そんな若者たちを導くべき両親が、老齢にさしかかった男女が、いきなりこんな性的な雰囲気を出してくるなんて…? と、自分の価値観を幕開け早々からガツンとかち割られたような衝撃を受ける。この作品は、規範とか常識とか、そういう頭の枠をはずして観ないといけないんだなと心するシーンだった。

 やがて柱時計が大きな音で鳴ると、閉じ込められた青年が時計の中から現れ、語り出す。主人公の出(いずる)を演じる福士誠治を舞台で観るのは初めてだが、立ち姿がすらりとして、声も心地よく会場に響きわたって惚れ惚れとする。両親役の中嶋しゅうと鷲尾真知子が生み出した淫靡な空気にすんなり溶け込みつつも、どこか清らかな透明感がある。
 俗と聖が合い混じった不思議なムードは、長女役の緒川たまきにも感じられた。清水が書く、意味があるようでつかめない思わせぶりな台詞の羅列を、福士と緒川が甘くメロディアスに響かせる。その声色としなやかな身のこなしが本当に美しく、聞いていて、見ていて、とにかく心地よかった。
 一方、弟役の葉山奨之とフィアンセ役の門脇麦は、どこまでもまっすぐ強く、良い意味で一本調子な存在感で、福士と緒川が醸し出すコケティッシュな魅力と引き立て合い、ハーモニーを奏でているような印象だった。

 出は、自分たちが「ホームドラマごっこ」をしていると語る。ここは淫売宿で、出入りする関係者が家族のフリをして遊んでいるというのだ。だが彼らは本物の家族であり、出のほかに、姉と弟、両親の5人が揃って暮らし、家族は狂った出の妄想に合わせるように振る舞っていることが明らかになってくる。
 そんなある日、彼らの家を弟のフィアンセが訪れる。横倒しになった柱時計から、まるで棺桶の死人がよみがえるように出が現れ、彼女と語り出す。それを契機に、家族がそれぞれの心の底に閉じ込めていた一家心中の記憶が、暴き出されることになる。

 ポピーの咲き乱れる3月、その忌まわしい日を振り返ると同時に、高く吊られたペンダントライトがするすると下り、柱時計の振り子のように揺れ出す。その前で弟とフィアンセが父母を、父母が出と姉を演じて一家心中のドラマが再現される。このドラマは後半で再び、弟と出、フィアンセと姉がそれぞれ入れ替わる形で演じられた。
 家族が淫売宿の関係者によって演じられているという出の妄想しかり、この作品では、形を変えて何度も家族の役割を「演じさせる」ことで、その意味を徹底的に解体してみせる。役割やポジションをずらしたり、入れ替えたりして、家族をゲームに仕立てることで、凝り固まった概念を壊し、そこに何が残るのかを観客へ問いただしているようにも思えた。

 だが私には、その問いは陳腐なもののように思える。だって家族なんて崩壊するのが当たり前の世の中だもの。理想の家族像なんて半ば幻想だとと分かっていて、それでも何かをつなぎとめたくて皆が自問自答しながら役割を演じる。そんな視点、ありふれすぎてはいないか。
 ただこの作品が生まれた1969年という時代を考えると、この視点はとても斬新だったのだろうな、とも思う。「家族」と「ゲーム」という言葉を並べると、ドラマや映画にもなった本間洋平の小説『家族ゲーム』が思い浮かぶが、この作品の発表は1981年。その十年以上前に、こうした視点で家族を捉えたこの作品は、きっと当時はとても新しかったのだろう。

 むしろ私には、この家族が、役割を入れ替えたり、淫売宿の関係者のフリをしたりしてまで関係性を確かめ、必死で互いの愛情を請い、家族という形を維持しようとするのは何故か? ということが気になった。どこまでも家族を求めてやまない彼らの衝動が、ピンとこないのだ。

 教科書の編集委員をはずされた絶望から痴漢行為にはしり、家族を心中に巻き込む大学教授の父親。教育学の大家で理想も持っているらしいが、自身の子供の心には目もくれようとしない。そして夫や子供の顔色におびえて暮らす母親。上手くいかない世の中に、家庭に、なんとか折り合いをつけることに必死な彼らに、孤独に震える子供達の声は届かない。
 年端もいかない少年少女ならともかく、子どもたちは皆、社会人として独立できる歳にはなっているように見える。大学や料理学校など、外の世界に通じる扉も持っている。それなら自分を殺そうとした親なんて、家族なんて、捨てちゃえばいいのにと思う。しかし出と姉と弟は、家族という狭い世界に閉じこもり、完璧な絆を求めてやまない。
 その執着ぶりに戸惑い、だからとても気になった。

 狂おしいほどに家族を欲する子供たち。悲鳴にも似た思いがピークに達したとき、出と姉は結ばれ、弟はフィアンセを殺し、ついに3人は手をとりあって家を飛び出す。その瞬間、爆発的な音量でガラスが割れる音がし、ペンダントライトは赤く光って振り切れそうに大きく揺れ、3人は床へ倒れた。
 止まった柱時計の振り子を動かして、家族を引き裂いた「一家心中」へと時を戻し、再生を図る試みは失敗した。舞台を覆うのは、未来の予感ではなく死の余韻。彼らにとって家族を捨てるということは、命を投げ出すことと同義だったのか。

 3人が出奔する朝、父親は「ゲームが現実に、現実がゲームになった」とつぶやく。
 振り返ってみれば、一家の存在そのものがゲームだったのかもしれない。家を淫売宿、家族を淫売宿の関係者と思い込む長男が狂っている。そう思いながら観ていたが、ここは本当は出に魅了された人々が出入りする淫売宿で、“ホームドラマごっこ”とは、出の魅力に狂わされた人々が生み出した幻想のことではないのか? とすら思えてきた。狂っているのは“家族”であり、世界の正しい姿を見ているのは、出だけだったのではないかと。
 誰かを求め、誰かに求められたいという欲求をもった他人同士が、偽物の「理想の家族像」を演じる。はじめはゲームだったかもしれないが、そうしてつくりあげた共同体は、孤独な彼らにとって唯一無二の居場所になった。だから命と引き替えにできるほど執着できたのでは?
 そんなふうに考える方が、彼らが血の通った家族であると考えるよりも、私にとってはリアリティがあった。

 舞台上で何度も散りばめられ、拾い集められた造花のポピーは、そんな“偽物”たちの象徴だったようにも感じる。植物のいちばん美しい一瞬を形だけコピーした造花は、理想の絆のカタチを求めるあまり、ゲームと現実の境目が溶け出してしまった、家族のような他人のような関係によく似合う。

 この作品のタイトルは親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉からとったものだそうだ。悪人正機の考え方からいうと、善人とは“自力で生きられると考えている人”のこと、悪人とは“他力を必要とする人、救済を必要とする人”だという。そうした視点で見ると、この家族は出を含めた全員が、「愛される」という救済を欲している「悪人」のように感じる。
 では狂人とは誰か。「名家の嫁」という肩書きと裕福な暮らしにしか興味がないフィアンセのことか。いや、違う気がする。このタイトルは、救済を必要としない人間などこの世にはいない、発狂でもしない限り、何にもすがらずに生きられる人などいない、という清水のメッセージなのではないかと私は思う。

 なんにせよ、1960~70年代のような熱さや青さに欠けた今の時代を生きる私にとって、困窮や財産ならともかく、家族愛に生死がかかるなんてストーリー、本来なら興味を持てなかったような気がする。
 ただ、この作品のすみずみにまで、むせかえるように立ちこめる妖しくてなまめかしい匂いに、肉体や命のリアリティを感じ、どうにも引き込まれてしまう。古さなど、まったく感じない。なぜなのか。もしかしたら今の私自身が、“淫売宿”にたむろする彼らのように、なにか猥雑な、しかし純粋なエネルギーを渇望しているからなのかもしれない。
 家族がどうとか、狂人がこうとか、そんな設定や解釈なんてどうでもよくて、決して満たされることのない胸の空洞に、ただ何か熱く狂おしいものを注ぎ込み、生きる実感を得たい気持ち。その動物的な衝動を隠そうとしない姿が、自分の深層心理を刺激して、どうにも魅かれてしまうのかもしれない。

 たとえ昭和的な古くさい家族の話でも、命や死、性を連想させる淫売宿を重ねて描くことで、約40年後の観客の心に響く普遍性が生まれる。清水氏の時を超えるイメージの力に改めて驚く。
 脚本に埋め込まれているたくさんの暗喩に、おそらく私はほとんど気づけなかったに違いないが、それでもこの作品の中にどっぷりと没頭できた。理解できないことだらけでも、舞台上の出来事に酔いしれることができた。同時に、このいかがわしくも美しい世界を、現代に生きる私の目前で見事に再現してくれた、演出の熊林弘高氏や出演陣に感謝したい気持ちになった。

 …というのが脚本を読まずに芝居を観た私の感想である。
劇評セミナー終了後に脚本を読んでみた。暗喩だらけでつかみきれないと感じた複雑なセリフとストーリーは、文字で読むと、やはり家族の会話に戦争、教育といった社会的なテーマを潜ませ、社会という文脈の中でしか生きられない人間の在り方や関係性を掘り下げようとしていることが見えてきて、読み返すほどに新しい発見があり面白かった。びっしりと詰まった言葉がどれも何重もの意味を持っているようで、何度読んでも、とても全貌をつかめる気がしなかった。この底知れないイメージの重層性が、清水作品の醍醐味なのだろうか。
 そして観劇時に私がとても惹かれた妖艶な雰囲気は、ピンク色のライトと造花、そして愛子のセリフから読みとれる程度で、それ以外の登場人物のセリフやト書きには、色っぽさをあまり感じなかった。柱時計と振り子の演出も、熊林氏によるものだと知った。

 脚本を読むと、登場人物の背景にある「社会」を描くことが、この作品の重要なテーマであることが分かる。しかし当時の観客には当たり前のように伝わっていたであろう社会、そこで生きる感覚を、残念ながら私は共有できない。
 この決して共有できない感覚を官能性に変換してみせることで、清水氏がつむぐ言葉の美しさと深みを今の時代の観客に届けようとする熊林氏の演出は、少なくとも私にとっては、大正解だったように思う。
(2015年2月19日19:00の回観劇)

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