「没後35年、世界につながる三島」-。こんなキャッチコピーでtpt が三島由紀夫の「道成寺」を取り上げました。Webサイトには「ヨーロッパの都市で挑発的な演劇活動を続けている気鋭のドイツ人演出家が、三島由紀夫没後35年の2005年東京で“末世の意識をひそめた”この戯曲の変幻自在性を探る」と書かれています。その「気鋭のドイツ人」はトーマス・オリヴァー・ニ-ハウス。2003年、ボート・シュトラウスの「時間ト部屋」でtpt に初登場した演出家です。
「Club Silencio」サイトのno_hay_bandaさんはまず、「前面を石張り建築風にこしらえた舞台を黒い床が映し出す美術(松岡泉)がまず上出来」と褒めています。この芝居に触れた人はほとんど、舞台美術や装置を評価していました。no_hay_bandaさんはまた「冒頭そこに登場してくる人物の衣装(原まさみ)も意表を突いてこれまた良い。骨董店主人(塩野谷正幸)の風体、口上もよろしく、期待を持たせる」としながら、箪笥の競りで、法外な安値を付ける娘清子(中嶋朋子)が現れると、その期待がしぼむと言います。なぜでしょうか。「理と情の釣り合いをとらないといけない役のはずなのに情が前に出すぎている。そしてそれを破裂を伴うような声で演じるので場違いな感情過多と映る。もともと説明口調のところにもってきてそれだからこちらの気持ちは舞台に入っていけない」というのです。
「しのぶの演劇レビュー」も引っかかったとみえ、「Club Silencioで書かれているとおり、私も清子役の中嶋朋子さんの演技がどうも受け付けづらかったです。お話の中、そして想像(夢)の中に入って行きたいのに、主役の彼女が現実世界の個人的感覚に浸っている様子で、私もベニサン・ピットの客席に座っている自分のままで居るしかありませんでした。でも、言葉がはっきりと伝わってきたので、お話の意味は非常にわかりやすかったです」と述べています。とはいえ、この競売のシーンで次のような指摘に出会い、うなってしまいました。
清子に関して、さらに別の見方を紹介しましょう。「現代演劇ノート~〈観ること〉に向けて」の松本和也さんは「tptの「道成寺」は三島由紀夫の台詞の言葉との距離・バランスを巧みに取りながら、情念という言葉とはおよそかけ離れたモードの中で清子=中島朋子を迎えることになるだろう。つまり、ニーハウスの演出は、このように台詞や演技をひとたび解体し、あたう限り重みを削いだ記号として(再)配置することで組み立てられている、「道成寺」のポスト・モダン的地平を形作っている」とした上で、次のように展開します。
もう少しネットを見歩いたら、「日々つれづれ」サイトの次のような個所に出会いました。
中島朋子の演技を軸に紹介してきました。当然のことながら、今回の舞台は彼女が自分勝手に演技しているわけではありません。ニーハウスの演出が演技の様式を決め、それが舞台に現れているように思えます。その意味で「「現代演劇ノート…」が、演出との関係で彼女の演技をみているのは妥当な手続きだと思います。
逆に言うと、彼女の演技に疑問符が付く場合は、遡って「ニーハウスの演出」にも言及してよいのではないかと思われます。
それにしても「破裂を伴うような声で演じる」スタイルは最近よくみかけますが、その異質な、ある種の違和感を伴う「発声」の意味と響きを、ニーハウスはどこまで了解しているのだろうかという疑問は残ります。エーと、こういう風に書いてしまうと、これはまたまた、半ば役者の問題でもあるということになってしまうのですが…。難しいですね。
[上演記録]
三島由紀夫:作 トーマス・オリヴァー・ニーハウス:演出「道成寺 一幕」
ベニサンピット(8月20日-9月4日)
<出演>
中嶋朋子 塩野谷正幸 千葉哲也 大浦みずき 池下重大 植野葉子 廣畑達也
<スタッフ>
演出:トーマス・オリバー・ニーハウス
美術:松岡泉
照明:笠原俊幸
音響:長野朋美
衣裳:原まさみ
ヘア&メイク:鎌田直樹
舞台監督:増田裕幸・久保勲生
協力/ドイツ文化センター