#4.ARICAの『キャラバン』/白い空間

 たいていの劇場では、舞台の壁が黒く塗られていると思う。たとえば横浜のST Spotのように、壁が白く塗られた劇場もあるけれど、例外的なものだろう。
 ARICAの公演『キャラバン』は、ギャラリー的なスペースで上演されていて、真っ白な壁に囲まれた空間でパフォーマンスが展開していたのだけれど、この作品のテーマの核心は、この白い空間と密接な関連を持つものだったのではないだろうか。


 『キャラバン』の公演チラシは、ほとんど白い紙の上に文字が印刷しているだけで、よくみるとクリーム色で線が引かれていて、これは裏面に印刷してある会場周辺の地図と同じ図面だということがわかる。

 この視覚的な構成は、舞台のコンセプトそのものを明確に指し示すものとなっている。

 『キャラバン』は単純で明快な内容を持っている。チラシの表面に印刷された説明がそのすべてを簡潔にまとめているので一部引用する。

 市場を求めて移動する二人の女行商人。しかしその市場はどこにあるのだろうか。
 二人はとりあえず、「今ここ」を市場として、その場に品物を陳列する。

 彼女たちはどこかを「市場」と定めなくてはならない。

 『キャラバン』は、実際のデパートなんかで使われていそうな搬入用のキャスター付の大きな鉄の籠みたいなものに、ダンボール箱が積まれていて、それを小型の自転車みたいなものでひっぱって、明かりが消えた舞台へと入場してくるところから始まる。安藤朋子が自転車を漕いで、黒沢美香が後ろに乗っている。
 
 この「キャラバン」がぐるぐると舞台をまわっている。小さな自転車の座席の後ろに蛍光灯がひとつ。

 やがて、会場に明かりがともり、キャラバンは荷物を降ろして、場所を計測し、そこに店を開いて、品物を陳列する作業を行い、チンドン屋風の音楽にあわせて客寄せの口上を述べ、店をたたみ、その場を去っていく。

 そうした一連のプロセスが端的に提示されるというだけの内容であって、明快だ。実際に商業的に使われるダンボールや籠が配置され移動されていく様子は、まるで現代美術のようだ。

 舞台が黒い空間とされるのが一般的である一方で、ギャラリーは白い空間とされるのが一般的だ。もちろん、いつのまにか誰が決めたのでもなく制度化された「ホワイトキューブ」に対して批判的に対峙しようとする芸術活動もあったのだろうし、プロセニアムアーチの背後に広がる黒い空間に対して批判的に対峙しようとする芸術活動もあったのだろうけれど、劇場が黒くなり、ギャラリーが白くなることには、何か、時代を支配した舞台の理念、美術の理念に根ざすものがあるのではないかと思う。
 
 『キャラバン』の場合、どことも定まらない「今ここ」という、作品にとって本質的で抽象的な場所のあり方を形象として示すのに、無規定な白い壁にかこまれた空間が最適だったということだろう。

 黒い背景の中にイメージを浮かび上がらせるということは、つまり、余分なイメージを闇に沈めて、夢のように、ある特定の情景を浮かび上がらせるということだろう。

 白い背景の上にイメージを置くことは、それとは違った印象を生み出すだろう。『キャラバン』の場合、白い空間の上に配置されるダンボール箱や搬送用の籠や、ビニールにくるまれた衣類の類は、たまたまそこにあるだけの任意のイメージであるという感覚を生んだように思う。

 ギャラリー空間での演劇の試みはいろいろと行われているだろうけれど、白い空間の中にパフォーマンスを置くことに固有の領域には、まだまだ開拓の余地があるように思われる。

 『キャラバン』から「現代美術」の「インスタレーション」のような印象を得たということをめぐって、この舞台作品の成り立ちについて考えてみるべきことはいろいろあるような気がするけれど、ひとつ、舞台の形象がある種の虚構性をことさら強調するようなものだったことに留意しておきたいと思う。

 たとえば、「作業」としてなされる行為のひとつひとつには、なにか多少の誇張をともなった様式化があって、作業を作業として成り立たせる効率性とは別のところになりたつ演技の質がそこに加味されている。

 あるいは、ファンタジー的な異世界の意匠であるかのような、和服風の作業着という設定にしても、いかにも虚構性を強調している。

 舞台には、何度か、都会のにぎわったカフェかアパレル系の店舗で録音されたような音が流されて、舞台の上に示される商行為の形象が現実と照応するものであることが示唆される。
 そのことは、チラシの表の作品についての説明の下地に作品が上演される空間を模式的に示す図面がうっすらと印刷されているのと同じことだ。

 作中で声に出されるテキストにおいて、服の素材となる綿花を栽培したり加工したりする労働のことが語られる一方で、より抽象的な仕方で、貨幣経済の体制にまきこまれる生のあり方について根源的な反省を促すような理念的な形象が浮かび上がることにもまた、現実に対する指し示しがある。

 しかし、舞台に置かれるイメージや言葉は、現実をありのままに再現してみせようとはしないので、虚構という枠組みをとることで初めて照らし出せるようなしかたで現実と対峙するような性質のものとなっていて、その虚構をある種の夢想として閉じるのではない仕方で現実と照応するものとして併置してみせるのに、白い壁というイメージ、というか、白い壁は白い壁として現実の空間に他ならないわけだけれど、その虚実の皮膜として目の前にある壁そのもののあり方というものが、うまく言えないのだが、効果的だったと思う。効果的という言い方自体が考えるべきことを考えないから許された言い方という気もするけれど。

 虚構化というのは模式化でもあって、模式化によって現実をとらえる手がかりが与えられることもある。

 しかし、模式化にはその裏面に様式化もあって、そうした様式化は現実のあり方とはかかわりのない自律的な、うまく言えないが美感のようなものを模式に与えることもある。

 おそらく、その点に、知的で抑制の効いたこの舞台がパフォーマンスの質においてもまた持っていた楽しさにどこかケレン味があったことと通じる問題があるような気もして、陳列作業や撤去作業を模したパフォーマンスの中の機械仕掛けの運動に伴う感興や驚きというものが、舞台という機構そのものの成り立ちの模式でもあったように思うのだけれど、そしてギャラリー的な白い壁というのは、釘が打たれたりネジが巻き込まれたりすることを想定して作られた可塑的な平面で常にあるわけだけれど、そしてそこにもまた作品のテーマを結実させている理念と密接に関連している何かがあるのだろうと思われる。

 今ひとつその点に踏み込んで考えることができないままでいるのだけれど、とりあえずこの場所に中途半端ではあるが書き込んでおきたいと思う。


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  1. ピンバック: yanoz

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