演劇集団円 『トラップ・ストリート』

 別役実は難しい。何がといって、戯曲の魅力に拮抗する舞台に出会うことが難しいのだ。職業的劇作家としての地位を確立し、多くの集団に作品を提供している別役だが、上演が戯曲を読んだときのおもしろさを超えることは滅多にない。「作 … “演劇集団円 『トラップ・ストリート』” の続きを読む

 別役実は難しい。何がといって、戯曲の魅力に拮抗する舞台に出会うことが難しいのだ。職業的劇作家としての地位を確立し、多くの集団に作品を提供している別役だが、上演が戯曲を読んだときのおもしろさを超えることは滅多にない。「作:別役実」という文字をチラシの上に見つけたわたしたちは、そっとほくそ笑みながら、誰にも気づかれぬように肩をすくめざるを得ない。ひとつの理由として、俳優の不在がある。別役文法は俳優を選ぶ。それも技術などではなく彼(彼女)の生理をだ。「その人である」ことが、必要絶対条件であるにもかかわらず、「その人」は決して多くないという悲しさ。


 別役戯曲は、状況設定もさることながら台詞の妙に勘所がある。言語レベルで抑制と激昂のバランスが保たれ、〈場〉の静けさと相まって独特の「おかしみ」を醸す。それを舞台上で体現するのはどうやら至難の業のようなのだが、その点、新作『トラップ・ストリート』を書き下ろした演劇集団円は戯曲を危なげなく処理し、戯曲にプラスアルファの楽しさを付加することに成功していた。その中心にいるのが、岸田今日子、三谷昇の二人である。岸田と三谷はまるでタイプの異なる俳優だけれど、別役芝居の登場人物に欠かせない静謐な「タタズマイ」をもっている。三谷昇の老人像は悟達した穏やかさが滑稽を生み、岸田今日子はもはや年齢を超越した色香と、異質さを標準に変えてしまう妖女の魅力を備えている。『トラップ・ストリート』におけるそうした二人の「タタズマイ」は、年齢を重ねた男優と女優の或る到達点を感じさせる好演だった。

 表題の「トラップ・ストリート」とは戯曲のト書きによれば「地図製作者がコピーされることを防ぐために、原図に秘かに書き入れておく偽の街路のこと。当然ながら、人がめったに入りこんでこない袋小路の奥などに、さりげなく隠されている」わけだが、そこに図らずも足を踏み入れてしまった男が、あるはずのない道を地図に書き込んだ女と出会う話。時空間と人間関係の歪んでいく様は圧巻で、自分は「メディア」なのだという女2を病院に入れようと画策する、岸田演じる女1だけが強烈な存在感とともに息づいている。しかし、彼女以外の人物が抱える違和感が、実は精神を病んでいるのは女1であったと転換するのをきっかけにガラリと位相を変える。一瞬で劇世界が転倒し、女1だけが異常な世界にいること、そして、場に対してちぐはぐなその他の人物が極普通の市民なのだと思わされるのである。さりげなさのうちに劇的展開がそっと仕組まれている。とはいえ、「妻を裏切り家を出た夫に復讐するために、我が子二人をその手で殺めた」という壮絶なギリシア悲劇『メディア』を素材にとりながら、ぼんやりとした、何とも奇妙な手触りがじわじわと浸透してくる舞台だった。

 幕切れ近く、「私がメディアである」と舞台から去る女1の後を全員が追い、男1と男3だけが残される。「何があったんです……?」と訊ねる男1に対し、男3が「何もなかったのさ……」とだけ呟く。すると周囲の舞台装置が片づけられ、舞台は無性格な空間に変容していく。そこは地図に記された単なる道で、どこでもない、「ただ通りかかっただけ」の場所。地図上の嘘に迷い込んだ男はもう帰れない。おぼろげに再度現れ、白いパラソルで月光を避ける岸田が「私は、メディア……」と夢のように語れば、存在するはずのない場所だけが存在を示す。

 終演後、果たして今の時間は、この芝居は何だったのかという思いに駆られた。内容の理解云々ではない。自分の身にさえこの90分間には何も起こらなかったのではないかという不安がつきまとう。たまたま通りがかった、内容自体がないような世界。そんな不思議な感覚に戸惑う観客は、もしかすると「トラップ・ストリート」に迷い込んだ一人なのかも知れない。(後藤隆基/2004.10.14)