人形劇団プーク 『金壺親父恋達引・カチカチ山』

 1929年に創立され、昨年75周年を迎えた人形劇団プークは現代人形劇専門の劇団である。普段は子どものための人形劇を中心に国内外を問わぬ活動を展開しており、さらにはテレビ、映画にもその幅を広げ、社会的評価も高い。また年に … “人形劇団プーク 『金壺親父恋達引・カチカチ山』” の続きを読む

 1929年に創立され、昨年75周年を迎えた人形劇団プークは現代人形劇専門の劇団である。普段は子どものための人形劇を中心に国内外を問わぬ活動を展開しており、さらにはテレビ、映画にもその幅を広げ、社会的評価も高い。また年に一回、新宿にある本拠地「プーク人形劇場」で「おとなのための」人形劇を上演している。人形劇は子どものものであるという一般のイメージを払拭せむとする劇団の提言を今回より深め広げるべく、「おとなの人形劇」と銘打ってこまばアゴラ劇場冬のサミットに参加したその演目は、井上ひさし『金壺親父恋達引』、太宰治『カチカチ山』の二本。人形劇は文楽を除けば子供の時分に見たきり雀の我が身ながら、確固たる様式がみせる多彩な表現に驚かされ笑わされ、非常に心楽めた。


 太宰治原作の『カチカチ山』は男女の道化による、狸殺害をめぐる推理劇という構造をとる。狸の死骸(人形)を前に現場検証、推理を連ねる二人。「惚れたが悪いか」に締め括られる動機解明に至るまでの過程が劇中劇としての『カチカチ山』に変貌していく。男と女はそれぞれ兎に惚れる醜狸三十七歳と、残酷なアルテミス、十六歳の処女兎を人形で以て演じる。俳優が先ず演技をし、彼らが人形を使うという行為自体が一つの仕掛けとして機能していた。端から人形劇というスタイルを前面に押し出すのではなく、いうなれば「普通」の芝居からはじまり、人間が人形を道具として扱っていくうちに人間のほうが人形に支配されていく。その発端となる人形が狸の死骸であることの怖ろしさは、一見可愛らしくも見えるお伽話の裏に潜む太宰版「お伽草紙」の黒い笑いを引き出していた。美しい顔をして冷酷な行動をとる兎。一体に残酷はその心と裏腹な静謐な態度にもっとも顕著なのである。

 幕間を挟んでモリエールの『守銭奴』を原作に井上ひさしがラジオのための現代義太夫節として書き上げ、後にテレビ文楽化された『金壺親父恋達引』。人に聞いて曰く、井上ひさしと云えば『ひょっこりひょうたん島』というように、もともと作家と人形劇との関わりは極めて大きいものだった。こちらは前半と打って変わって、人形による芝居。両手で操られる赤子ほどの人形は、繰り手の声を借りて台詞を語る。氏の劇言語は異様でさえある。とめどなく溢れかえる地口や掛け言葉などの言語遊戯が乖離させる意味の世界は拡散の危険も孕むけれど、人形は「言葉」を、まさにそのまま身体としての表現に結びつける。たとえば、「肩を落とす」という慣用句があるとしよう。実際あるのだが、もしそうした場面が劇中にあるとするならば、人形はがっくりと文字通り肩を落とし、その背中はひどく寂しげに去っていくことだろう。「腹を抱え」て笑うような場面では本当に腹を抱えるに違いない。そしてそれが如何にも真実らしく、またおもしろいのだ。井上戯曲では何よりも「言葉」が演劇的な武器となる。時に過剰とも云われる饒舌は人形という仮面が語るのを望んでいたかのようによく似合っていた。

 直接感情を表情に出せない人形は身体そのものが雄弁である。人間が人形を手にとる。彼乃至彼女が人形を支配し、動作を指示するにもかかわらず、その後人形に反映される身体及びイメージは、人間を遙か超越したところにまで到達する。演技という点で、誇張が最大の武器となる。そして、表情の一定に保たれた人形が生身の人間では決して届かない身体表現を可能とする。極めて細かな仕草から大袈裟な心象所作まで、人形であることの制約が単なる叙情をよりふくよかに表現するのである。ただ、顔の表情の乏しさを補う為もあってか、その台詞回しはともすれば極端に抑揚ばかりが先行し勝ちだった。日頃の子どもたちのための芝居づくりという功罪を問うものではないけれど、わかりやすい明度ばかりでない、声の表現を聴きたい。『金壺親父恋達引』の義太夫が、単なる語りにとどまったのも残念だ。その点、桐丘麻美夏の兎やお高のような抑制の効いた演技が印象に残った。

 人形劇にも様々の形がある。ここに見えたのは、諷刺に富んだ笑劇としての人形劇だった。人形は人間のデフォルメされた形である。その行動、動作、はたまた人形の容姿外見など、特徴を際立てて演じるほどにおかしみは増す。リアルとは対極にある抽象的舞台は、物や音など、数々の見立てによって成立するが、言葉遊びも見立ての代表格であるといえよう。人形も、人間の見立てであることは云うまでもない。人形を見るわたしたちの視線は、或いは異形のものとして彼らを見るかも知れない。人間にあらざる「人形」がまるで「人間」らしく振舞うのを見てわたしたちは笑うだろう。感情を露わにしない人形が仰々しくも感情的になるとき、わたしたちは笑うだろう。そうした人間のパロディとしての姿を自分自身の身替わりとして見ながら、安心しているのかも知れない。人形劇という可能性は未知である。そして奥が深い。特に『カチカチ山』のような、人間と人形の関係性の追求をめざしてもらいたい。この先「人形」という、実は遙かな歴史を持つよりしろを用いて、どのような演劇がつくられていくのか。非常に楽しみである。(後藤隆基/2005.2.2)


「人形劇団プーク 『金壺親父恋達引・カチカチ山』」への1件のフィードバック

  1. なるほど、ちょっと観なかったことを公開しました。
    「人形」、「形(かた)」、「形代」など、色々考えて行けそうですね。しかも、日本は、R・バルトを驚かせた(?)人形浄瑠璃文楽の国ですものね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください