宮本亜門演出「ドン・ジョヴァンニ」

 今年7月末に東京文化会館で行われた宮本亜門演出の「ドン・ジョヴァンニ」公演について、長文の評が寄せられました。欧米の演出家はドラマだけでなく、オペラを手掛けることは珍しくありません。このサイトではちょっと異例ですが、演 … “宮本亜門演出「ドン・ジョヴァンニ」” の続きを読む

 今年7月末に東京文化会館で行われた宮本亜門演出の「ドン・ジョヴァンニ」公演について、長文の評が寄せられました。欧米の演出家はドラマだけでなく、オペラを手掛けることは珍しくありません。このサイトではちょっと異例ですが、演出の問題に焦点を当てた力作ですので掲載することにしました。
 筆者の嶋田直哉さんは1971年生まれで現在横浜市内の私立中高教員。歌舞伎、文楽、能からストレートプレイ、バレエ、オペラ、舞踏など「ジャンルを越えた上で〈身体〉と〈政治〉を演劇的視座で考察してみたい」とのことでした。


モーツアルト「ドン・ジョヴァンニ」(東京文化会館 2004/7/22~25)
指揮:パスカル・ヴェロ
演出:宮本亜門
管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団 
合唱: 二期会合唱団
主催:二期会オペラ振興会

 オペラが演出の時代といわれて久しいが、そのような意味での「演出」に出会うことなんて滅多にない。しかし宮本亜門が昨年の「フィガロの結婚」に引き続き今回手がけた「ドン・ジョヴァンニ」はこのような意味でまさしく「演出」されたオペラであった。

 作品としての「ドン・ジョヴァンニ」を考えれば、レポレッロが歌う「カタログの歌」に代表されるように、女を口説いて回る色事師の滑稽さがどうしても前面に出てしまうのだが、この舞台はその滑稽さを敢えて回避し、あくまでこれが現代の物語であることを強調した。例えば「カタログの歌」ではそれぞれの国で口説き落とした女の数をレポレッロがいくつもの携帯電話をかばんから取り出すことで示すのだし、無邪気な村娘ツェルリーナと、その婚約者マゼットは麻薬中毒のヤッピーとして描かれ、毎夜狂ったようなパーティーが打ち上げられるといった設定だ。このような設定について宮本は現代の人々が愛に飢え「心枯れすさんでいる」風景を描きたかったとインタビューで語っている。

 実はこのような設定には1990年代のピーター・セラーズの演出が先立つものとしてあって、そこでもやはり舞台は90年代のニューヨーク、ドン・ジョヴァンニも麻薬中毒者として登場したのである。

 その流れを考えれば舞台を現代のニューヨークにして、スーツ姿の歌手が登場するなんて今となってはさほど驚くに当たらない演出なのだが、問題はこの演出が明らかに9・11以降を視野に入れている点だ。ニール・パテルの舞台装置は瓦礫で荒廃したニューヨークを描き出す。イラクの惨状を日常的に見せられているわれわれにとっては既に過去のものになろうとしている光景だ。宮本の「ドン・ジョヴァンニ」はここから始まる。

 第1幕冒頭で起こるドン・ジョヴァンニによる騎士長の殺害は単なる殺害ではなく、新聞記者やテレビ・キャスターがドンナ・アンナ、ドン・オッターヴィオを取り囲むことによって無理失理なまでに〈復讐〉というテーマが紡ぎ出されてゆく。問題はそこに星条旗が介在する点だ。殺された騎士長はアメリカ軍人として星条旗に包まれて棺桶の中に収められ、オッターヴィオはスーツを脱ぎ捨て軍服に着替え、星条旗を片手に名アリア「今こそ、私のいとしい人を慰めに行って下さい」を歌い、〈復讐〉を誓う(第2幕)。幕を追うごとに「アメリカ」が舞台全面に押し出されていく。

 第3幕のジョヴァンニ邸でのパーティーではホームレスを相手にケンタッキーやハンバーガーといったいかにも「アメリカ」なジャンク・フードが登場する。そして最後は通常ならば騎士長の化身である石像によってドン・ジョヴァンニは地獄へ落とされるのだが、ここでは新聞記者、カメラマンに囲まれ〈復讐〉を誓ったオッターヴィオにいとも簡単に射殺されてしまう。〈復讐〉は遂げられ、「悪人の末路はこの通り」とオッターヴィオをはじめとする人物は高らかに歌いだすのだが、彼らの手には誇らしげに星条旗がはためいている。かくして「アメリカ」は「悪」に勝利したのだ、と思わせたその瞬間、舞台奥、地獄に落ちたはずのドン・ジョヴァンニの手から一片の白い羽根が落ちる。

 あの9・11を髣髴とさせる瓦礫のなかでこの作品を観つづけると、結局この作品で「アメリカ」が戦っている相手がわからなくなってくるのだ。宮本はドン・ジョヴァンニを愛が枯れ、すさんだ現代に舞い降りた堕天使として考えているようなのだが、それが成功したかどうかはさておき、どう考えてもドン・ジョヴァンニはテロリストでも、サダム・フセインにも見えてこない。ただ彼だけが17世紀風の服装で、あの瓦礫の中を彷徨う異様な光景は、まさしく「アメリカ」のナショナリズムの、ただ単に〈復讐〉だけを念頭に起き、星条旗を振り回すことでしか表明できない時代錯誤な姿と重なってくる。

 このように考えてみれば宮本には既に9・11以前にスティーブン・ソンドハイム作曲、ジョン・ワイドマン台本のミュージカル「太平洋序曲」の優れた演出(新国立劇場主催2000/10)がある。日本開国を主題にしたこの作品は、まさにオリエンタリズムを逆手に「アメリカ」そのものをパロディで脱構築する演出であったのだが、ここでもやはり天井に張り付く星条旗や開国を迫る「アメリカ」人にくるまれた星条旗は日本への侵略と威圧の象徴として用いられるだけでなく、さらにはその象徴を無にするパロディがねらいとしてあった。今秋この作品が「東洋人初」の演出という触れ込みでブロードウェイで上演されるという。大いに期待したい。

 最後に演奏について触れておこう。演出がこれだけ読み替えを打ち出しているにもかかわらず演奏はあまりにも歯切れが悪かった。ただドン・ジョヴァンニ役黒田博は宮本の意図をよく理解し、過度に滑稽になることなく「悪人」を表現した。凛々しい舞台姿はもちろん、歌唱は問題なし。特に第2幕、ラジカセを片手に歌う「ドン・ジョヴァンニのセレナーデ」は美しかった。
(嶋田直哉 2004/7/22)

宮本亜門公式サイト
二期会サイト「ドン・ジョヴァンニ」公演

投稿者: 北嶋孝

ワンダーランド代表