「〈犯罪〉をテーマとするギリシア悲劇特集」と銘打たれた Shizuoka 春の芸術祭2005が、静岡芸術劇場と舞台芸術公園にて、5月から6月の毎週末に開催されています(6月18日まで)。鈴木忠志を中心に、若手演出家がさまざまのギリシア悲劇から「現代」を読み解かんとする、たいへん興味深い催しとなっております。過日、三条会がエウリピデス原作の『メディア』を上演しました。本当に本当に、本当に遅ればせながら、公演評です。
◎関美能留の〈時間〉感覚
古典劇といわれるギリシア悲劇の一つである『メディア』。その三条会上演をみるわたしたちは、それを「古典」だと感じただろうか。「男と女の愛の抗争」とか、「母親が実の子を我が手で殺し得るか」というような議論でなしに『メディア』を描き切ってみせた関美能留の演出。特殊なある「場」を設定し、その状況下で演じられる必然としての「ギリシア悲劇」の物語から、普遍性とかを抽出するのではなく、徹底して無限定の素舞台に配置された俳優が「それを語る」行為自体に意味性を強くする。「メディア」というヒロインに主導されない一人複数役と複数人一役は、集団としての全体性をより高め、また舞台空間との関係のリアリティーによって、舞台上にはいくつもの時間が同時進行していく。一つの科白の流れ(『メディア』というプロット)に対して、原作とは別の感情が発生し、身体を伴い併走する多様なレベルの時間を以て、新しいギリシア悲劇の上演というにとどまらぬ、演劇という表現の新世界を織り上げたと云っていい。
まず舞台には、赤やピンクを基調に道化めく衣装をまとった三人の女優(メディアである)が、各々包丁を握り締め、身構えるようにして立っている。上手奥・中央・下手手前と、舞台の対角線上に示された座標、その三層のラインに沿って、上手袖から三人の男優が、科白を語りながら舞台を横切っていくわけだけれど、彼らは局部を手で隠しただけの全裸である。のっけから平手打ちを食った観客は、さらに彼らがメディアの前に差し掛かった途端に刺し殺され地に伏すのを見てまたショックを受ける。トすぐさま起き上がり、下手へ向かう男三人。再び現れると下着を穿いており…と、強烈かつ鮮やかな幕開きに心はがっしと掴まれる。上手から下手、下手から上手の往復は繰り返され、一旦袖に消えるごとに下着・シャツ・ズボン・上着を身につけていく過程は堆積する歴史(=時間)のイメージを示唆しつつ、「殺す/殺される」というモチーフは幾度も反復される。
関美能留は、物語の生成過程で粉飾を施され、複雑化した「犯罪」を、まず行為そのものにまで単純化する。その上で、原作とは異なるレベルの時間を構築していく。その後も賑々しく展開する三条会『メディア』における、「殺す(/殺される=待つ)→踊る」という鍵言葉は、たとえば「なぜ踊るのか」という疑問符を、「なぜ殺すのか」に転化する力業でさえある。外的特徴ではわからない、不可解な人間の内面。思ったことは口にせず、台詞とは裏腹の隠れた心理的対決により展開する演劇が、近代以降の人間・世界の捉え方だったとすれば、ここではそうして表象されない意識をこそ、視覚化する。人の心の深さ、異様さにつれ、舞台上の違和も深まる。外見が抽象に近づくほどに、現行の一般概念としてのリアルは失われてしまうだろう。しかし、どんなに物語を劇中劇として構造化しても、それは「物語を覆う物語」という枠組みによって結局は物語に回帰してしまうし、政治性や権威から逃れられない。とすれば、「とき・ところ」の明示されない劇空間は、劇構造そのものに対する問いかけであり、挑戦なのである。
背後にどこまでも広がる闇を背負う、夜の野外劇場。照明により拡大縮小し、自在に姿を変える舞台空間は、やがて光と荘重な音楽に包まれながら、使者がクレオンと彼の娘(イアソンの婚約者)の死の顛末を、いかにも「悲劇的」に語る。力強い俳優の身体、声を借りて、それは美しい一遍の叙事詩のごとく闇に響き渡る。言葉は途切れ、子供らの殺害が一瞬で行われた。そして、再び全裸になった男たちの演ずるコロスが、神を讃える一節を語りながら上手へと消え、夜の帳がしめやかに落ちてくる。円環構造まで用意しながら幕切れに収斂されるスピード感は圧巻の一言。メディアの行先を携え、事件の契機をもたらしたアイゲウスのコリントス来訪は、「子宝がどうすれば得られるか」というアポロンの神託の解釈を求めるためだった。予言の神アポロンは、光の神であり、また夢や空想世界の仮象をも支配する。「神々は思わぬでなく、事々を成したまう」。一見「ギリシア悲劇」らしからぬ仕方を横溢させ、経過しながら、「神」という、それこそ現代を生きるわたしたちにはいかにも理解し難いであろう神話にまで、観客を導いてしまった。
多くギリシア悲劇は、登場人物の言葉によって—時として「神託」や「予言」という形を借りて、未来が暗示される。そうなることがすでに予想されており、定められた運命に誘われるように、先見された未来が実際に現れるのを待っている。そうした意識の流れは絶えず不意打ちされ、表面的な違和は、従来の価値体系に慣らされたわたしたちの感受性を刺激して止まない。その衝撃の連鎖が四拍子的な型にはまらない、一拍子とも云うべき可変の劇時間をうみだすのである。パターン化された時間を批判しながら、等間隔・順列の時間概念に待ったをかける。一回性とも呼ばれ、行雲流水が必定の演劇、あるいはわたしたちの生において、いかに絶対者たる「時間」とたたかうか。思えば、一時間の上演時間に大真面目に挿入された「三分間の休憩」—山口百恵、MCで「青春」を語ること—さえも、始まれば終わるまで止まらず、また過ぎて帰らぬ時間をせき止め、劇時間に揺さぶりをかけることに成功していた。観念や思想云々といった何ものかを具象として物質化し、且つまた、〈時間〉をも目に見える形で現出させてしまう。
いかにギリシア悲劇がすぐれているとて、それを読むこと、解釈することは、すでに認識された「過去」の再理解に過ぎぬ。どんなに「何を云わんとしているか」を問うたところで、極言してしまえば「過去」を得るばかりなのではないか。括弧だらけで恐縮だけれど、たしかに「過去」なくして「今」はなく、その「次」も存在し得ない。現代演劇は「過去」を「今」に持ってきた、さてその後は…。考察・検証を経て、次の時間につなげるためにはどうすればいいのか。どのような演劇をつくっていくべきなのか。わたしたちには「いま」、それが問題となるように思えてならないのである。
休憩を挟んで、音楽に弾ける賑やかな群舞があった。その最中、音楽は止み、ほかの人物が動きを止めてもなお、衝動がはみ出すようにして踊りつづけたあの明るさに、しきりと心救われる思いがするのだ。前衛などもはや無きに等しい今、正しく前衛精神を持って、なおかつエンターテイメントたるを忘れない。賢しらを気取って「ギリシア悲劇的」な物言いをするならば、アポロン的な理知と、ディオニュソス的な狂騒という二つの顔が綾なす舞台、そこに前衛性と大衆性は必ずや共在する証を見た。「過去」を知り、「現在」を賭け、「未来」を生きようと走る関美能留の、〈時間〉と対峙し、超克しようとする意志に裏打ちされた三条会『メディア』は、何か新しい演劇のイメージを、たしかにつくりだした。躍動する俳優の身体そのまま、さわやかであり、極めて健康的。己の貧しいながら観劇体験を総動員してみても、やはり稀有と云わざるを得ないのである。(後藤隆基/2005.5.21/静岡舞台芸術公園 野外劇場「有度」)