長塚圭史作・演出「アジアの女」(新国立劇場)

◎ふかふかの絨毯は生きた心地がしない
今井克佳

「アジアの女」公演チラシ開演前の舞台を見つめていて、ふと香月泰男という画家の絵を思い出した。過酷なシベリア抑留体験から生まれたいわゆる「シベリアシリーズ」の作品の一つに、暗い色調の骸骨のような人間の顔が壁のように並んでいる絵があった。あれは死者の顔ではなかったか。

新国立劇場小劇場の可動空間は、舞台を両側から客席が挟むかたちに設置され、本来の客席の方向からみると、対面の客席のまんなかを舞台裏へ抜けるように舞台が続いている。舞台がいわば逆T字型に見えるのだ。その両脇の客席の暗がりに並ぶ観客の顔が、この作品の設定である近未来の大震災によって死んで行った人たちに思えたのである。もし本当に近未来に震災があったならば、いま客席に座っている私たちの多くが、瓦礫の下で死者となるかもしれない。私たちは死者としての視線で、この芝居を見守るのだ。

長塚圭史が、はじめて新国立劇場に書き下ろした作品は、新境地、といってもいいくらい、いままでの作品と雰囲気が異なっていた。観客を死者の眼とするのはうがちすぎだとしても、こうした空間配置による客席と舞台の融合、そして劇場のある「東京」という外部と劇空間をリンクさせる(まさに舞台は震災後の「東京」であるのだから)ことを、長塚演出はほとんど行ってこなかったといえる。長塚作品のほとんどすべてが、選んだかのようにプロセニアム形式の舞台で行われてきたのは振り返ってみれば興味深いことだ。

また定番であったグロテスクなアイテムも今回は現れない。死体も、血糊も、廃棄物もこの芝居にはない。出演者の一人である岩松了へのオマージュであるかのように、静かな演劇風の会話の中で物語は少しずつ進んでいく。

大震災によって壊滅した東京。避難勧告の出ている袋小路に住み続ける兄と妹。兄、晃郎(近藤芳正)は酒浸りとなっていたが、震災以前に精神を病んでいた妹、麻希子(富田靖子)はむしろ回復しつつある。兄が以前編集者としてついていた才能のない作家一ノ瀬(岩松了)がそこに因縁をつけに現れる。兄は一ノ瀬の父親である編集長に頼まれて、一ノ瀬のつまらない作品を雑誌に載せ続けていたのだ。一ノ瀬は去ろうとはせず、兄妹のもとで新しい作品を書こうとする。

回復しているとはいえ、麻希子は床下に現れるネズミを死んだ父親だとして食事を与えていたり、道端の固い地面に作った小さな「畑」に水をやって、野菜が芽を出し育つことを信じていたりする。やがて、生活のために、「ボランティア」と称する売春組織で働きだすようになるが、そこで出会った中国人男性を愛し彼のもとに去ろうとする。ここで唐突にも麻希子について、「アジアの女」という表現が晃郎によって使われる。全体として長塚の筆力は緻密で優れていると思うが、震災後の東京で中国人が差別されているという文脈があるにせよ、この部分だけはとってつけたような不自然さを感じた。

確かに麻希子は狂っていながらも、あるいは狂っているからこそ、一種の明るさと純粋さを持っている。実際には存在しない蝿を追い払う強迫観念にとりつかれている一ノ瀬に共振して、一緒に蝿を追い払うシーンはひとつのポイントだろう。この行動により麻希子と一ノ瀬はある種の共感(心理療法的にいええばラポール)を構築する。だからこそ売春組織の元締めである鳥居(峯村リエ)が麻希子を脅しにきた時、一ノ瀬が最も過激に鳥居を撃退するのだし、まともな物語の一つも書けなかった一ノ瀬の口から、メルヘンのような希望の物語が最終部に近く語られるのも麻希子が与えた力によるものであろう。

その意味では麻希子が最も生命力を発揮しているのであり、民族を越えて愛を育み、荒れ地から実りを得ようとするたくましさをもっている「アジア」的な女性なのだ、ということなのであろう。しかし、それらは狂気に裏打ちされたものであり、「アジア」の語が想起させる土着的な力強さとは異なる、脆弱であるがゆえの純粋さを感じさせるものではないだろうか。

むしろ私の印象に残ったセリフは、晃郎によって揶揄される、一ノ瀬の意味不明の小説の一説である。「ふかふかの絨毯は柔らか過ぎる。柔らか過ぎて生きた心地がしない」。晃郎は「こんなものが面白いのか、おまえは」と吐き捨てるが、麻希子は「面白かった」という。麻希子の精神異常の原因は語られないが、ここで暗示されるのは、震災以前の「ゆたかな」東京が、麻希子にとっては「生きた心地がしない」ものであったということである。だからこそ、震災後の壊れた世界で、麻希子は生きる力を発揮し始めるのだ。

「アジアの女」は、コンクリートがとりはらわれた土に根をおろしてこそ生きるのだ、ととることもできる。しかし、阪神大震災でボランティアをした高校生たちが、はじめてそこに生き甲斐を見いだしたという逸話を、私は思い出さざるを得なかった。生き生きと生きるためには、そして「物語」が再生するためには、むしろ震災や戦争のような異常事態が必要なのだ、という皮肉な結論がそこから導き出されては来ないだろうか。いや、皮肉であるというよりは誰もがすでに気づいていることではないか。逆説的にであるかもしれないが、この作品はむしろそのことを表現していると考える。

最終部もまた印象的である。麻希子に思いを寄せていた巡査村田(菅原永二)が麻希子の死を暗示させて泣き崩れた後、暗転とともに恐れていた余震とも思える轟音が響く。客席まで揺れるような気がして、まさにここが「東京」である怖さを感じさせた。やがて舞台が明るくなると、あの麻希子の「畑」からは何かの植物がツタをはわせて舞台に広がっている。一瞬誰もが、麻希子の信じていたその畑から作物がついに生えたのだと感じ、また一ノ瀬が語った物語が成就したのだと感じただろう。感動の結末。しかし果たしてそうだろうか。そのままカーテンコールもなく舞台は終わる。退出の際に舞台に近づいて、しげしげとセットを眺めてみた。

作品の設定に従うならば、余震が起これば兄妹の住処は巨大な建物が崩壊してつぶされてしまう。しかしそのまま、セットは残り、植物だけが生えている。それは野菜などとは思えない雑草的な植物だった。この風景は本当にこの物語の結末なのであろうか。誰もいないこの景色は物語自体が幻想であったとさえ思わせる。こうしたあいまいさを残した結末は「悪魔の唄」(2005)などとも共通している。この点についてはむしろ長塚のうまさだと考えたい。多義性のある作品、議論のつきない作品という意味で、語るに足る作品をまたひとつ長塚圭史は生み出したと感じた。

最後になってしまったが、富田靖子、近藤芳正、岩松了を中心とする俳優たちの抑えられた安定感のある演技は特筆すべきであった。俳優の演技力がすべてにおいて説得力を増していたといえる。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第14号、2006年11月01日発行。購読は登録ページから)

【筆者紹介】
今井克佳(いまい・かつよし)
1961年生まれ、埼玉県出身、東京都在住。東洋学園大学助教授。専攻は日本近代文学。演劇レビューブログ「Something So Right」主宰。
・今井さん執筆のレビュー一覧 (wonderland

【公演情報】
アジアの女
新国立劇場小劇場(9月28日-10月15日)

・舞台写真集 http://www.nntt.jac.go.jp/frecord/updata/10000054.html
・ステージ/客席配置図 http://www.nntt.jac.go.jp/updata/ko_10000146_zaseki.jpg

スタッフ
作・演出:長塚圭史
美術: 二村周作
照明: 小川幾雄
音響: 加藤 温
衣裳: 宮本まさ江
ヘアメイク: 綿貫尚美
演出助手: 長町多寿子
舞台監督: 矢野森一

芸術監督: 栗山民也
主催: 新国立劇場

キャスト
富田靖子
近藤芳正
菅原永二
峯村リエ
岩松 了

★「アジアの女」シアター・トーク★
【日時】 10月1日(日)終演後(15時終演予定)
【会場】 新国立劇場 小劇場
【出演】 長塚圭史(作・演出) 富田靖子 近藤芳正 菅原永二 峯村リエ
岩松 了
【司会】 堀尾正明(NHKアナウンサー)

【関連情報】
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