◎身体以前
照明はグリーンのドット・斜めに横切る赤い通路と変化し、やがて白い帯となって舞台の四辺を照らした。ステージ中央は黒い四角となり、伊藤キムと白井剛はその周縁を動く。
はたしてこの黒い空間は、溝口の究竟頂(1)なのだろうか。空間の閉ざされた扉を外から叩いてみたが「拒まれているという確実な意識が」生まれたのか、あるいは周りをうろついて空間を探ってみたが何もなかった、と言いたいのだろうか。
「『いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である』という逆説を示している。この中心とは緑で覆われて、お濠によって防禦さていて誰からも見られることのない皇居であり、『そのまわりをこの都市の全体がめぐっている』」(2)……この話オシマイ。
何が書きたいかというと、組んでかたちをつくることはほとんどない彼らの(軸も重心も外した動きは、反応を窺いながら重心をあわせるとか相手に呼応するとか、関係性の微細な変化を身体表現で増幅させるなど組んで踊られるダンスの快楽から程遠い)、あの寒々しい距離から、「そこには何もない」という空虚さは伝わってきたのである。
ではこの照明、可動域をはっきりさせたのだとして、それは外が決まることによって、おのが意識も芽生えてかたちづくられる、という自己認識過程の提示だったのか。それにしてはずいぶん簡単に、外枠は斜め、回廊型と目まぐるしく変わったものだ。つまり「外」を決める条件は、絶対的ではあり得ない。もっといえば「外と内」は相対的な概念のはずであり、むしろ一概に「外」なり「内」なり振り分けること、分けようとする言説、分けられると思い込んできた自明性を疑うという態度が「コンテンポラリー」であり、そこへ批評的に近づくか、また例えば『SHOKU』黒田のように地団駄を踏んで踏み抜こうとするか、というアプローチの違いがあると私は考えている。それで伊藤はどうだったのだろう。
照明の当たった二つの身体は、とてもフォトジェニックに感じられた。簡単に書くと身体は「これみよがし」に光をあてられていた。これと、冒頭で全裸の(または、全裸に見える)伊藤と白井が、腹をつきだしてゆるい脚振り腿上げのような振りで登場し、いちもつを指差した動きに類似性があったと仮定すれば、伊藤は直接指し示しはしないものの、照明で「これが僕を決める外枠」と→を出していたのではないか。メタ・ライティングというべきか、一種の意趣返しの方法で、伊藤は外→内の自明性を問うたのだと思う。
「ステージ中央は黒い四角となり、二人はその周縁を動く」場に戻ると、この時の音楽は楽曲ではなく、無機質な音を使っていたと記憶している。伊藤と白井はもそもそと動き、中腰の姿勢で起きて、転げ、また起きて徘徊する。このような彼らの「振り」というよりは、不規則な拍に対する反応は実にコレクトだった。
物理的にいえば、音は空中・水中などを伝わる波動の一種である。彼らの動きは、楽曲を形成する以前の、いかような「外枠」をも透過する波動に反応せずにいられない、という意思ではなかったか。非力で何もしないように見える身体の内側には、波動に対し生体反応をする不定形の生命体が、びっしりつまって蠢いている気味の悪さ、換言すれば空虚な黒い表層の下に貪欲な生の予感があった。したがって舞台は死の表象ではなく、また映画『ベジャール、バレエ、リュミエール』の冒頭の方で、モーリス・ベジャールが定義した「リュミエール=光」によってフォルムを明らかにされる以前の始原的な、いうなれば身体以前の表象を試みていたと思われる。(05.06.09 世田谷パブリックシアター)河内山シモオヌ
(1)『金閣時』三島由紀夫 新潮文庫
(2)「都市の中心、空虚な中心-都市を読む-」
二十一世紀舞踊 禁色
[原作] 三島由紀夫
[構成・演出・振付] 伊藤キム
[出演] 白井剛/伊藤キム