◎表現形式の実験+面白い発見のある楽しめる作品に
宮沢賢治の作品を3つの団体がそれぞれの演出でリーディングするこの企画、その中で大岡淳演出による『セロ弾きのゴーシュ』を観た。リーディング公演。しかも超メジャーな作家の作品ということもあって、あまり楽しい公演ではないだろうと思っていたのだが(失礼)、観てみると予想に反し、面白い発見のある舞台だった。
開演すると、ロックのSEにあわせ、大岡氏がさっそうと登場。この企画について、また『セロ弾きのゴーシュ』という作品についての説明を観客に向かって早口でまくしたて、共演者の3人を紹介し、迎え入れる。まるでバンドのメンバー紹介のようだ。舞台ではこのMC(?)部分とリーディングの部分が交互に繰り返されるのだが、私が興味深いと感じたのは、この形式が音楽のコンサートの形式を模しているという点だった。あたかもミュージシャンが曲を演奏し、バンドメンバーと少ししゃべった後、また演奏するといった風なのだ。MC部分においては、役者はそれぞれ自己陶酔気味のミュージシャンのようなキャラクターを演じているのだが、それは舞台上の役を演じているというより、もっと自分たちに近い形で話しているし、舞台の上だけで話しているのではなく、時には観客に向かっても話しかけている。
このような演出によって、観客は身構えて舞台の様子を凝視するというより、舞台に参加しているような感覚を覚えるのだった。コンサートとの比喩で言ってみればこれは「ライブ感覚」といった所であろうか。実際観客は笑いが絶えなかったし、観客からの声援(?)に大岡氏が答えるという「コール&レスポンス」のシーンもあった。客席と舞台がゆるやかに繋がるのだ。過剰なまでに話題に取り上げられる「内輪ネタ(恐らくほかの参加劇団のモノマネ)」もそのような役割を果たしていたと言えるだろう。舞台という閉じた空間を開くために、「演劇」の形式ではなく「音楽」の形式を用いるという発想が見事だ。演劇という形式について意識的な作品をこれまでも作ってきた大岡氏らしい演出手法だと言える。
また、MC部分でもリーディングの部分でも、『セロ弾きのゴーシュ』という作品について、出演者自身が説明するというメタ的な視点があるのも特徴。例えば「この部分には賢治の作品に見られる残虐性が…」とか、「この作品はチェロ奏者というアーティストが真に社会に必要とされるまでを描いており…云々」ということを役者が作品を読みながら説明するのであった。
考えてみれば「リーディング」という行為自体が、演劇の本公演というものに対してメタ的な次元にある。「完成された」本公演でなく、リーディングという完成品への「準備段階」を観せることによって演劇という形式の本質の一端が垣間見えるのが面白い。近年日本の演劇シーンでも、リーディングやプレ公演、ワークインプログレスなど、完成品に至るプロセスを作品として公開することが多く行われるようになっているが、それは作品を「閉じない」ための作戦と言えるのではないだろうか。そしてこの『セロ弾きのゴーシュ』という作品には、そのための様々な戦略的なアイディアが詰め込まれたような作品だったと言えるだろう。
しかし、観客として観ている私はというと、そのような手法の面白さよりも、べらんめぇ口調に、あるいは女子高生口調に書き換えられたテクストと、役者の暴走含みのハイテンションな読みっぷりを楽しんだのだった。演劇、あるいはリーディングという表現形式についての実験というだけではない、楽しめる作品だったのが良かった。
(初出:表現を発見する小劇場の新聞「Cut In」第58号 2007年2月号)
(小笠原幸介)
【上演記録】
宮沢賢治作『セロ弾きのゴーシュ』 横濱。リーディングコレクション#2参加作品
横浜相鉄本多劇場(2月23日-25日)
演出 大岡淳
出演 今井尋也(メガロシアター) 佐山花織 大岡淳
スタッフ
音響/和田匡史(第七劇場)
照明/木藤歩 (balance,inc.)
舞台監督/小野八着(Jet Stream)
宣伝美術/西村竜也
記録撮影/升田規裕(M’s Video Group)
制作/薄田菜々子(beyond)
プロデューサー・総合ディレクター/矢野靖人(shelf)
** ポスト・パフォーマンス・トークゲスト!
23日(金) ミュージシャン、港大尋氏