文学座アトリエの会 『TERRA NOVA』

 文学座のアトリエ公演として、『羊たちの沈黙』でアカデミー賞脚本賞を受賞したテッド・タリーによる戯曲『TERRA NOVA』が、座内の新鋭、高橋正徳の演出で上演されている。外部作家への執筆依頼など、「新劇」という枠内で実 … “文学座アトリエの会 『TERRA NOVA』” の続きを読む

 文学座のアトリエ公演として、『羊たちの沈黙』でアカデミー賞脚本賞を受賞したテッド・タリーによる戯曲『TERRA NOVA』が、座内の新鋭、高橋正徳の演出で上演されている。外部作家への執筆依頼など、「新劇」という枠内で実験的な試みを展開するアトリエの会だが、今回は劇団内での演出プランコンペで選ばれたという企画。26歳の若手演出家と経験豊富な俳優陣という顔合せが、すでに話題を呼んでいた。


 『TERRA NOVA』は、アムンゼン率いるノルウェー隊とスコット大佐の英国隊が南極点初到達を競った、男たちの物語である。表題はスコット隊が南極に向かった船の名で、「新しい大地」の意。アムンゼンに先を越されたスコットらが極寒の地で遭難、死を迎えるまでが描かれており、極限の状況下での人の誇りと苦悩を問う。

 劇はスコットが日誌に「報告」を記しているところから幕を開ける。劇中の出来事は、すべてスコットが死の間際に出会った意識の奔流であり、その地点からの回顧を含んだ幻想が、たたみかけるように襲いかかる。常に示唆されつづけるのは、二者のうち一方だけが目的達成の名誉を得られる「競争」と、南極探検への参加から生死まで、求心化されるそれぞれの「選択」という問題。二者択一、二進法の現実に、制約のない「夢」がオーロラの光に乗せてあらゆる角度から侵入してくる劇構造は秀作といえるだろう。また、メフィストフェレスのようにスコットのまわりを徘徊するアムンゼンの影は、「紳士を犬の如く」扱ったアムンゼンと、「犬を紳士の如く」扱ったスコットが、実は表裏一体であることを示していた。『TERRA NOVA』とは、果てのない南極と一人の人間を対比させ、「回想記」という形式をとることで、一つの人生における様々な葛藤を描いた物語だったともいえる。

 この芝居を上記のように考えるとき、高橋の演出はスコットに収束すべき約束事を、分散させがちだったように見受けられる。彼の手つきは現代風ながら、恐らく重点を「対話」に置いていたと察せられるあたり、岸田国士らの提唱した「聴かせる芝居」を継承する「文学座らしさ」に好感が持てた。また、作品の選択にも、自ら「新しい大地」を開拓せんとする意欲が感じられる。しかし、全体として冗漫な印象は否めない。俳優の「身の丈」と合わない舞台のサイズもあってか、氷原を表現した純白の舞台は時に白々しい。2時間45分という長い上演時間(いまではそう珍しくもないが)に、リズムの単調が目立てば、演劇的振幅の稀薄という誹りは免れまい。とはいえ、台詞のやりとり、人間関係の構築における瞬間々々の密度は濃く、部分の描写に巧さがある。混在する時・空間の処理に難はありながら、対話によって「演劇」を成立させようという意思とともに、戯曲に対して真摯に真っ直ぐに取り組む姿勢が窺えた。

 戌井市郎、鵜山仁、高瀬久男、松本祐子など、内外で活躍めざましい好演出家を多く抱える文学座にあって、こうした新しい才能の抜擢は好ましいことだ。ここ数年、「新劇」の諸劇団が続々と創立から凡そ半世紀を迎えている。先達の志が果たしてどのように受け継がれてきているのか。伝統が伝統として単に習慣化されてしまってはいないか。歴史に甘んじることなく、「新しい劇」の模索をこそ追求するべきであって、いま、そのひとつの成果が問われている。などと訳知り顔に云わずもがなではあるけれど、新劇界を見渡して、否、日本の劇壇全体が、たしかにある転換期にさしかかっているように思われるのだ。そんな中、高橋は先輩俳優の胸を借りて、経験値不足は拭えないまでも、堂々たる「楷書」の舞台をつくりあげた。今後も、訓練された熟練の俳優が身近にあることの幸運を、存分に生かしてもらいたい。そして、楷書ばかりでなく時には草書も観たい。世にはくずし字ならぬ「崩れ字」や「丸文字」が、果てには「記号」までも横行しているが、正確な楷書が書けなければ、美しさを保ったまま字体をくずすことは叶わぬ。新しさは新しさそのものに価値があるのではない。しかし、一つの方法論を愚直なまでにどこまでも掘り進めることで芋蔓式に多くの収穫を得られるというのは、自明のようで難しい。

 新劇とは、対話によってその山場がつくられる演劇。と云ったのは井上ひさしである。筆者などは、演劇は言葉であり、人の「声」を聴きたいのだなどと安直に考えているから、台詞を語り、対話でぐいぐい劇世界を広げることで成立する新劇には、まだまだ開墾の余地ありと思っている。それに加え、『TERRA NOVA』のように、どこか破綻を伴う筆記法にも工夫を凝らし、「聴かせる」だけでなく、「見せる」芝居づくりが求められる。結果として、今公演では未踏の地平を切り開く可能性を示す極点には到達できなかったが、文学座の文学座たるところを見せたという点で、ひとまず及第といっていいだろう。(後藤隆基/2004.09.09)


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