人形劇団プーク「かちかち山」「金壺親父恋達引」

 人形劇団プークの本拠地を通りががりに眺めたことがある。新宿南口から徒歩5分ぐらいだろうか。甲州街道から少し代々木寄りに入った絶好の場所だった。 3日夜、その専用劇場ではなく、こまばアゴラ劇場で初めてプークのステージを体 … “人形劇団プーク「かちかち山」「金壺親父恋達引」” の続きを読む

 人形劇団プークの本拠地を通りががりに眺めたことがある。新宿南口から徒歩5分ぐらいだろうか。甲州街道から少し代々木寄りに入った絶好の場所だった。 3日夜、その専用劇場ではなく、こまばアゴラ劇場で初めてプークのステージを体験した。おもしろかった。客席で無防備に、ころころ笑ってしまった。


 人形劇団というと、操り糸で人形を動かすというイメージがあったけれど、「かちかち山」は違っていた。被り物はあっても俳優は素面で、詰め物で膨らせた白の吊ズボンをはいて登場した。ヨーロッパのダンス集団で、豚の仮面をかむって登場したダンサーがそんなズボンをそろってまとっていたような記憶がある。A.C.O.A.がBeSeTo演劇祭でみせた「煙草の害について」でも、同じような衣装をかなりグロテスクに仕立てて登場した。 A.C.O.A.では衣装が重要な伏線になっていたけれど、プークでは動物との近縁を示す導線の役割を果たさせようとしているような気がする。

 「かちかち山」だから、登場するのは狸とウサギ。かたや37歳の古狸なら、ウサギは今年16歳の処女という設定である。狸の死骸を発見した男女の警察官が現場を調べる冒頭から、やがて2人が狸とウサギに成り代わり、それぞれ狸とウサギの人形をときに手に持ち、人間と人形が一体となって舞台が進んでいく。語りと身体との間に人形が入り込んだり、人形が姿を消して俳優が表に出たり、その逆に人形の影に役者が隠れたり…。

 劇中劇という構造が演劇の相対化によく用いられる。しかし人形の効果的な登場が、今回の舞台でどれほど意識されているかどうか分からないけれど、劇自体を豊富化する手がかりになるのではないかと示唆深かった。プーク体験はぼくには目から鱗の舞台だった。同じように人形をメーンに登場させる文楽が、メタ演劇実現の視点から再評価されたことはあるのだろうか。
 そういえば、客席には「地点」演出の三浦さんや田島さんらの姿がみえていた。なるほど、よくベンキョウしてますね。

 狸汁から逃れようと、つかまえたおじいさんを殺した狸は、美しいウサギにほれ込んで疑うことを忘れているが、ウサギは殺されたおじいさん夫婦に恩義を感じており、冷静に復讐を図るという話。御伽噺をもとにした太宰の原作。ウサギ役の桐丘さんが舞台に登場すると、匂い立つような雰囲気が広がった。恩義と復讐を秘めつつ古狸の一挙手一投足に妖しく冷たい視線を向ける。その光景の背後にオーラが見えるような気がした。

 井上ひさし作の「金壺親父恋達引」はモリエールの翻案だが、相変わらずうまくできている。ただ劇形態は文楽方式で、黒子役が人形を動かし、同時にせりふも。足脚の動きが笑いを誘ったけれど、方法的には従来どおりのパターンを踏襲しているように思えた。

 決定的に重要なのは、人形だと思われる。そのキャラ、作り方で印象が決まるからだ。主役と同じ、いやそれ以上の比重があるのではないだろうか。

 今回登場した人形は、2つの演目で同じ作者と思われる。いや、同じかどうか分からないが、少なくとも「作風」は似ている。しかし人形の作風は上演する作品によって、がらりと変わっていいのではないか。リアルもあればシュールもパンクもあっておかしくはない。なるほど、人形制作者に問われるのは技量だけでなく、演出も含めた劇全体の方向が問われるようになるかもしれないと密かに考えた。

 こまばアゴラ劇場の 「冬のフェスティバル2004」参加公演。声をかけてくれた劇団のKさんに感謝。


投稿者: 北嶋孝

ワンダーランド代表

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