reset-N 『reset-Nの火星年代記』

 横浜STスポットの主催する「劇場武装都市宣言 スパーキング21 vol.15」特別企画公演の先頭を切ったreset-Nによる『reset-Nの火星年代記』は、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』(小笠原豊樹訳)の「戯曲化 … “reset-N 『reset-Nの火星年代記』” の続きを読む

 横浜STスポットの主催する「劇場武装都市宣言 スパーキング21 vol.15」特別企画公演の先頭を切ったreset-Nによる『reset-Nの火星年代記』は、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』(小笠原豊樹訳)の「戯曲化」をめざした作品である。外題に「reset-Nの」と表記される以上は「原作」への戦術が期待されたが、小説自身の強い問題意識と豊かな詩情に比べて、新たな発見なり批評なりが付加されることなく、些か低調な印象が残る仕上がりだった。とはいえ、私たちが生きる世界での「時間」とは何かという問題に対する、ひとつの見解を示していたように思われる。 


 1999年、アンゴルモアの大王はやって来なかったし、2003年、アトムは生れなかった。奇しくも『鉄腕アトム』と時代を近くして書かれた『火星年代記』は一言で言えば、地球人が火星に浸食することで、火星人が滅びていくという話。数多存在する他の「SF・近未来もの」と同様、予測され、夢想された「未来」を描いている。今日から眺めれば、『火星年代記』の地球及び火星とは生れなかった赤子であり、或る地点から枝分かれしたもう一つの現在でもある。舞台化の過程で多くの「時間」が切り落とされてはいたが、絶対的な「2004年9月16日」という標準時に立っていることは、外された「もう一つの2004年」にも明らかである。物語時間の翌2005年、つまり「来年」、全世界を巻き込んだ核戦争が勃発する。2004年という現在時間を、状況が転換する境界として捉えた。1946年の「過去から見た未来」と「実際の現在」との間に焦点化される時差を一つの契機として、「現在形の未来」とでも云うべき舞台空間をつくろうという試みだった。
 そうした「現在」の感覚を象徴的に訴えるのが、舞台として設定された、現代の、恐らくリゾ-トホテルの一角にあるようなプールサイドである。「場」が提示する「現在」は二つの異なる次元に属する「21世紀」を同一の時間系列につなぐ。

 劇場には開幕前から陽気なレゲエなどの音楽がかかり、薄暗い煉瓦造りの場内も相まって、都心のクラブの如き空気も醸し出していた。すでに舞台に現れていた水着の俳優陣が日光浴や読書、歓談に興じる様は恰も「南国のリゾートホテル」とでもいった風情であり、「現在」の世界(日本)を思わせるに十分である。客席をプールに見立てる趣向は、「水」を契約とした異界への窓ともなる(幕切れの、火星人が運河越しにこちらを見ているという描写にも生きる)けれど、水中の観客から見上げるプールサイドの優雅な光景は、地球から見た火星への憧憬と見ることも可能だ。しかし、非日常空間としての火星=プールサイドという描き方は、たとえ彼らがどんなにそこを「楽園」と呼ぶとしても、「理想土地」は人の手で濁せられ「リゾート地」と化すという自明の主張でしかなかった。

 それらの題目が「演劇」に変換される際、火星に関わるような舞台装置は一切用いられず、台詞(というよりテキストそのもの)によって支えられる舞台は、地の文と台詞部分を役割分担した一種の「朗読劇」だった。ぶつ切りに、殆ど小説を順序立てて追っていく。ただ並列されるそれぞれの状況が、編年体で淡々と叙述されていく。その意味で、火星の「年代記」であること以上の付加価値は見いだせなかった。地球環境、世界情勢への警告もごもっともだし、当然作品の主題の大部分を占めるのだけれど、山場の殆どに「お説教」めいたモノローグがお約束のように配置されるだけでは、行き着く先は何のことはない、レイ・ブラッドベリの「言葉」を借りた「環境保護宣言」としてしか成立しないのではないか。夏井は宣伝文に「レイ・ブラッドベリが書いた『火星年代記』の美しさは何でしょうか。壮大な物語に秘められた深い内省を舞台に乗せたい」と書いていた。たしかに音楽や照明、構成に或る静謐さは感じられたものの、美しい何ものかは感じることができなかったことも事実である。

 総じて、原作を忠実に構成しながら、「火星」という星の美しさにまで届かなかった難はあったし、火星人の「想像」「暗示」「催眠」といった能力への言及欠如も悔やまれる。それらは殆ど「演劇」に対する問題提起でもあったのに。また、舞台上での時間の操作にもう少し気を配ってもいい。挿話の長短はあれ、同じパルスでの2時間は、流石に飽いてしまう観客もいるだろう。あれだけの音響、音楽への配慮があり、かつ人気も世評も決して低くない劇団なのだから(実際、場内はほぼ満員だった)、さらなる「演劇」としての「想像力」が求められる。それこそ、「火星人」を手本として、である。

 蛇足ながら、開幕前の光景は、男優と女優(男と女)の違いをあからさまに示す興味深い一場面であった。男女ともにプールサイドで過ごす「普通」の状態を「演じ」ているわけだが、如何に男が「見られる」ことに不器用かがよくわかる。水着という無防備な状況だったにしろ、男とは主体的に場にあろうとする。「見せる」という「過剰」な意識以て演技を成立させる。一方、女は自らを客体化でき、「そこにいる」という状態に軽々と移行できる。日常生活の中で常に「被視」意識を持続して保ち得る女性が、板の上でのこうしたたたずまいを身につけていることは、「演技」と「生活」というものが不可分であることの一つの証明ではないかとさえ思えるのだ。

 ともあれ、一夜の舞台に現れた火星人たちを思い返し、原作を読み返してみることで、改めてreset-N のめざした「美しいもの」が見えるかも知れない。(後藤隆基/2004.09.16)