「労苦の終わり」と「ポスト*労苦の終わり」
柳澤 「労苦の終わり」は楽しい話じゃない。恋人を振るやり方はひどすぎるとか、お互いに理解し合えない状況を延々見せるとか、ある意味でネガティブな状況をみせていて、「ポスト*労苦の終わり」はもっとネガティブ度が上がっている。前作は音楽はボサノバやビーチボーイズだったりして、嫌なことでも受け流して結果的にハッピーになれればいいや、というところがあった。ところが今回は音楽もノイジーな、神経がややいら立つようなところもあって、でもそれを浴びるんだという感じがするんですが。
岡田 言ってることは分かるんだけど、ウーン、あれがネガティブだと思っていない自分に問題があるかもしれないと思うんだけど……。
柳澤 では、「労苦の終わり」のモチーフはどんな感じだったんですか。
岡田 前作の「三月の5日間」で戦争を扱ったので、次はそういう社会的なことを抜きにしてプライベートな部分だけ、例えば結婚のような事柄とかを扱いたいという思いが最初にあったんですね。いつもいつも社会的な事象ばかりは扱えないなあと思ってましたから。
柳澤 結婚にしようということから、あとはぞろぞろっと出てきたんですか。結婚がいま持っているリアリティーがそこに結晶してくる感じですか。
岡田 もちろん個人的なことも使って書いてますけど、あまりこの辺は言葉が出てこないなあ。
柳澤 すごくプライベートな領域なので、舞台をみながら観客も自分の人生のことを考えてしまうように働きかけてくる、「ポスト*労苦の終わり」を見ていてそう感じました。せりふを聞きながら自分のことを考えていて、はっと気が付くと舞台を見失っていた。でも、そんな自分のあり方が、舞台の上ですれ違っている言葉のあり方とリンクしているような感じかな。そういうように作品が投げ出されているのかもしれないと思いました。
歌集『渡辺のわたし』
柳澤 ところで、「ポスト・労苦の終わり」では斉藤斎藤歌集『渡辺のわたし』(注8)からちょっと引用してましたよね。「(a)足りている(b)足りていない」というところ。
岡田 著者の斉藤斎藤さんが見に来てたので、許可はもらいました。事後的にですけど(笑い)。
柳澤 「ポスト・労苦の終わり」でモニターに言葉をたくさん出すような場面がありましたが、言葉の視覚的な扱いという面で斉藤斎藤歌集を読んだ影響があるのかなと思ったんですが。
岡田 いや、そこはあんまり関係ないつもりです。舞台上の情報量を増やしたいというときに、せりふを同時にかぶせていくのはどうしても限界がありますよね、聞き取れなくなっちゃうから、そうすると文字情報を使うということにおのずとなるので、少しそれにチャレンジしてみたという感じです。この間のフォルクスビューネ(『終着駅アメリカ』)(注9)じゃないけれど、やってることと書いてることと違うじゃないか、みたいなことやってましたよね。そういうことも含めて、今年のアゴラ劇場でやる次作では、そのへんをもう少しやってみたい。
柳澤 岡田さんの作品と『渡辺のわたし』とは同時代性がいろんな側面であるとぼくは思っています。
岡田 斉藤さんは、自分の歌集は幽体離脱した自分が自分を見てるみたいなとこがあるって言っていた。エスカレーターで降りていく自分がいるという歌だったりあるじゃないですか(注8)。そこが似てるって。ぼくのステージは幽体離脱はしないけど、主体が移っていくところを彼はそうみたみたいですね。
柳澤 あえて現代的なものに密着するところも似ているし、身の丈の出来事を、たんに日常茶飯事でない仕方でピックアップするところにも共通するところがある。斉藤斎藤さんもいま評価が高まっているので、互いに通底するものがあるのではないでしょうか。いま芸術として求められているものがそういう形なのかなあという気がします。
岡田 僕は個人的には彼の短歌はほんとにすんなり読めちゃうんですよね。
柳澤 歌人の穂村弘さんは、『渡辺のわたし』は近代短歌を踏まえている人が読んではじめておもしろいメタ的な短歌で、一般の人はあまりおもしろがらないだろうと言ってますけどね。チェルフィッチュにも同じようなことが言われるかもしれない。演劇を知り尽くしていないとおもしろがれないって。でもそうでもないんですよね。
岡田 両極端かもしれない。演劇にディープに足を突っ込んでる人と、演劇が嫌いとか演劇をあまり知らない人は多分好きになってくれやすい。でも、演劇が好きな人は(チェルフィッチュの舞台は)嫌いかもしれない。
柳澤 時代とスタンスとの関わり方や、作品に対する反応なども似ていると思います。>>
(注8) このなかのどれかは僕であるはずとエスカレーター降りてくるどれか 斉藤斎藤 (『渡辺のわたし』 Book Park )
(注9) フォルクスビューネ「終着駅」公演 (東京国際芸術祭2005)