マレビトの会「アウトダフェ」

◎言葉が溢れ、言葉が失われる歴史を舞台に
高木龍尋

「アウトダフェ」公演チラシ劇作家に限らず、物書きと呼ばれる人には、書きたいこと、書こうとしていることとは別に、書かざるを得ないことや書かなければならないことがあるように思う。「初日までの日数がもうないから書かなければならない!!」とか、「編集者にずっと睨まれているから書かざるを得ない!!」というとても世知辛い外からの要因もあるかも知れないが、物書きの心の内から要請される物事があるはずである。その、書かざるを得ない、は書く内容についてもあるだろうし、どのように書くかということもある。関西人にあてはめれば、ボケとツッコミの会話にせざるをえない、オチのある話でなければならない、というところだろうか。

関西でも京都にいる松田正隆は、おそらくボケとツッコミはしないだろう。京都は関西とはいえ、大阪とはかなり違う。何より、松田さんは長崎の生まれである。その人がこのところ書かざるを得ないことは、生地のことではないだろうか。松田作品には長崎および九州を舞台としたものが多く、台詞にも九州の言葉を用いたものも少なくない。特に、キリシタンの受難、殉教の地が深く関わる作品が、松田作品のひとつの柱となっている。

今回の作品「アウトダフェ」も、些か変形ではあるが、その系譜の中に入るものだといえるだろう。「アウトダフェ」という言葉は「火あぶりの刑」という意味の言葉だと松田さんは言う。辞書などで詳しくみると、異端審問や宗教裁判を「アウトダフェ」というようで、それによって処せられる火刑も「アウトダフェ」というのだそうだ。この「アウトダフェ」を松田さんに呼び寄せたのは、かの原発事故で知られるチェルノブイリを訪れた経験である。そこに、キリシタン受難の地やアウシュビッツ収容所、そして、長崎の原爆投下が重ね合わされ、作品のモチーフは出来あがっている。

さて、この作品を観るにあたって、松田さんはインターネットや配布されるチラシやリーフレットで、多くの情報を私たちに発信している。それは観てわかったのだが、少なくともチェルノブイリと「アウトダフェ」が「火あぶりの刑」ということを知っていなければ、この作品がどのような意図の上でつくられたのかわからないからである。

演劇に現実に起こった事件や事故をとりあげる場合、いくつもの方法があるだろう。例えば、出来事を舞台の上にそのままに近いかたちで演劇的な効果も加味しながら上演する方法、周辺や後日談を描いて出来事がどのような意味を持つかをあぶり出す方法など、出来事を直接的に、あるいは間接的に説明しながら作品を仕立ててゆく。また、仮想の世界や都市をつくりあげて、その中で現実にあった出来事と同様のことを起こし、戯画化したり暗示したりすることもできるだろう。だが、「アウトダフェ」はそれらと違っている。現実の出来事が作品の素材にはなっているのだが、作品の中でその出来事を具体的に挙げることはできない。いつの時代なのかどこの国なのか、わからない中での発掘作業というかたちで、現実が顕れてくる。厳密に特定できる出来事ではなく、それまでその地に埋められてきたすべての出来事が顕れ出てくるのだ。つまり、歴史が一時に溢れてくるのである。

この土の中に眠る歴史がどのようなものなのか。もし、その土地が繁栄を極めた都の跡であれば、華やかな宮殿の遺構や豪壮な装飾品などかあるかも知れない。厳かな寺社や教会の跡であれば、人びとが祈りを捧げた像や巨大な礎石が見つかるかもしれない。しかし、この発掘現場から出てくるのは無数のガラクタ、そして、夥しい量の言葉である。その言葉もガラクタと同様、何も整理がされていない状態で、時代も人物も行動も、言語さえもが混乱し、何が何を伝えているのかわからない。そして、発掘する作業員たちも、自分が何を発掘しているのか、何のために発掘をしているのか、以前からいる者たちは既に混乱し、新しく来たオデュッセウスAという作業員も混乱が始まり、幻聴のような天皇の伝令を聞き、次の伝令を待っている。彼らの発掘作業がいつ終わるのか、発掘作業の終わるときがあるのかはわからない。発掘された膨大な物や言葉が整理されれば歴史として編纂されることになるのだろうが、この発掘現場から出てきたものが歴史の一片となり得るとは思えない。

この歴史として記されない歴史、歴史とならない歴史がこの作品の描くものではないだろうか。歴史に記される人物や品物は、その時々で傑出したものである。あるいは、後の世の誰かに発見され、とりあげられて記されなければ名が残ることはない。翻って考えれば、その他の数多の人や物は歴史に名は残らなかった。仮令、歴史上大きく扱われる事件、事故であったとしても、それに関わるすべてが歴史となって残ってゆくわけではない。死者や負傷者や崩壊した建物の数が記録として残ったとしても、そのひとりひとり、ひとつひとつの名が残ることはない。歴史の裏には歴史にならなかった無名者の歴史が夥しい量となって堆積しているのだ。その無名者の言葉や所持品も同じことで、それらが整理されることはない。ただ、掘り出され、積み上げられてゆくだけなのである。

発掘現場の作業員たちも、いずれその無名者の歴史の中に堆積してゆく人たちなのであろう。この作品の中で名前を判別できるのはオデュッセウスAのみである。またその名も、規則的に割り振られた記号のようである。発掘をしながらも、その歴史とならない歴史の中へ、彼らは焼き付けられてゆく。「アウトダフェ」は彼らの、そして、止まることなく流れてゆくのみの時の中に生きる私たちに科せられた刑なのであろう。ただ、歴史に焼き付けられるか、歴史とならない歴史に焼き付けられるか、それはわからない。時代にどれだけの人が生き、どれだけの言葉が溢れたとしても、その大方の言葉が風化し失われてゆくときが来るのである。

「アウトダフェ」はこのような歴史の裡を舞台の上にそのまま載せた作品だといえるのではないだろうか。
(2006年10月1日 伊丹・AI HALL)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第13号、2006年10月25日発行。購読は登録ページから)

【筆者紹介】
高木龍尋(たかぎ・たつひろ)
1977年岐阜県生まれ。大阪芸術大学大学院芸術文化研究科博士後期課程修了。同大学院芸術研究科嘱託助手。文芸学専攻。

【上演記録】
マレビトの会「アウトダフェ」
兵庫県伊丹市・AI HALL(2006年9月28日-10月1日)
東京公演(世田谷シアタートラム)(2006年12月8日-10日)予定

作・演出 松田正隆
[出演]
田中遊/武田暁/山本麻貴/桝谷雄一郎/F・ジャパン/山口春美/牛尾千聖/宮本統史
スタッフ:
舞台美術 奥村泰彦
照  明 吉本有輝子
照明オペレーター 高原文江
音  響 宮田充規
演出助手 米谷有理子
舞台監督 清水忠文
宣伝美術 相模友士郎
イラストレーション 入江マキ
制  作 杉山準・本郷麻衣・和田克己

共同製作:AI・HALL(伊丹公演)
共  催:シアタートラム(東京公演)
助  成: /舞台芸術振興事業
京都芸術センター制作支援事業
(社)企業メセナ協議会 2005年度第6回助成認定活動
協  力:NPO法人フリンジシアタープロジェクト/魚灯/劇団衛星/Theater Reservation/正直者の会/真昼
主  催:マレビトの会/特定非営利活動法人劇研

【関連情報】
マレビトの会official blog:http://marebito.gekken.net/


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