東京国際芸術祭の公演、ヤスミン・ゴデール振付作品、『ストロベリークリームと火薬』を見てきた(最終日の公演)。邦題では省略されてしまっているが、英語での原題は、YASMEEN GODDER & The Bloody Bench Players present: “STRAWBERRY CREAM & GUNPOWDER”となるそうだ。終演後のトークで、この The Bloody Bench Playersという言葉が重要な意味合いを帯びているものだったと知った。ベンチに座ったままで、プレイヤーとしてフィールドにたってプレイしているわけではない、Bench Players。その傍観者的性格は、イスラエルに関する報道写真をベースに創造されたこの舞台の性格を端的に語るものだったらしい。そのことを知って、自分が舞台を見ながら考えたことが全く的外れだったわけではないと思った。
現代では、劇場と言う装置は、どんな作品でも上演できるような中立的な空間を生み出すために機能させられている。現代の舞台は、社交的だったり、政治的だったりするような意味合いを帯びた空間とは別の次元に、どんなものでも配置できるような空虚な空間を立てるところから成り立っている。単純すぎる言い方かも知れないけれど、ともかく劇場の理念をそう考えてみることはできる。
そういうことを、あらためて『ストロベリークリームと火薬』を見ながら考えたのだけど、作品そのものがそう考えさせるものだったのだと思う。
イスラエルのダンスカンパニーの作品である、といっても、これは、どこまでもアメリカ的モダンダンスの系譜の上にある作品だと思う。海野弘の『モダンダンスの歴史』では、アメリカモダンダンスが戦後早くからイスラエルに根付いていった所以が語られていたと思うが、この作品の振付家は、11歳からアメリカに住んで、NYでダンスを学んでいたのだとのこと。ダンサーはイスラエル出身であるが、イスラエルという国の人工性と、アメリカという国の人工性はどこか通じるところがあって、そこに、モダンダンスがモダンダンスである所以もあると思う。
舞台空間の抽象性に見合うように、ダンススタジオは抽象的な空間なのではないかと思う。舞台が理念的には社交的な空間では無いように、ダンススタジオも理念的には社交的秩序から自由な空間だ。
『ストロベリークリームと火薬』の舞台は、一面ではダンススタジオのように抽象的な空間である。そこに、砂漠に転がる根無し草のようなものが一山あって、舞台下手の手前には、検問のゲートようなものがある。舞台美術を手がけた芸術家は、ダンススタジオを訪ねた経験も発想のもとにしていたとのこと。
いかにもモダンダンスだ、と思ったのは、動きのパターンというかボキャブラリーというか、そこにモダンダンス的な様式が見て取れたというだけのことではなくて、所作や運動が配置される空間の抽象性を感じたからだった。
暴力と隣り合わせのイスラエルの現実に取材した作品である、ということを語る前に、迂回するように原理原則の話を重ねたのにも理由がある。この作品に面し、現実の人間関係やショッキングな出来事の場面を生々しく模しているかのような部分を目にしながら、しかしそれがどこかよそよそしくさめたもののように感じられるところがあった。そして、嘆くような表情であったり、相手を踏みつけるような関係性であったり、ともかく形としては具体的に生活の場面に起こりうる所作が、一方でダンスのボキャブラリーと併置されているその仕方に半ば戸惑いながらも、どちらも等価なものとして配置される空間のあり方に、むしろ私の考えは傾いていったのだった。
たとえば、なにか凄惨な光景を目にして叫んでいるかのように静止したポーズ。口の中に銃身を突っ込んでいるかのように、ひとりのダンサーがもうひとりの口に片腕を構えるように添えた延ばした手を突っ込む場面。作品に織り込まれた、そうした場面を目にして、まるで写真のようだ、と思った。実際、この作品は、写真から出発して創作されたのだという。
叫ぶように口を大きくあけて、静止している。なにか奇妙な非現実感がある。ロラン・バルトが写真論の『明るい部屋』を書いているときに、ちょうど自分の演劇関連の文章を集めた論集の編集に携わっていたという話を読んだことがある。そんなことを思い返しながら、まるで写真のように静止している身体を提示することについて考える。
まるで写真のようだと思ってしまうときに、生身の身体はどこか置き去りにされている。でも、舞台空間の配置や演出のあり方は、まなざしがおかれている空間が身体までつながている感覚が消えるにまかせることはないので、まぎれもなくそこに身体があるということもまた、確かに感覚されている。しかし身体はそこにはない何かであろうとしている。写真が、まぎれもなくそこに画像を提示しながら、そこにはない現実の結果として残されたものとしてあるということに、ねじれた形で対応するかのようだ。
実際、この舞台では、ダンサーが目撃者の位置に立って舞台に居ることも多く、印象深かった。ダンサーにとって、見るだけの位置というのは、もっとも疎遠な場所なのではないかとも思う。ダンサーというのは、たいてい、触覚的な秩序の中で運動する存在なのではないか。ダンサーにとって見ることはどういうことなのかというのは、いろいろ考えてみるテーマではないかと思うのだけど、そのことはおいておく。
ダンスを見る悦楽のひとつは、身体が生きる必要から離れたところで、思わぬ質感や、意外な形態を見せてくれる場面に立ち会うところにあるとおもう。社交儀礼の秩序や、政治的なしがらみや、経済的な効率や、そういったものから離れたところに、突然開かれる自由な空間に出会う喜びこそ、ダンスに立ち会うようにいざなうものではないだろうか。この舞台にも、振り付けされたダンスとしか言いようの無い動きがあって、劇場の舞台空間が社会的な場を中断してくれるからこそ開かれる空間の抽象性が、身体運動の自由へと傾斜していく。
政治的現実が事件として現れるような空間というのは、生身の身体が生きてゆく必要にさまざまな仕方で迫られるような場所であって、舞台上のように恣意的な配置がゆるされる(からこそ創造性が試されもする)抽象的な空間とは正反対の、きわめて具体的な空間ではないかとおもう。多分、具体的な空間を不自由な空間と言ってしまうのは間違っているとは思うけれど、ここでは、舞台の抽象性との対比を図式的に捉えて話を先に進めたい。
この作品は、、まぎれもない政治的現実を表象しようとする身体の形態、身体のレベルできしむように作用するさまざまな権力の表徴となろうとする身体の形態が、ダンスが開く自由の空間の中に併置されているもののように思える。だから、舞台で展開することは、鏡に映った像が現実に物理的に差し迫ってくることは無いように、政治的、社会的現実に投げかけられる何かではない。ただ、抽象的な空間に具象的で必要に苛まれる身体の像が置かれるという落差や、その醒めたへだたりの感覚こそが、単に臨場感の錯覚を生み出す再現芝居とはまったく違う仕方で、そこにある身体がそこに無い現実を映し出そうとする逆説となって、観客の認識をゆさぶるものとなり得たということではないのか、といったことを考えた。
なんだか、理屈っぽくなってしまったけれど、自分が舞台を見て感じたことと、舞台を見ながら考えたことを、率直に書けば、こんな風になる。それをもっとわかりやすく書くだけの能力と時間が筆者には欠けていたということで、ご容赦いただきたい。
この作品のラストシーンは、一組の男女が嘆きあい、分かれていくといった場面が展開するさなかに、他のパフォーマー達がカーテンコールのように挨拶をするというものだった。ここで、舞台の上では、一方で劇の一場面のように上演が続きながら、一方で上演の空間を締めくくって社会的秩序を呼び戻す儀式が上演に割り込むように上演される。
結局そのあともう一度本当のカーテンコールが行われて、社会的秩序は回復され、観客は中吊りの状態から開放され、安心して帰ることができたのではあるけれど、社交儀礼によって維持される社会的秩序の空間が機能することで、舞台という上演の空間もまた生み出されている、という事実もまた、この作品の射程のなかに入っていたということなのかな、と思う。
社会の中に抽象的な自由の空間を開くのが、舞台を社会の中に位置づける社交儀礼的秩序であるとするならば、舞台の上に開かれた自由は、ほどよく社会のなかに許され、安全なものとされてしまったものでしかない、ということだ。
同じ様なことを考えながら見てる人がいて、びっくりしました。ただ僕の場合は、この演劇(ダンス?)を見て考えてる自由な僕自身が、まさに「ほどよく社会のなかに許され、安全なものとされてしまったものでしかない」存在だと思ったら、何か一周しちゃった感じがしたんですよね。
僕は普段ライブに行くことが多くて、演劇は誘われると見るくらい、この舞台も券をもらったので見ました(笑)。
それで質問なんですが、「抽象的な空間に具象的で必要に苛まれる身体の像が置かれるという落差や、その醒めたへだたりの感覚こそが、単に臨場感の錯覚を生み出す再現芝居」って具体的にどんな公演を指してるのか、よかったら教えてください。特定の劇団を想定してなくても、やっぱり見た体験から書かれてると思うから。
僕はうまく書けないけど、伝統芸能みたいに生き残ってきたものとか、逆に記録にも残っていないけど親しまれてきたものって、こういうことに無自覚だったりみないふりをしてるんじゃなくて、もう知りきってて、いちいち言わないっていうところから立ち上がってるんじゃないかっていう気がします。
「俺たちは再現と違う」って、言ったもの勝ちなとこがあるけど、でもいきなりそう言われても説得力ないんですよね。そういう言葉と思考パターンだけマネすれば言えちゃうじゃないですか。本人にはコピペしてる意識がなくても、内容が追いついてなくても。そこが怖いと思うんだけど、この舞台はそういううさん臭さがなくて、パフォーマンスがすごく充実してて面白かったです。
お邪魔しました。また来ます。
コメントありがとうございます。
とりあえずご質問に関して。
引用の切り取り方を見て、ひょっとして誤解されているかなと思いました。まあ、あわてて悪文を書いている私が悪いんですが。
「抽象的な空間に具象的で必要に苛まれる身体の像が置かれるという落差や、その醒めたへだたりの感覚」というのは、今回レビューしたヤスミンさんの公演についての描写です。
「単に臨場感の錯覚を生み出す再現芝居」というのは、観客がまるで現実を目にしているかのように思ってしまう(ことを意図して作られている)舞台のことです。わりと良くある演劇のイメージに収まるものだと思います。
能とか歌舞伎とかの話になるとまたいろいろ問題が広がりそうですが、とりあえず、伝統芸能の舞台は、見る側にもそれ固有の位置を割り振る場所としての性格があったように思います。というのも、今回の文章に密接にかかわるテーマでもあったのですが、展開しきれてなかったですね。
短期間にこれだけの長さの文を書くのって大変でしょうね。僕の切り取り方もまずかったと思います。
柳沢さんの回答から「再現芝居」は比喩的な言い方ではなく実際の舞台を指している、と解釈したのですが、これは問題ないですよね。観客の感じ方はそれぞれだから、現実を目にしているかのように思う人がいるかもしれないけれど、作る側も錯覚を意図している、のかなア?
だとすると「良くある演劇」(今は敢えてここだけ切り取ります)ってやたらレベル低くないですかね。柳沢さんの元の文と回答の説明を足して、僕はしょっちゅう宣伝してるようなメジャーな劇を想像しましたが、見た感想をいえば、現実そのもののように思うということはなかったし、やる方もはっきり絵空事って感じでした。僕は演劇を暇つぶし程度にしか見てないけど(申し訳ない)、一人で本読むだけって怠慢だなと思ったぐらいには刺激的でしたよ。
レスいただいたのに「わりと良くある演劇のイメージに収まるもの」が何なのか、飲み込めなかったのが残念です。柳沢さんの「演劇のイメージ」と、僕のそれがかけ離れてるのかもしれないですね。具体的な例示があるとよかったです。
柳沢さんの文の趣旨とずれるので、これくらいにします。あまり演劇を見ない一般人が書き込んじゃったんですけど、レスありがとうございます。
ちょっと不親切なコメントになってましたね。
もうしわけない。
回答が迂回したり不十分だったりはままあることということでご容赦下さい。
コメント欄での本文からの話題の脱線は全然OKです。
「わりと良くある演劇のイメージに収まるもの」
なんですけど、イメージっていう言い方が悪かったでしょうか。
私が問題にしたいのは、上演の効果以上に、上演のコンセプトですね。
舞台の上に、ある場所のある場面が再現される演劇のことを再現芝居と言っていると考えてもらって構いません。上質な再現芝居もあれば質の悪いものもあると。
例示っていうとなんというかポレミックになりすぎる気がしてあまり挙げたくなかったんですが、↓なんかは、「再現芝居」と言って良いと思います。
http://d.hatena.ne.jp/yanoz…
それをどう評価するかは別問題として。
もちろん、再現的な演劇でも優れたものはあるはずです。
でも、その場合、パフォーマンスの上質さというのは、再現という事とは別の次元ですばらしいのではないかという気もしますね。
具象画が、単に写真みたいというだけでは、絵としての魅力はない、というようなことが言いたいわけですが。
まあでもそのへん、簡単には割り切れないことでしょうが。