BATIK『SHOKU-full version』

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 8月最終週の週末は、We Love Dance Festival(1)、芸術見本市とダンス関連の催しが都内各所で同時に行われた。イベントは互いにリンクしていたらしい。「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2003 受賞者公演」と銘打たれていたBATIK『SHOKU』も、芸術見本市との提携公演である。会場のトラムは大入りで、公演に寄せられた関心の高さがうかがわれた。  


 さて『SHOKU』のポイントは靴だ。ダンサーの裸足に、ヒールのある尖ったパンプスが履かれている。重心が集まる細い踵の一点に力を込めて、ダンサーはガンガン床を踏む。中盤ではフラメンコ用と思われるシューズを複数のダンサーが履いて、音楽との間合いを取ったりずらしたりしながら激しく音を鳴らす。踏んでいる自分をアピールしているようにも見える。こうして時折靴の片方を脱いだり、両足とも裸足になったり、再び履いたりしながら地面を「踏む」ステップが執拗に繰り返された。
 
 公演当日に配られた来場者用チラシには、振付の黒田育世により「皮膚一枚に隔てられた内と外 内側を『自分』と感じる事、外側を『自分じゃない』と感じる事の不思議」(後略)と記されていた。
 靴と一言でいっても種類があるが、大抵それは皮(靴底)を隔てて内側(足)と外側(地面)を分けるものであり、靴を履いて地面を踏む時には、内・皮・外が必ず触れあう。そう考えると、靴は黒田のいう「内と外」を、もっともわかりやすいかたちで視覚化したものといえるだろう。黒田はおそらく、不思議と感じつつ自らも漫然と受け止めてきた「内と外との隔て」を、空気にさらされている足/靴の中の足、素足で踏む/靴を媒介に踏む、など足に特化してひたすら触れる感覚で検証しようとしたのだと思われる。
 ヒールの高いパンプスだけを用いたのなら、履くことによって「内側(足)」を、決して楽ではない靴の型にあわせる→枠によって「自分」がつくられていくという見方も可能かもしれない。しかし個人的には、踏んで音を出すダンス靴が出てきたことから、タイトルの『SHOKU』は「触(地面に触れる)」と、日蝕など「隠れる」という意味での「蝕(靴の中に隠れているが音で存在がわかる)」を含意しているのだろう考えた。というより、そうした『SHOKU』の音に感覚が導かれて、後から思考が「触」と「蝕」にたどり着いた、と書く方が実際の体験に近い。
 
 前半でダンサーの身体は回転しながら倒れ、痛そうな音をたてて繰り返し床に打ちつけられていた。先の「踏む」ステップは、幼児が癇癪を起こして地団太を踏んでいるようにも捉えることができるが、こちらは五体投地の行を思わせる厳しさがある。いずれにせよこうした黒田のたるみのない表現は、良い意味で彼女の「マーク」になりそうだ。かつて『セメント山海塾』という、セメントに浸かって身体が白くなった後、ゆらゆら動いている内に固まり運ばれて退場するというパロディーがあったが、『SHOKU』 のパフォーマンスもネタの材料にこと欠かない。
 
 身体が回転して打ちつけられる間、手は赤色のマントに覆われて半ば拘束状態にある。ダンサーはそれぞれ一昔前のテニスのアンダースコート(総フリル)状のパンツを身に着けており、別の場面で、手はそのパンツの中に突っ込まれる。何をしているのかは明らかにされないものの、幼児がとりとめもなくパンツの中をいじる、そんな趣がある。他にも、小道具の懐中電灯をつけるのは手でなく足であり、2人のダンサーが向き合って前傾姿勢の1人が相手を叩き続ける振りでは、手は叩いているというより地面と「触」する足のバランスを取って揺れているかに思われた。
 つまり作品では圧倒的に足が優勢であり、軽い手、本来の役割から逃れた手が表現される。徐々に靴を脱いでいき裸足で踊った後、黒田がステージ上をあちこち移動しながら、手に持った靴を叩きつけた。この手は「叩きつける」という役割を負うものの、鋭く伝わってきたのは叩きつける行為に込められた感情や意思や手の力の強さではなく、履いた(皮をまとった)状態の「触」では表すことのできない、内と外を隔てる「皮一枚」だけの音だ。
 場の転換により振りの動静・音楽・照明は大胆に変化するが、そうした中でも靴を叩いてからゆったりと踊る黒田のソロパートの、軽くしなやかな手は抜きん出ている。またラスト近く、膝をついたダンサーたちが横一列になって手を交差させる振りの弱々しく優しい動きには、理科のビデオなどによくある、モヤシがぬるぬると伸びていく様子を想起した。
 
 舞台後ろには大きな扉がそびえ、これは終始開かない。途中でダンサーが1人、逆立ちして寄りかかるがしばらくすると横たわってしまう。このように内省的な空間の使い方を踏まえれば、「内と外」は素足と靴という限定された表層の部分だけでなく、その背後に裸体と服、自分と他者、個人と集団という大きなテーマがあるはずなのだが、閉塞したまま終わった。
 最後、床に転がっている懐中電灯の合間をゆっくりと歩く黒田は、目立って内足だった。カーテンコールも内足だ。仮に内足歩きが振付ではなく単なる身体の癖だとしても、それは自分にとって「伸びやかな」身体の在り方を徹底して観せる、という黒田の意図なのかもしれない。クラシック・バレエの素養を持つ身体がそのように舞台上で表現されるのは、『SHOKU』における強度のある足から踊り手である黒田自身が距離を示す、戦略的な身体の使い方と捉えることもできる。

 しかし群舞は「意図的な脱力・弛緩」と違う問題があったように思う。例えば一つ一つのシーンの後半になると、動きの強さ・リズムはそう変わらなのに全体が間延びして、場の転換や黒田の動きに頼りはじめるように見受けられた点。ダンサーたちの、シーンごとの意識のバラつきが原因なのかもしれないが、どうみても戦略ではないという困惑を伴って素に引き戻される度に、作品の強度が少しずつ失われていく。だが今回は、どんなダンスのステップとも違う『SHOKU』の破壊的な音によって、一瞬々の閃光にも似た「内/外の隔て」のゆらぎを感じることができた。その先の展開が待ち遠しい。(04.08.29 シアタートラム)河内山シモオヌ

(1)10年以上前のバスクリンのCMに、似たようなキャッチコピーがあったと思う。同じコピーセンスなのかもしれない。
ダンスフェスティバルへの愛を誰かに表明することが開催の目的ではなく、これを機にダンスがいろんな人に晒され、ダンス(フェスティバル)を特に愛していない人も自由に感じたり話したりできるといい、という趣旨だったならば、この名前にはならなかった気がする。